四、分裂する病
残暑が終わると、次に待ちかまえているのは台風の季節だ。風が強く空が厚い雲に覆われる日が増えた。
「干すべきか干さざるべきか、それが問題でござるな」
剣心はここのところ毎日のように洗い終えた洗濯物を前に悩んでいる。外に干せばよく乾く。が、雨が降れば洗い直しが待っている。
「家の中に干せばいいじゃない」
と薫が言うと、
「生乾きの匂いとカビの危険が増えるではござらんか」
などと言って、また悩むのである。
正直そんな悩みなどどうでもいいと薫は思うのだが、彼にとっては重要なことであるらしい。
洗濯物をカビさせるなど主夫の風上にもおけぬ所行だと力説されれば薫はそんなものかと納得するしかなかった。
洗濯物と空模様を交互に見ては考える、というのを繰り返す剣心を放置して、薫は道場へと向かう。
そこでは木刀を携えた抜刀斎を前に、弥彦が床に伸びていた――これも最近ではよく見る光景の一つになっている。
「ちょっと、気絶しちゃってるじゃない。ここまでやることないでしょう」
伸びている弥彦の頬を叩きながら薫が抗議する。しかし返事はいつも同じだ。
「手加減して相手をしても意味がない」
顔色一つ変えず当然のように言って、抜刀斎は弥彦の襟首を掴んだ。そのまま床を引きずって行き、
道場の出口に用意してある桶に弥彦の頭を突っ込む。勿論水は並々と張ってあるので、数秒もすると弟子は息を吹き返した。
「ぐぶほぶはっ…殺す気か…!」
「さっさと顔を拭け。『相手をしろ』と言ったのはお前だろう」
「水死させろとは言ってねぇ!」
「ではお優しいお師匠様の稽古で満足するんだな。そもそも俺が相手をする義理はない」
「ちっ…」
床に置いてあった手拭いで顔を拭き、弥彦はまた竹刀を拾いに行く。
「『お優しいお師匠様』って私のこと?」
薫が尋ねると、抜刀斎はちらりと視線をよこして「他に誰が居るんだ」と答えた。
彼は躊躇わずに本当のことを言う。薫が喜ぶか喜ばざるかに関わらず、本当のことだけを口にする。
どこで間違えたのかと問われれば、もう最初から全てが間違っていたのだと答えるしかないだろう。
彼らを分かつのは死ですらなかったはずなのだ。それを分けたのは他でもない、薫である。
三人での暮らしが始まってから一ヶ月半が経とうとしていた。いまだ緋村剣心が二人になったことは弥彦以外の人間にはバレもせず、表面上は平和な日々が続いている。
その日は午後になると来客があった。剣心が対応したその客は例によって警察からの使いで、
なにそれの件に関してどこそこまで手伝いに来て欲しい、というような依頼をしに来たらしいが、内容については薫はよく聞いていなかった。
用件がしたためられた手紙を道場に居た薫と抜刀斎に差し出して剣心が告げた言葉に、驚きすぎたからである。
「抜ちゃんに行かせるつもりなの!?」
絶叫に近い音量で聞き返すと、剣心はうんうんと頷いて肯定を示した。
「そうそう、拙者今日はやることがたくさんあって、警察の案件に割く時間はないのでござる。だから代わりに行って貰おうかと」
「や、やることって…?」
「洗濯物を見張るのと薪割りとそれから夕餉の仕度もあるし」
「そ…」
そんなもの別にあなたじゃなくてもできるじゃないの、と言おうとして、しかし薫は言葉を喉で詰まらせた。
悩んだ末に結局外に干すことにした洗濯物を突然の雨から守らねばならぬのだ、ということを力説する剣心が、
本当に何の陰りもなく”そうすることが当然”と思っている顔をしていたからだ。
まるで自分にとっての最重要の仕事は警察の依頼を受けることではないのだと、
それよりもこの家の家事をこなすことが優先されるのだと、本気で思っている顔をしていていた。
「わかった。それには代わりに俺が行く」
呆然としている薫を置き去りにして、抜刀斎は剣心から手紙を受け取ってしまった。書いてある依頼内容を確認している彼の腕を、薫は慌てて掴む。
「ちょと待ってそんなの無理よ…!」
「どうして」
「だってあなた…」
――誰も殺さずに依頼を終えて帰って来られるのか――
その疑問もやはり薫は言葉にすることができなかった。それを聞いてしまったら、彼の全てを否定することになる気がしたからだ。
