一、そんなことはあり得ない
目の前に立つ二人の人物を見て、薫はひたすら頭を抱えた。一体何がどうなったらこんな事態が起きるのか。
理解しようにも脳が処理することを拒否しているのか、全く思考が纏まらない。纏まらないまま先ほどから何度めかの同じ疑問を繰り返した。
「なんで…剣心が二人居るの…?」
「…残念ながら拙者にもそれはわからないでござる」
パニックを起こす寸前の薫を労るように剣心はおろおろと答えた。
「おれに聞かれてももちろんわからないからな」
そして剣心の横に立つもう一人の男――長い赤毛を高い位置で結い上げた、剣心とうり二つの顔をした男――は、
ぴくりとも表情を動かさないまま薫を見下ろして言った。その顔は確かに剣心とそっくりだった。違っているのは左頬にあるはずの十字傷が影も形も見当たらないことだけ。
「き、きっとあれね。世の中には自分とよく似た人間が三人居るっていう、あれよ。
剣心みたいな見てくれの人なんて他に居るはずないと思ってたけど、居たのね。凄いわ。晴天の霹靂だわ。恵さんに教えたらきっと学会に発表できるわ。
…で、あなたお名前は?」
薫が顔をどうにか笑顔で取り繕って、剣心によく似た顔の男に尋ねた。実はこの質問も既に三度目である。そしてその回答も同じく三度目。
「……緋村剣心」
何度聞いても男の口から出てくる答えは同じだ。
薫はいよいよ気が遠くなった。頼みの綱の剣心――十字傷がある方のいつもの剣心――は困ったように笑うだけで、男の言うことを否定するそぶりもない。
「じゃあなに? あなたは緋村剣心で、あなたも緋村剣心で、どっちも緋村剣心だってことなの?」
目の前の二人の男を交互に指さして薫が確認する。二人は各々頷いた。
「だからさっきからそうだと言ってる」
「そういうことになるので…ござろうか?」
――聞いてるのはこっちだ馬鹿たれ――
激しい頭痛と息切れがし始めて、薫は膝から崩れ落ちた。こんな馬鹿なことは夢に違いない。
一度眠って目が覚めれば、くだらない夢を見たものだと、笑い話のタネになるのに違いない。
駆け寄ってくる二人の男から伸ばされた手を霞む視界に映しながら、薫はいっそ本当に意識を失ってしまいたいと思った。
事の始まりは前日の朝にさかのぼる。
梅雨が明けると、待ってましたとばかりに暑い夏がやってきた。絶え間なく鳴き続ける蝉の声は耳鳴りのように頭に反響し続けている。
少しでも陽射しから逃げようと道端の日陰を渡り歩いていた薫は、何度拭っても滴り落ちてくる額の汗に辟易してとうとう音を上げた。
「もうだめ。もう無理。剣心、ちょっとどこかで一休みしよう。このまま家まで歩いたら私たぶん干物になる…」
「おろ、疲れたのでござるか」
数歩先を歩いていた剣心は、薫の悲壮な声を聞いて振り返った。憎らしいことに彼は汗らしき汗もかいていない。
――暑くないのだろうか。いやそんなはずはない。彼だって人間だ。この気温と照りつける太陽がその肌を焼いていないわけはない。
すると何だ。剣心は汗をかかない部類の人間なのだろうか。鍛錬のたまものというやつか。緋天御剣流の奥義を極めるとそんな特異体質になるというのか。
おめでてーな。それともあれか。心頭滅却すれば火もまたなんちゃらというやつか。坊さんか。あんたは修行僧か――
もはや支離滅裂な悪態を頭の中でつきながら、薫はすぐ横に立っていた木の幹に寄りかかった。
持って歩いていた荷物が更に重みを増したような気がする。どこかで涼みたい。できれば冷たい飲み物も飲めると尚いいのだが。
朝起きて、『買い物に行こう』と言い出したのは薫の方だった。
新しい浴衣を仕立てるための生地が欲しいとは前々から思っていて、道場の稽古も出稽古も休みの今日は少し遠出して目当ての生地を探すのには最適だった。
仕立てる浴衣は自分と剣心の分と、ついでに弥彦と燕ちゃんの分も作ろうか。燕ちゃんに作るなら妙さんにも作らなくては。
好みがあるだろうから剣心には柄を自分で選んでもらおう――ついでに他の細々とした買い出しの荷物持ちもしてもらえば一石二鳥だ。
