逃げてみようか。唐突に思った。

━━このまま、逃げてしまおうか━━

彼女は追いかけてくるだろうか。
帰らぬ自分を探して、身一つで。
あの時のように?

きっと来る。
いや、多分来ない。
きっと来る。
いや来ない。



籠を逃れて地獄にくだる 前編




すぅと大きく息を吸い込むと、冷たい空気が肺を焼いた。
予想以上のツンとした痛みが胸を突く。吸い込んだ息をのみ込んで痛みをやり過ごして。
ゆっくりと吐き出すと、それは白い靄となって眼前に散った。

南東北の冬はじんわりと寒い。
山間は別として、平地では着こめば何とか凌げる程の気温と、そこまで深くはない雪と。
突き刺すような冷たさの外気でない分、じわじわと気がつかないうちに体温を奪っていく。
静かに降り出した雪はまだ薄らと道を覆い隠しているだけだ。
夕焼けに反射して結晶がきらきらと輝いていて、自然と目は細くなる。
髪と顔に落ちてきたぼた雪を手で払い落す。大きな雪の粒はすぐには消えず、何秒かしてから手の平の上で丸い水滴になった。

「積りそうですね、これは」

人垣から離れた所にぼんやりと立っていた自分を気遣うように、男が一人近づいて声をかけた。
かっちりとした制服に身を包んだ姿は固い雰囲気を漂わせてはいたが、表情は柔らかい。
重たい仕事をようやく終えられそうな段階に来て安堵したのだろう。あちこちで忙しく立ち働いている他の者たちも皆、それは同じようだった。

「そうで御座るな。恐らく夜の間も止まずに、降り続くのでは」

しんしんと降る雪を眺める。雪も降る時には音がするのだ。静寂であればあるほど響く。
耳を澄ませて息を潜めると、雪の降る音だけで脳が一杯になるようだ。
空を見上げると、次から次へと落ちてくる白い粒が、視界を覆った。

「ご苦労様でした、緋村さん。お陰様で滞りなく片付きました。あとはもうこちらで出来ることばかりです。
 こんな面倒な仕事を依頼してしまい申し訳ありませんでした。さぞお疲れでしょう」

「いや、何。それほど面倒だった訳では。どうぞお気遣いなく」

警察からの諸々の依頼━━それはたいてい厄介な逃走犯を捕縛するための戦力として━━を受けるのは初めてではなかったし、
特別今回の案件が困難だったという印象もない。
逃げていた犯人は確かに警察の者たちが相手にするには難しい、腕の立つ男ではあったが。
自分がこれまでに対峙してきた『厄介な者たち』と比べれば、いや比べるのも馬鹿馬鹿しいくらいの、
拍子抜けするほど簡単な相手であった。

ただ今回の依頼がいつものそれと違っていた所があるとすれば、『距離』という一点に尽きるだろう。
逃げた男は警察の捜査を掻い潜り、はるばる南東北まで出向くことになってしまった。
東京からは50里(約200q)以上離れている。自分が走ればそれほど大した距離ではない。
大した距離ではないが、彼女にとっても、そうだろうか。

(それもこれも、斎藤が居ればあっさりと片付いたはずだろうに)
警察に身を置いているはずの元・新撰組三番隊組長は、どこぞの難しいヤマを解決するために僻地に行っているとかで、
今回の依頼には全く関わってくることは無かった。
━━愛想を尽かされた━━というのも変な言い方だが、あの男の興味はもはや自分には無い。
これからも多分、顔を合わせることなど無いのだろう。

西南の方角へ目を向ける。
ここから50里。休まず走り続ければ、明日の昼には帰れるはずだ。
一人待つ彼女の所へ。
休まずに、走り続ければ。

遠く遠く、山の向こうまでを見ようとして、視点はどんどん虚ろになった。
周りの音も遠くなる。雪の降る音だけが大きく響く。
目を開き続けていれば、東京で稽古をしている薫の姿が見えてくるような気がした。
彼女が繕ってくれた襟巻を触ると、自分の吐く息で生地はしっとりと湿っていた。