読み終えた手紙を懐に入れて、抜刀斎は完全に蚊帳の外に置かれていた(自ら蚊帳の外に出ていたとも言う)弥彦を振り返る。
「悪いが今日はもう相手はできない」
「…おう、わかった」
短いやりとりをして、抜刀斎は次に剣心に手を差し出した。
「よこせ」
「ああ、そうでござるな」
剣心は腰に差していた逆刃刀をするりと抜いて渡した。受け取った抜刀斎はさっさと歩き出す。
「き、気をつけてね…!」
薫がどうにか絞り出した声に一瞬立ち止まり、小さく頷いて彼は道場を後にした。
「さ、拙者は薪割りの続きをしないと。そうだ薫殿、今日の夕餉は何が食べたい?」
見送った抜刀斎のことなど全く気にせず、剣心は薫に尋ねる。薫は道場の入り口を見つめたまま小さな声で答えた。
「…そうね…あなたの作るものなら、なんでもいいわ…」
「そうでござるか? じゃあ鰈の煮付けと根菜の煮物と、ああそうそうヌカ漬けもそろそろ頃合いかな」
楽しそうに笑いながら献立を考えている剣心には、本当に何一つ陰りがない。
身二つに分かれたことで、剣心は煩わしいものを全て抜刀斎に明け渡してしまったようだった。
彼の根底にある攻撃性も、他人に対する明け透けな厳しさも、徹底した現実主義も。これまで彼が上手に隠してきた、
もしくは上に何かを塗り固めて外には見えないようにしてきたはずの、自分自身の煩わしい部分の何もかもを。
重い荷物を全て抜刀斎に持たせてしまった彼は、実に晴れやかだ。
よく笑うし、よく喋る。知り合ってからのこれまでの中で恐らく最も剣心が幸せそうに見えたこの一ヶ月半。
しかし屈託なく笑う彼を見て、薫は何かが胸につかえるような居心地の悪さを自覚せずにはいられない。
これでいいのか。――本当に?
***
剣心が腕によりをかけて作った夕食は実に美味だった。見た目の華美さはなくとも一つ一つ手が込んでいた。
鰈の煮付けは生臭さなどかけらもなく新鮮な白身がほくほくと口の中で解けたし、根菜の煮物は煮くずれ一つせず美しい形を保ったまま、
ちょうど良い味付けが中までしっかり沁みていた。剣心が一から育てたのだと胸を張るヌカ漬けは、
なるほどその辺の店で出されるものよりよほど完成度が高い。手間と時間を惜しまず費やして作られた食事には文句のつけどころがなかった。
「なんか、お前料理の腕さらに上がったな」
久しぶりに一緒に食卓を囲んだ弥彦が誉めると、剣心は満足そうに「ありがとう」と言った。
「薫、お前やばいぞこのままじゃ。家事能力の差が剣心とお前じゃ月とスッポンどころかスッポンが地にめり込んで埋まってるぐらいになってるぞ」
「…そうね」
「剣心に教えてもらえよ、せめてまともに味噌汁ぐらいは作れるようにならねぇと」
「…そうね」
「…?」
いつもなら『うるさいわよ』と言いながら張り手が飛んでくるはずなのに、やけに素直に頷く薫に弥彦は首を傾げた。
「いいのでござるよ弥彦、薫殿はそのままで」
「そのままったって、飯ぐらいまともに作れた方がいいじゃねぇか。このままじゃお前が居なきゃこの家で人間の食い物が出てこない状態のままだぞ」
「良いではござらんかそれで」
「はぁ? 何がいいんだよ」
「あ、薫殿、こんにゃくも食べて。取ってあげる」
空になった薫の小鉢を取り上げると、剣心はいそいそと煮物をよそう。薫は小さく「ありがとう」と言って受け取り、黙々とそれを食べた。
「……」
結局最後の質問を無視された形になった弥彦は、二人の様子を見て自分も黙って食事を再開した。
(さてはまたこいつら面倒くさいことになってんだな…俺はもう関わらない。関わらないったら関わらないぞ)
ほとんど噛まずに残りを胃に流し込んで箸を置く。
「ごちそーさん、じゃ、俺帰るわ」
素早く弥彦が立ち上がると、薫が凄い勢いで顔を向けた。
「泊まっていかないの?」
縋るような目で尋ねられて、弥彦は『やっぱりな』と頭の中だけでつぶやいた。泊まったが最後、自分が面倒事に巻き込まれるのは目に見えている。
薫は何かというと弥彦を緩衝材に使いたがるのだ。それももうできないのだと、いい加減理解して貰わなければいけない。