既に上がり初めていた気温と雲一つない空の様子を見て、もちろん剣心は難色を示した。薫が『買い物に行こう』と言って出かけると決まって長くなる。
短時間で帰って来れるとは到底思えず、確実にここ一番の暑さになるであろう陽射しの強さを鑑みて、剣心は丁重に進言したのだ。
『今日はやめておいた方がいい』と。その進言が薫に聞き入れられることはなかったのだが。
「だからそんなに一度に買い込まない方がいいと言ったのに」
大きな風呂敷包みを抱えて今にもしゃがみ込みそうになっている薫の顔をのぞき込んで、剣心はやれやれと肩をすくめた。
買い物に繰り出してみると、やはり薫はあれやこれやと予定外のものまで物色し始めた。
剣心には何に使うのかよくわからない裁縫道具に始まり、果てはまだ家に在庫のある調味料の類まで。
店から店を渡り歩き、町の端から端までを何往復したかわからない。剣心の両手が塞がったところで彼が強く止めなければ、荷物は更に増えていたことだろう。
「…だって、まとめ買いした方がお得だし、せっかく足を伸ばしたんだから今日買えるものは買った方がいいじゃない」
「だからって荷物の重さに体力まで削られてたら元も子もない。休憩するのに茶店の一つにも寄ればお得な分なんてあっと言う間にチャラでござる」
「…茶店になんて寄らないもん」
「はて、拙者はてっきり『冷たいお茶が飲みたい――!』とでも言うのかと。あそこに出てる茶店が目に入ったから我慢できなくなったのでは?」
そう言って剣心が顔を向けた方向をちらりと横目で追って、薫はぐぬぬと声を詰まらせた。少し先に茶店があることは薫も気づいていた。
というか正にその店先に立っているのぼりに『麦茶』の文字がはたはたとはためいているのを見て、しめたと思って立ち止まったのだ。
こうも見事にバレていたのでは素直に認めるのも悔しいが。
さてどうしようと顔を上げると、自分が寄りかかっていたものが木の幹ではないことに薫は気がついた。
「あ、ここ。ここよ。私はここでちょっと休んで行きましょうって、そう言おうと思ってたのよ」
とってつけたように薫は自分の隣に立っているものを指さした。木の幹と思って肩を預けていたのは古い鳥居で、
その向こうには石畳が並んでいる。石畳はちょっとした林の中へと続いていて、奥の方に神社らしき建物が見えた。薫が指さしたものを見て剣心は呆れたように首を振った。
「別に意地を張らなくても、あっちの茶店に入って何か飲んで休めばいいでござるよ」
「意地張ってるわけじゃないよ。本当にここで休もうって言うつもりだったのよ」
実に苦しい虚勢だが、こうなると薫は後に引けない性分だ。
「お参りもできるしいいじゃない。やだ、私ってなんて信心深いのかしら」
言いながら鳥居を潜って奥に進むと、剣心はもう何も言わずに肩を竦めて薫の後に続いた。
石畳の先にあったのはこじんまりとした古い神社だった。神主らしき者は見当たらないがきちんと管理はされているらしく、
廃神社というわけでもなさそうだ。こぎれいに掃除されているし、賽銭箱も置かれている。小さいながらも手水舎があって、その横には有り難いことに井戸も設置されていた。
「ほらやっぱりここに来て正解だわ。茶店に入らなくても十分休憩できるじゃない。私こういう勘はいいのよね」
「……勘ねぇ…物は言い様…」
「何か言った?剣心」
「いやいや、なんでも」
手水舎で手と口を清めると、薫は財布から小銭を数枚取り出して賽銭箱へと投げ入れた。続いて剣心も懐の財布から小銭を出して投げ入れる。
賽銭箱の底で小銭同士がちゃりんちゃりんとぶつかる音がした。
鈴から垂れる太い縄を二・三度揺らす。カランカラン。剣心も縄を揺らす。カランカラン。
二礼二拍手一礼の形式を守ってお参りを終え、薫はふぅと息をついて井戸へと向かった。釣瓶を落として引き上げようとすると、横から剣心がそれをするりと掴む。
「拙者がやろう」
「あ、うん、ありがとう」
引き上げて貰った水を柄杓で掬い一気に飲む。乾いた喉に落ちていく水は冷たく、干からびる寸前だった身体が生き返るようだ。
「はい、剣心もどうぞ」
「ああ、有り難う」