「あの、緋村さん? 大丈夫ですか? 宿を用意してありますので、ゆっくりと休んでいって下さい。
 この辺りは温泉街に近い。湯に浸かれば冷えた身体も回復しますよ。
 帰路に着くのはこの雪が止んでからにした方がいい。なに、明日には止みますよ、きっと」

ぼんやりと彼方を見つめる自分を労わるように、制服の男が穏やかに言った。

「緋村さん、確か所帯を持たれたばかりなんですよね。実は私もなんです。」
「そうで御座ったか」
「ええ、こんな仕事ですから、妻には寂しい思いをさせます。
 緋村さんも、早くお帰りになりたいでしょう。お若い奥様だということだし、尚更」
「そうで御座るな」
「ご結婚されたばかりだというのにこのような面倒事をお願いしてしまって申し訳ありませんでした。
 お礼を兼ねて後日、奥様にもご挨拶に伺いますとお伝えください」
「……お気遣い、かたじけない」




夜になると、いよいよ雪は本降りとなった。
吹雪いている訳ではないが、止む気配も無い。

木戸を静かに開けると、夜だというのに不思議なほど、外は明るかった。
道も木々も全てが白く覆われていて、僅かな月光を上限まで反射してぼんやりと白く浮かび上がっている。
提灯など無くても十分に動けるだろう。
一歩外に踏み出して、音を立てないよう注意しながら木戸を閉めようとした。

「…緋村さん? どちらへ行かれるんですか?」

寝ぼけ眼のまま浴衣を着た先程の男が、宿の裏口から出ようとしている自分を不思議そうに見ている。
厠にでも行こうと起きたのだろう。
捕まえた逃走犯を護送する者たち以外は、皆宴会でそれなりに酒を飲んでいた。
夜中に目を覚ます者も居ないだろうと、部屋には簡素な書き置きだけを残してきたのだが。

━━間の悪い男だな━━そう思って、小さく舌打ちが漏れた。

「やはり、一足先に帰らせて頂く。また何かあれば、道場までいらしてくだされ」

まだ半分夢を見ているようだった男の目が、ぱちりと開いた。

「え、いや、こんな夜中にですか!? しかも外は大雪ですよ、夜明けを待ってからになさって下さい!
 緋村さんに何かあっては、上の者にも奥様にも申し訳が立ちません…!」

着崩れた浴衣を更に乱しながら、もつれるように男が駆けてくる。
引き留めようと伸ばされた手がこちらに届くよりも数瞬早く、木戸を離れた。

「ご心配なく。夜道も雪道も、慣れていますから」

「いや、ちょっ、緋村さ…!」

男が木戸を潜りぬけた時には、既に剣心の赤い着物は遠くの闇に消えようとしていた。
蒼い顔でその背中を見ながら、男ははたと気づく。

「緋村さん…! そちらは東京とは反対方向です! 欧州街道に出るには逆の道で━━!」

必死の声に背後を降り返った剣心の、その微かな笑い顔を見て、男は叫ぶのを止めた。

「わかってるのか…? ならどうして……」

雪が視界を覆ってしまって、もう影も形も見えない。
呆けたように立ち尽くす男を残し、緋村剣心は雪の降る闇の中を、更に北へと消えた。






***







「本当に、申し訳ありません。何が何でもお引き留めすべきでした」

畏まって何度も頭を下げる男を前に、薫は三杯目のお茶を注ぐ。

「そんな、気にしないでください。警察の方々のせいではありませんよ。
 夫の足はびっくりするぐらい早いんです。貴方が追った所で、見つけるのは無理だったでしょう」

湯呑の六割目まで淹れた緑茶を差し出すと、男は更に恐縮した。
立ち上る湯気が静かに上方へと消えていく。

「あ、どうぞ、それ召し上がって下さい。美味しいんですよ、そのカステラ」

一口も手を付けられないまま乾き始めてしまっているお茶受けを、手で勧める。
せっかく購入しておいた夫の好物も、役に立たないまま賞味期限が迫っていた。早く食べてしまわなくてはいけない。