「いかねぇよ。明日は燕が朝飯作りに来てくれることになってんだから」
「そう…」
残念そうに肩を落とす薫の姿に、後ろ髪を引かれる気持ちは弥彦にもあった。できることならここに居て、話を聞いてやりたい。
でもそれじゃあ何も進歩しないではないか。薫の向かいでは剣心がニコニコと二人のやりとりを見守っている。
(何がそんなに楽しいんだか)
ここ最近の剣心の晴れやかさは少し異常だ。それは弥彦にもわかっていた。
昨日なんて近所に住むどこぞの爺さんと世間話に花を咲かせていて、下町老人特有の下品な下ネタにも声を上げて笑い転げていた。
通りがかってそれを目にした弥彦は、剣心の頭のネジがどこかに飛んでいったのかと思ったぐらいだ。
しかしそういう違和感をどんなに感じていたとしても、弥彦はもう首を突っ込むつもりはなかった。薫と剣心の間に起こることは薫と剣心の問題だ。自分には関係がない。
「じゃあな」
(しょうがねぇから骨ぐらいは拾ってやる)
唯一人の師を心の中で励ましながら、弥彦は振り返らずに道場を後にした。
夕食を食べ終えて剣心が片づけをしている間に、薫は風呂を沸かすべく薪をくべに向かった。
ここ数日の不安定な天気のせいで湿っているのか、火はなかなかつかなかった。ついたと思っても吹き方が下手なのかすぐに消えてしまうのだ。
そうこうやって格闘しているうちに、食事の片づけを終えた剣心がやって来て竹筒を取り上げられてしまった。
「拙者がやるから、薫殿は風呂の身支度をしておいで。沸いたら声をかけるから」
「あ、うん、ありがとう」
先ほどあれだけ苦労したというのに、剣心がやると薪はあっさり燃えだした。何をするにも彼の方が手際がいい。
すごすごと母屋へ戻る薫の後ろで、剣心が鼻歌を歌っているのが聞こえた。
手早く風呂を済ませると、薫は自分の部屋ではなく客間へと向かう。抜刀斎のために用意した布団は、ここ何週間かは薫のための布団になっていた。
剣心が前回警察からの呼び出しで家を空けた日、彼が言うところの『浮気』をしてしまったあの日以来、
薫は自分の部屋では寝ていない。どんな顔で剣心と共寝をすれば良いのかわからなかったし、
道場で寝起きをする抜刀斎にまた何を聞かれるかと思ったら、どうしても客間に逃げるしかなかったのだ。
剣心はそれについて何も言わなかった。彼は相変わらず薫の部屋を占拠している。
そして毎晩戻ってこない薫の分まで布団を敷いて、そこで一人で眠り、朝起きて使われることのなかった布団をまた綺麗に畳むということを繰り返していた。
彼は恐らく、薫が自分から戻ってくるのを待っていたのだ。選択権を与えておいて、そしてその結果選ばれるのは自分だと、信じて疑っていないようだった。
だから風呂から上がったらしき剣心が客間の外の廊下に立った時、薫は自分がどうすべきかをいよいよ決めなくてはいけなかった。
「薫殿?」
外では強い風が吹いていて、雨戸をガタガタと揺らしている。その音の隙間に沁み入るような声で、剣心は薫を呼んだ。
「薫殿、戻っておいで」
人を地獄に誘う悪魔とは、きっとこんな風に優しい声をしているに違いない。
「今日は『あれ』も居ないのだから、気にすることはない。一人で寝るのは寂しいよ、戻ってきておくれ」
――ええ私も寂しいわ。寂しくて寂しくて仕方ない。そしてそれは彼も同じ。あなたの煩わしいものを全部引き受けてしまった彼もまた、同じように寂しいのよ――
「拙者を見捨てるの?」
――違う違うそうじゃないそうじゃない。私は誰も見捨てない。私はあなたを見捨てない――
たまりかねて部屋の障子を開けた時、薫は目の前に立つ剣心の顔がよく見えなかった。見えているのに見えないのだ。
「ああ薫殿、やっと出てきてくれた…」
そう言って嬉しそうに笑う顔も、薫にはよく見えない。
二つの腕が伸びてきてたちまち薫を絡め取る。そのまま赤子を抱き上げるように持ち上げられて運ばれる間、剣心は薫の身体に頬をすり寄せ続けていた。
自室の障子を足で開けた剣心に、二組敷かれた布団の片方に落とされた。そのまま覆い被さってきた彼の赤毛からぽたぽたと滴が落ちる。