再度水を掬った柄杓を剣心に渡し、薫は盥に残った水で手拭いを濡らした。軽く絞って首筋にあてがう。ひんやりとした布が血流の温度を下げて、とても気持ちがいい。
「少し座って休もうか」
「ええ、そうしましょう」
日陰になっている庇(ひさし)の下に荷物を下ろして腰掛ける。ずっと歩き通しだったせいで疲れきっていた足腰がじんわりと緩んだ。
高床式の神社の縁なので、座っても地面に足はつかなかった。なんとなく薫は足をぷらぷらと揺らす。
行儀が悪いとはわかっているが、どうせ剣心はそんなことを咎めたりはしないから気にしない。
「剣心も座って」
自分の左側をぽんぽんと掌で叩いて促すと、剣心は頷いて薫の右側に腰を下ろした。
左側の方が近かったのに、わざわざ彼は薫の前を行き過ぎて右側に座った。
なんとなく何かを間違えた気がして、薫は自分の左手をじっと見る。
「剣心、右側が好きなの?」
「は?」
唐突な質問に剣心は思わず間の抜けた声を上げた。薫はよく思ったことをそのまま口にする。
脈絡や前後の導入をすっ飛ばして自分の聞きたいことだけを聞くので、剣心は時々彼女の思考の流れを素早く想像しながら会話しなくてはならない。
しかし彼の想像力にも限界があるので、今回の薫の疑問が何に起因しているのかとっさにはわからなかった。右と左に好きも嫌いも特にない。
「ふと思ったのよ。剣心はだいたい、私の右側に居るなって。歩く時も座る時も眠る時も。わたしあなたに話しかける時、たいてい右に振り向くもの」
「ああ…なるほど。そういうことでござるか」
「そう。だから右側が好きなのかしらと思って。それとも何かのこだわりなの?」
「いや、こだわりというほどのものでは…」
「というほどのものではないけど、何かしらはあるの?」
剣心は苦笑した。薫はいったん気になり出すと納得のいく答えを得るまで諦めない。大きな丸い目が興味深そうにこちらを伺っている。
「別に…何というほどのことはないのだが…その…できれば…」
「できれば?」
「できれば…右側は空けておきたいなと思って…」
「……」
「…利き腕は、いざという時にすぐに動かせるようにしておきたいから」
言いにくそうに今にも消え入りそうな声の剣心の説明を聞いて、薫は数秒の間呼吸も瞬きも止めた。
時間が止まったように二人の間は静かで、それなのに蝉の声がやたらと響いている。ひゅうと小さく息を吸って呼吸を再開した薫が、大きく頷いて地面に視線を落とした。
「…そう。そっか。なるほど。そうよね。うん。考えてみれば当然だわ。右腕は、空けておきたいわよね」
剣心の腰に刺さっている物をちらりと見る。そこには出会った時から変わらず逆刃刀があって、
それは逆刃とは言えれっきとした日本刀であった。刀は抜けなければ意味がない。使えなければ飾りと同じだ。
そして彼は昔も今も変わらず一流の剣客だ。利き腕を常に使える状態にしておくことなんて当たり前なのだ。呼吸をするのと同様に、彼に染み着いた習慣の一つ。
「もっと早く言ってくれればいいのに。私、全然そういうこと気が回らないから。今まで煩わしかったこと何度もあったでしょう?ごめんね」
『自分が剣心のどちら側にあるべきか』なんて、薫は全く気にして来なかった。日常生活のいついかなる時も気にしていなかった。
きっと剣心はいつもさりげなく薫を左に置いて、自分が右側に居られるように動いていたのだろう。
「そんなことはない。煩わしいなどと思ったことは一度もない。そんなこと、薫殿が気にすることではないのでござるよ」
剣心は笑う。いつもそうだ。彼が薫に対して苦言を呈することなどほとんどない。だから頭の中で薫はいつも、自分で自分を殴らなくてはいけなかった。
彼が抱える色々なものに気づく度に、心の中でいつも、自分で自分を罵らなくてはいけなかった。そして自分で自分を必死に励ますのだ。
「でもこれで一つ覚えたから。これからは私も気をつけるようにするから。私の特等席はあなたの左側ってことで。ね!」
「仰る通り。拙者の左側は薫殿の特等席でござるよ」
それからしばらくの間二人でぼんやりと休憩し、薫がようやく『帰ろう』と言い出したのは太陽がだいぶ西に傾いた頃だった。