「恐らく、北の方角へ向かったのだとは思います。どこか寄る所があるのかと思っていたのですが…
 私どもが戻ってもまだ帰宅していないと聞いて驚きました。てっきり緋村さんならば寄り道をしたとしても、
 先に東京に帰り着くのだろうと思っていましたので」

南東北での依頼を終えた日、夜中に宿から発ったという剣心は、それから7日経っても帰っては来なかった。
謝礼を携えて尋ねてきた警察の男にその旨を伝えると、たちまち蒼白になり。
引き留められなかったことを平謝りしながら「今すぐ捜索に出る」と言うのを、薫が何とか押し止めているという状態だ。

「多分、大丈夫ですよ。何か思う所あって、少し遠い寄り道でもしているのでしょう。
 そのうち帰ってくると思いますから、ひとまず捜索だなんてそんな、大事にはしないでおいて下さい」

ピシリと背筋を伸ばして諭すように向かいの相手に告げる。
薫よりも年上のはずの男は、目の前の若い新妻が少しも動揺の色を見せないことに驚いていた。
いくら夫が並外れた強さの男だとはいっても、忽然と姿を消した状況でここまで平然としていられるものだろうか。
いや、恥を見せまいとして気を張っているのかもしれない。きっとそうに違いない。
流石は女の身で剣術の師範を務めるだけのことはある。
しかし内心は夫を心配しているのだろう。こんな、広い家で一人待つ身はさぞ辛かろう。
━━やはり捜索に出ます━━そう言おうと顔を上げて、だが男は声を出すことは出来なかった。

薫が笑っていたからだ。
そしてその笑った顔は、どこかあの、雪の闇へと消えていった剣心のそれと似ていた。

「それ以上の主張は無用」という言外の空気を悟ると、男は諦めたように肩を落として帰り支度を始めた。

「では、お気が変わりましたらすぐにお知らせください。こちらも情報だけは入るように、各所に伝えておきますので」
「ええ、ありがとうございます」






何度も降り返っては頭を下げながら帰って行く男を見送り、薫が母屋へと戻ろうと踵を返すと。
道着に身を包んだ弥彦が道場から顔を出した。

「何だ、もう帰ったのか」

同席すると言ってきかなかったこの弟子を無理やり道場へと追いやっていたので、
さぞやきもきしていたのだろう。
矢継ぎ早に飛んでくる質問にぽつぽつと答えながら家の中へと入ると、
弥彦は苛々したように足を踏み鳴らして後をついて来た。

「ええ、『捜索に出る』なんて言うものだから、止めるのに苦労したわ」
「断ったのか、お前」
「当たり前でしょ。そんな大事にしたくないもの」
「馬鹿か。大事も何も、既に行方不明になってんじゃねぇか」
「やぁねぇアンタまで。たったの7日間帰るのが遅れてるだけじゃないの。
 帰り道のわからない子供じゃないんだから。大げさよ」
「何か事件に巻き込まれて身動き取れなくなってるのかもしれねーだろ。
 警察が動いてくれるってんなら、断る理由はな…」
「あ、アンタ、カステラ食べる? もーせっかく切ったのに、さっきの人、
 一口も食べないで帰っちゃったのよ。もったいない」

居間に入ると、卓袱台の上に置いたままになっていたカステラの皿を取り上げて、薫は弥彦の方へと振り返った。

「少し乾いちゃったけど元が美味しいから大丈夫よね、はい」
「……じゃあ、俺達で、探しに行くか」

差し出された物を受け取ることなく、弥彦はじっと薫を見つめている。
短い沈黙だった。
食べるつもりが無いのだとわかると、薫は皿を持ったまま卓袱台に戻り、ぺたんと腰を下ろす。
添えられていた竹串を掴んで一口大に切ると、ぽんと自分の口へ放りこんだ。
いつもよりパサついているカステラは咽そうになる。
もぐもぐと噛み締めて飲み込むと、喉に詰まりかけながら食道を落ちていった。