ちゃんと拭けと何度も言っているのにそれをしないのは、小言を言いつつ毎回薫が拭いてやっていたからだ。
「薫殿…」
首筋に鼻を押しつけている剣心の頭がだんだんと下に下りていく。胸元を這う頭を撫でてやると、嬉しそうに彼は顔を更に押しつけた。
薫は片方の手で剣心の頭を撫でながら、もう片方の手で浴衣の袂を探る。握りしめて取り出したのは一振りの小振りな懐剣だった。
「ごめんね剣心。私が間違っていたの」
***
転がるように家を飛び出した時には、外は強い雨が降り出していた。雨だけでなく当然のように風も強い。
恐らくこのまま嵐になるのだろう。顔に叩きつける雨粒のせいで少しの先も見えなかった。
玄関で引っ掴んできた草履を急いで履く。まだ剣心が追いかけて来る気配はないが、もたもたしてはいられない。
自分に覆い被さる剣心の後ろ首をめがけて振り下ろした懐剣の柄は、
見事に的中して彼を昏倒させた。うまくいったのはひとえに彼が気を緩ませていたからだろう。
とは言え薫の力などたかが知れているので、ほどなく意識は戻るはずだ。薫と剣心では足の速さは何倍も違うから、
彼の視界に入ったが最後、一瞬で追いつかれてしまう。
とにかく薫は走り出した。視界は悪い。顔に垂れる水のせいで目も禄に開けられない。
雨で浴衣の裾が足に貼り付いてうまく走れなかった。何度も転びそうになって地面に手をつく。その度に後ろを振り返り、また立ち上がって走った。
家から五分ほど走り続けた時だろうか。通りの角を曲がったところで、向かいから歩いて来た者と派手にぶつかった。
ぶつかったと言うよりも、抱きとめられたと言う方が正しい。突然視界を塞がれて誰かの懐に抱え込まれた薫は、息を呑んで短い悲鳴を上げた。
「きゃぁ!」
「薫?」
聞き慣れた声に顔を上げれば抜刀斎がこちらを見下ろしている。
「あ、ば、抜ちゃん…」
「こんなところで何してるんだ。雨も風も強いこんな夜更けに」
編み笠を被った彼は目を見開いて薫の濡れた顔を手早く袖で拭った。どしゃ降りの雨が笠の端から細い滝をいく筋も作っている。
彼も着物はずぶ塗れだった。左頬に貼った湿布が雨を吸って剥がれかかっている。
「あ、あ、あの…わたし…」
抜刀斎の胸を押して体勢を立て直す。自分の足だけで立ったところで、薫は両手に触るぬるりとした感触に息を呑んだ。
雨ではない。雨よりももっと重く粘度の高いもの。両手の平を見れば、暗闇と見分けがつかないくらいそこはどす黒い何かで濡れていた。そして鼻をつく鉄の匂い。
「こ、これ血じゃないの、どこか怪我してるの!?」
慌てて抜刀斎の胸元を探る。探ったところは全てぬるりとした血液が付着していた。流血しているとすれば尋常な量ではない。
「怪我はしてない」
「でも血がー…」
「全部返り血だから」
必死に傷を探していた薫は、その言葉に動きを止める。全部返り血? だとすれば一体何をどれだけ斬ったのか。
「大丈夫。心配ない」
「心配ないって…何が…?」
「誰も殺してない」
「こ……」
「殺してはいない。殺しては」
抜刀斎が笑うのを、薫はこの時初めて見た。彼は誇らしげですらあった。
――殺してはいない。誰の命も奪っていない。だから薫が心配することなど何もない――
「あ…ちが…それは…」
震えながら後ずさりする薫を、抜刀斎は不思議なものでも見るような目で見ていた。どうして薫は誉めてくれないのか。笑って『お疲れさま』と言ってくれないのか。
薫は「ちがうちがう」と言いながら首を振った。目の前に立つ彼は、善悪の境目を他者である薫の意向に沿って決めようとしている。
かつての幼い彼がそうしたように。力も技もあるけれど、それを正しく使うための指針だけがぼとりと抜け落ちている。
剣心が煩わしいものを全て抜刀斎に明け渡したように、抜刀斎もまた彼が持つべき温情を剣心に明け渡したのだ。
「薫? どうしたんだ?」
足を踏み出して手を伸ばした彼の手を、薫は勢いよく弾き落とした。
「なー…」
驚いて動きの止まった抜刀斎の身体を渾身の力で突き飛ばす。ちょうど道の端に立てかけられていた簾に突っ込んで足を取られた彼を残し、薫は一目散に走り出した。