二人で境内を出ようとした時、剣心が立ち止まって声を上げた。
「しまった。夕餉の材料を買い忘れた…!」
剣心は一生の不覚とばかりに悔しそうな顔をしている。
「え、でも必要なものは全部買ったと思うけど」
購入したものを思い出しながら薫が言うと、剣心はいやいやと首を横に振った。
「今日は蕎麦を湯がくつもりだったのでござる。なのに薬味を何も買っていない…」
「あ、確かに。でもいいよもう。今日は薬味なしで」
「いや、ちょっと拙者ひとっ走り買い足しに行ってくる」
「ええ?今から?大変だから行かなくていいよ。荷物も多いし。持てないでしょ?」
「薬味の野菜ぐらい懐に突っ込めばどうってことはない。まだ明るいし家まではそんなに距離もないから、薫殿、すまぬが一人でも帰れるでござるか?」
「うん、それは大丈夫だけど…」
「ではささっと行ってくるでござる。帰ったらすぐ夕餉の準備をするから、荷解きでもして待っていてくだされ」
そう言ってあっと言う間に走っていく剣心の背中を、薫は呆れた顔で見送った。家事全般のほとんどは剣心に任せてしまっているが、
こと食事の用意に関しては彼は少し凝り性のようであった。薫はどちらかというと美食家である。
多少お金をかけてでも美味しいものを食べた方が良いという考えの持ち主である。それを知っているからか、剣心は食事に関しては絶対に手を抜かないのだ。
「でも無ければ無いで構わないのにな…」
もはや剣心の姿は石畳の向こうに消えている。さて自分も家に帰るかと荷物を抱えなおして、薫は思いついたように再び神社の方へと顔を向けた。
「もう一回お参り、して行こうかな…」
静かに佇む本殿が『祈らなくて良いのか』と言っている気がした。――祈らなくて良いのか。共に生きている者のために。
財布に残っていた小銭を全部取り出して賽銭箱に落とす。他に誰も居なくなった神社の鈴を控えめに鳴らし、薫はもう一度手を合わせた。
剣心。幕末を苦しみもがきながら生きた人。時々薫は想像してみることがある。人を数え切れないほど斬り捨てて、
今この明治という時代に陽の下で暮らすということがどういうことなのかを。斬って刺して砕いて裂いて。
人の血と肉と骨にまみれて尚、今を生きていかねばならない彼の、その精神の困難さを。きっと自分ならばとうに狂っているに違いない。
いやもしかしたら本当は彼も狂っているのかもしれない。
神頼みなんてものに頼るのはそもそもお門違いだと十分わかっている。それでも願わずにいられなかった。
どうかどうか。彼が背に負う荷物がほんのわずかでも少なく、あわよくば消えてなくなってしまいますように。
***
必要なものを買い足したらすぐに帰るから、と言って駆けて行ったはずの剣心は、しかし陽が落ちても戻らなかった。夜になっても、
日付が変わっても、夜が明けようかという頃になっても戻らなかった。
「これは何かあったわね…」
一睡もせずに待ち続けた薫は、居間の卓袱台に縫いかけの浴衣を置いて息を吐いた。
大の男がちょっとぐらい帰りが遅いからといってすぐに騒ぎ立てるのも性急かと、
心配しすぎないようできるだけ心を落ち着けて待っているうちに、とうとう夜が明けてしまった。
縫い物で気を紛らわせるべく昨日買い込んだ布地を縫い初めて、早くも一着めが出来上がろうとしている。
朝日が窓の隙間から射し込んできた。いくらなんでも連絡の一つも無しで外泊とはただ事ではない。
何か事件にでも巻き込まれたか、はたまた思いがけない事故にでもあったか
――剣心に限っては事故の可能性は限りなく低いが――とにかくこの家に帰って来れなくなった何がしかのトラブルがあったのは間違いがないだろう。
「とにかくまずは警察かしら。事件に巻き込まれたなら何か情報が入っているかもしれないし。その前に弥彦の所へ寄って事情を説明して――」
目頭を押さえながら薫が立ち上がった時だった。玄関の扉がガラガラと開く音がして、誰かが低い声で罵る声が聞こえた。
「帰ってきた!?」
急いで居間を出て廊下を駆ける。駆けながら薫は首を傾げた。耳に届く囁き声のようなものが、なぜか会話に聞こえるのだ。
(誰かと一緒なのかしら?)