「探しに行こう。俺も一緒に行くから」

弥彦がもう一度言った。
薫は更に食べ進めようと構えていた竹串を持ったまま、弥彦を見もしない。

「馬鹿なこと言わないで」
「何でだよ。道場なんて少し休んだってどうってことない」

この愛すべき愛弟子は、薫から見れば、全く筋違いの責任感を持ってしまっているようだった。

剣心と薫のうち、残されたどちらかを急かすのは、常に自分の役目であるとでもいう風に。
その幼い責任感を微笑ましいと思う反面、うざったくもある。
誰も彼も余計な世話を焼き過ぎるのだ。

「どこに居るのかもわからないのよ。わかってるのは北の方に行った『らしい』ってことだけ。
 私たちが探したって見つかるとも思えない。すれ違いになる確率の方が高いわよ」
「そうかもしれねぇけど、じゃあこのままじっとここで待つのか。何もせずに!」

多分、弥彦は恐れているのだ。
ようやく夫婦になった己の師と、憧れの男が離れてしまうことを。
別にこのまま剣心が帰って来ないなどと、そんな無責任な男であると本気で思っている訳ではないだろうが。
だが十年も流浪し続けていた男が、何らかの理由で帰らない。そのことに黙って目を潰れるほど、
二人の関係を信頼してもいないのだろう。
弥彦とてまだ子供なのだ。幸せな夢を、見ていたいのだ。

「な、行こう薫。剣心なんてどこ行ったって目立つ見た目なんだから、探せばきっと見つかる━━」
「五月蠅いわね」

全てを遮断するように薫が言った。
低く冷たい声だった。普段からは考えられもしないような。

「あんた、ちょっと五月蠅いのよ」
「……なっ」
「私が『いい』って言ってるんだから『いい』のよ。
 探しに行こうですって? あんた何様なの。妻が夫の帰りを待つって言ってるんだから、
 『家族』でもない他人が口を出さないでちょうだい」
「………!!」

痛い痛い言葉だった。言う方も、言われる方も。
現実は事実の集合体だ。だが真実とは限らない。
真綿のような柔らかい嘘に包まれた、その奥の奥にこそ、変えられない本物があるのだ。

薫の氷点下のように冷たい目を見て、弥彦は震える手をぎゅっと握った。

「……そうだな。俺は『家族』じゃねぇもんな。わかった……好きにしろよ」

そう言って居間から出て行く弟子の背中を、薫は引き留めずに見送った。
バタバタと玄関を開けて、走り去る音が聞こえる。
━━言いすぎたな━━そうは思っても、追いかけて謝ろうという気にはなれない。

「探す? 誰が? 私が? 誰を? 剣心を?」

腹の底から湧き上がってくる怒りを抑えるのが、もう限界だった。
あのまま弥彦の提言を聞き続けていれば、間違いなく暴れ出してしまう自信があった。
沸点などとうに越えているのだ。

「どいつもこいつも勝手なことばっかり…!」

持っていた竹串を勢いよく目の前のカステラに振り下ろす。
生地を上から下まで突きぬけたそれは、皿の底にぶつかって、バキリと派手な音を立てて折れた。

「私はもうしないわよ、剣心」

竹串だけではまだ足りず、今度は自分の拳を卓袱台に叩きつける。
ガシャンと外にまで漏れる音がして、衝撃で転がった湯呑からは、冷めたお茶が流れた。
拳が痛い。
気持ちはもっと痛い。

「追いかけたり、絶対しないから」

零れたお茶がぼたぼたと膝の上に落ちて、丸く大きな染みを作り始めていた。





→後編