***
吹きすさぶ雨と風の中、神社の境内にたどり着いた薫は肩で息をしながら本殿の階段に倒れ込んだ。這うように登って鈴を鳴らす。
「ごめんなさいごめんなさいわたしが間違っていました」
吹き込んだ雨に濡れて鈴はガラガラと鈍い音を立てる。
「わたしが間違えたんです。わたしが全部わるかった。だから返してくださいお願いします。お願いします彼を元に戻してくださいお願い…!」
あの梅雨明け直後の夏の日に。薫が一人でここで祈ったことを、できることなら取り消したかった。
『どうかどうか。彼が背に負う荷物がほんのわずかでも少なく、あわよくば消えてなくなってしまいますように』
そんなことを祈った自分が一番愚か者だ。背負う荷物がなくなれば、それはもう緋村剣心ではなくなるではないか。
負うものがあるから彼は彼なのだ。荷物だけ捨ててもいけない。荷物だけを持っていてもいけない。全部を持っているから彼は彼として居られるのだ。
そんなこともわからずに、ただ”苦しい彼を見て自分も苦しくなるのが嫌”だったから、薫は安易に祈ってしまった。
賽銭箱にすがりついて中を探る。意味がないのはわかっている。それでも自分がそこに投げ入れたものを取り戻したかった。
「返してください。返してください謝るから。罰があたっても仕方ない。わたしが間違っていたんです…!」
雨と風は更に強くなり、遠くで雷までもが鳴り始めた。薫が何度目かの謝罪を口に出した時、神社の裏の林から別々に二人が駆け込んで来た。
「薫殿!こんなところで何を…!」
「薫!いったいどうして…!」
賽銭箱に突っ伏していた薫が顔を上げると、駆け寄ってくる剣心と抜刀斎が見えた。同じ顔をしているのに違う二人。本当は死ですら分かつことのできなかった二人。
ふらふらと立ち上がった薫は本殿の階段を転がるように下りて、なおその場から逃げようとした。彼らとこれ以上どう向き合えば良いのかわからない。
「薫殿!」
「薫!」
雨でぬかるむ地面に足を取られる。林の中に逃げ込もうとして木の根に躓き、薫は派手に転んだ。
すぐ後ろまで二人の足音が迫っている。捕まってしまえばもう、薫自身を二つに裂くしか術はないような気がした。
――自分の身こそを二つに分けられたなら、どんなにいいだろう。
二人の手が薫の身体に触れるか触れないかの瞬間だった。周りの景色が昼間のように明るく浮かび上がり、次いでバリバリという鼓膜に響く強烈な音が降ってきた。
すぐ目の前の木に雷が落ちたと理解する間もなく、意識はブツリと途切れた。
***
最初に目を覚ましたのは薫だった。太陽は既に東の空に登っていて、昨晩の嵐が嘘のように晴れ渡っている。
泥にまみれたまま地面に倒れていた薫は、上半身を起こして目に飛び込んで来たものに肝を冷やした。
すぐ目の前の大木が真っ二つに折れている。
もう少し場所がズレていれば落雷が直撃していただろう。少なからず影響を受けたのか、身体中が痺れている気がする。
命があっただけマシというような辺りの惨状だった。
続いて自分の足下の方に目を向けた薫は、そこに倒れている剣心に気がついて更に心臓を縮ませた。彼はまだ意識を失っているらしい。
自分は無傷で済んでいるが、彼もまた無傷とは限らない。慌てて這い寄り、その肩を控えめに揺さぶった。
揺さぶっても目を覚まさない。呼吸を確認しようと肩を持ち上げてひっくり返す。俯せから仰向けの状態にさせて、見えたその顔を見て薫は息を止めた。
――左頬に剥がれかけた湿布がついている。
とっさに周囲を見回したが、他に倒れている者は居ない。ということはこれは、剣心ではなく抜刀斎なのだろうか? では剣心はどこへ行ったのか?
恐る恐る湿布の端を摘む。ペリペリと肌を引きつけながら剥がれたその下には。
紛れもない十字の傷があった。
「う…」
頬の傷を撫でる冷たい薫の指に、彼が反応して呻く。
何度か瞬きをして目を開いた彼は、目の前の猫のような大きな黒い瞳からポタポタと滴が落ちるのを見て、困ったように笑った。
「おはよう薫殿。一体何を泣いてるの――?」
了
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