二人以上の人間が何かを言い合っている。あまりいい雰囲気ではないようだった。
最後の廊下の角を曲がって玄関に向かって声をかける。
「おかえりなさい剣心、心配したのよ一体どこに行って――」
声に反応して自分に振り向いた者たちを見て、薫はピタリと足を止めた。勢い余って床を滑り、派手に尻餅までついた。
尻が痛い。いやそれどころではない。頭に疑問符がいくつも浮かぶ。
「か、薫殿…ただいま…」
期待通り玄関には剣心が立っていた。どこかばつの悪そうな焦ったような表情で、尻餅をついたままの薫に帰宅を告げる。
彼はなぜか薄汚れていた。着物のあちこちが裂け、泥やら枯れ葉らしきゴミが身体のあちこちに付いている。いやそれもどうでもいい。今の問題はそこではない。
「あ…あなた…誰…?」
ぱくぱくと何度か口を開いては閉じ、薫はどうにか誰何の声を絞り出した。
薄汚れた姿の剣心の横に、もう一人男が立っていた。どう見ても剣心と同じ顔だった。
――玄関に、よく見知った顔の男が二人並んで立っているのだ。
「薫殿これにはわけが…というか拙者にもよくわからないのだが…」
おろおろと弁解を始める剣心の横で、隣に立つもう一人の剣心(とうり二つの顔をした男)が、仏頂面のまま薫を見つめている。
その後の薫の取り乱しようは冒頭の通りである。
***
玄関で過呼吸気味のパニックを起こした薫は、剣心ともう一人の剣心(と同じ顔の男)に支えられてどうにか居間に戻った。
両脇を二人の男に抱えられながら畳に腰を下ろす。剣心は当然のようにそのまま隣でまだ荒い息をついている薫の背中をさすった。
もう一人は少しの間薫の側をうろつき、やがて諦めたように部屋の隅の壁に背を預けて座った。
「ごめ…剣心ありがとう、もう大丈夫だから」
呼吸がほぼ平常通りまで落ち着くと、薫は背中をさすり続けていた剣心を制した。相変わらず鼓動は早い。
こちらは収まるのにもう少しかかりそうだ。だがいつまでもこうしてはいられない。薫は思い切って顔を上げた。
部屋の隅に座っているもう一人を見る。やはりその顔は見慣れた剣心のものとそっくりだった。
十字傷が無いことと髪を高い位置で結っているという違いがなければ、恐らく誰にも判別がつかないだろう。
「で、どうしてこんな状況になったのか、説明してくれる?」
薫が二人を交互に見ながら恐る恐る尋ねると、壁際に腰を下ろした方の男は無言のまま薫の隣に居る剣心を睨んだ。剣心は困り果てた顔で頭をかく。
「拙者にもよくわからないのでござるが――」
彼が話し出したところによると、事の顛末はこうである。
昨日の午後、神社で薫と別れた剣心は急いで商店街へと引き返した。買い忘れた蕎麦の薬味を手に入れるべく迅速に最短の距離を走ったので、
目的の店にたどり着くのにそれほど時間はかからなかった。葱と冥加と生姜と山葵と紫蘇を八百屋で買って懐に突っ込み、
ついでに旨そうな羊羹に目が止まったのでそれも買った。甘味好きな薫が喜ぶだろうなと想像しながら帰途に着いた時にも、まだ十分に太陽は西の空に残っていた。
帰り道の途中で、先ほど薫と休憩した神社の鳥居をまた通りかかった。通り過ぎようとして剣心はふと思いついた。
――ここの林を通り抜けたら近道になるな――
神社は周りを広めの林で囲まれていて、神谷道場への帰り道はその林を迂回するようになっている。
ここを突っ切れば道場までの道のりをかなり短縮できるだろう。そう思って剣心は鳥居をくぐり、神社の横を抜けて林の中を進んだ。
「だいたい林の真ん中まで来たところで、一匹の子猫が木の上で立ち往生しているのに遭遇して…」
「子猫?」
「そう、子猫でござる。登って降りられなくなったのか、悲壮な声で鳴いていて」
親猫が近くにいるかと見回してみても、それらしき姿も気配もなかった。その代わりに少し離れた所にある木の枝には大きなカラスが一羽、
子猫に狙いを定めて佇んでいるのが見えた。成鳥のカラスにとっては親とはぐれた子猫など格好の獲物である。しかも相手は木の上で逃げ場もない。
人が通りかからなければ今にも狩りを始めようとしていたのだろう。立ち止まって見上げている剣心に『早く去れ』とばかりにカァと一声野太い鳴き声を浴びせた。
本来なら剣心はそのまま知らぬフリで通り過ぎていただろう。弱いものが狩られて強いものの糧となる。
それは食物連鎖という名の正しい自然の姿だ。人間の世界とは違う。彼が人間同士の争いでは真っ向から否定する弱肉強食の観念も、
獣の世界まで持ち込むべきものではない。子猫もカラスも等しく生き物だ。どちらを優遇する謂われもない。
「そのまま通り過ぎようと、一度は足を進めたのだが…」
「戻ったの?」
薫が尋ねると、剣心はうんと頷いて薫の丸い目を凝視した。形よく弧を描くその大きな目は、木の上で悲壮な鳴き声を上げていた子猫の目と重なる。
一度は通り過ぎた剣心だったが、どうしてもそのまま去ることができなかった。エゴだなと自分でも思う。目の形が薫を想起させたというただそれだけで、
彼は途端に子猫に肩入れをしてしまったのである。
元の場所まで戻って地面に荷物を置いた。木を登り始めると、子猫は警戒して枝の先端へと逃げた。
離れた木の上では獲物を横取りされると察知したカラスが不満げな声を上げている。
『すまぬな。今回は他を当たってくれ』
申し訳なさそうにカラスに向かって言うと、黒い羽をバサバサと羽ばたかせて何度か周りを旋回し、恨み節のような声を上げながら黒い姿は空へ消えた。
枝の付け根までなんなく登った剣心は、怯えて毛を逆立てている子猫に手を差し出してチチチと口を鳴らした。
『そう警戒せずこちらへおいで。これも何かの縁だ。その丸い目に免じて今回だけ助けてやろう。ほら、そこに居てカラスの餌になりたいのか。
カラスに食われるのは惨いぞ。お主もまだ死にたくはないだろう…』
剣心の呼びかけが通じたとも思えないが、子猫は警戒した姿勢はそのままに少しこちらへ近づいた。差し出された指に鼻先を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる。
『よしよしいい子だ。連れて帰ってうちの子にして貰えるよう頼んでやろう。なに、薫殿は否とは言わぬさ。彼女はとても優しいから――』
とうとう子猫が手の届く位置まで来て、剣心がその小さな身体を掴んだ時だった。ミシミシという木の裂ける音がして、あっと言う間に視界がブレた。
『あ、しまっ――』
知らずのうちに剣心はだいぶ身を乗り出していたらしい。それほど太くもなかった枝は重さに耐えきれず、派手な音と共に見事にへし折れた。
別にこれくらいの高さから落ちたところで剣心には屁でもない。しかし子猫を下敷きにしてはいかぬと空中でとっさに体勢を変えたのがまずかった。
彼の算段では背中から落ちても受け身を取れば大丈夫、地面までの間に他の枝があるからひっかかりつつ落ちれば落下の速度も緩まるはず、
何より下には降りつもった木の葉と雑草と梅雨明け直後の柔らかい土があるし――
「でも、大丈夫じゃなかったのね?」
薫が先を読んで確認すると、剣心は「面目ない」と言ってまた頷いた。
落ちたところに大きな石があったのは、全くの不運としか言いようがなかった。
気付かなかったのは木の葉や雑草で見えにくくなっていたのが主な理由だが、それにしても情けない、と剣心は思う。
途中に茂った枝を巻き込みながら背中から落下した剣心は、見事に後頭部をその石に直撃させた。
先に背中が地面に着地していたのでまだ良かった。しかし思いがけない衝撃を頭に受けて、彼は低く短いうめき声を上げた。
ガツンという鈍い音と共に一瞬身体が大きく揺らいだのを覚えている。視界に入る全ての物が二重にブレた。
抱えていた子猫がニャッと鳴いて腕から飛び出すのが見えて、そしてそのまま意識を暗転させたのである。
よほど打ち所が悪かったのか、剣心が意識を取り戻したのは夜が明ける直前だった。
目が覚めて、薄暗い周りの景色を眺めながら彼は少しの間ぼんやりとしていた。ここがどこで、自分が何をしていたのかを即座には思い出せなかった。
そうだ帰って夕飯の支度をするんだった、と考えて、ようやく自分が助けようとした子猫もろとも木の上から落ちたことを思い出した。
「慌てて立ち上がろうとしたら、すぐ横にもう一人倒れている者が居ることに気が付いて…」
散らばった荷物を集めようと剣心が立ち上がると、すぐ側に転がっていた何かにつまずいてよろけた。
見ればもう一人誰かが横たわっているではないか。着ている物は剣心と同じような物だった。濃い色の着物に、白い袴。
背丈もちょうど同じぐらいだろうか。地面に投げ出された髪の、長さまでも。
剣心はつまずいて蹴ってしまったその誰かを慌てて揺り起こした。何度か肩を揺すると、その者は唐突に目を開いてむくりと上半身を起こした。
薄暗い明け方の林の中で、顔を見合った二人の男が同時に目を見開く。剣心は一瞬鏡を見ている錯覚に陥った。自分の顔が自分を見ているのだ。
かろうじて違うのは頬の十字傷が無いことと、髪を高い位置で結っていることだけ。それ以外は全て同じだった。
『お…お主、一体誰だ』
『お前こそ誰だ』
『拙者は緋村剣心と申す』
『俺も緋村剣心だ』
『……』
『……』
そこからしばらくの間は押し問答が続いた。自分が緋村剣心だ、いや自分だ――
朝日が遠くの山の上から登って二人を照らす。するとどうだろう。二人が着ている物は似ているのではなく全く同じではないか。
緋色の着物の色から生地まで――片方が所々擦り切れて薄汚れているのを除いて――それどころか髪の毛の赤茶け具合まで同じだった。
絶句して互いの姿形を見合うのを打ち切ったのは剣心(薄汚れている方)だった。
『そうだこんなことをしている場合ではない。帰らなくては。無断で一晩明かしてしまった。きっと心配しているー…お主、それは拙者の荷物だ、返してくれ』
木の根元に置かれていた風呂敷包みを持ち上げた男に剣心が手を差し出すと、男は首を振って拒否を示した。
『いいやこれは俺のだ。お前こそその手に持っている葱と薬味を渡せ』
『何を言う。これは拙者が買ったもの。早く帰って薫殿に詫びねばならぬ。お主の事は奇妙な他人のそら似と思って忘れよう、だからそれは返してくれ』
『俺も帰る』
『ああそうした方がいい。きっとお主も帰りを待つ者が居るだろう。だからそれを返し――』
『俺も薫のところに帰る』
『……なんだって?』
「で、仕方ないから連れて帰って来ました、と?」
神妙に頷く剣心を見て、薫は天を仰ぐ。壁際に座った男はむっとしたように顔をしかめ、「連れて帰って来たのは俺の方だ」と呟いた。
薫は立ち上がって男の前まで来ると、正座で腰を下ろした。
「ほんと、何から何までそっくりね」
「……」
正面から見てみると本当に男は剣心と同じ顔だ。薄茶の瞳の色までもが同じ。骨格も肉付きも手の形さえも同じだった。薫は大きく深呼吸をして口を開いた。
「私の好きな色が何かわかる?」
「…藍色だろう」
「一番お気に入りの着物は?」
「桜柄の小袖」
「じゃああなたの愛刀は?」
「逆刃刀。今はあっちのが持っている」
男はちゃぶ台の横で様子を見ている剣心を顎で指し示した。確かに格好は同じでも、男の腰には何も差されていない。
「その逆刃刀、以前一度折れているの。それは何故だった?」
「瀬田宗次郎に折られた」
「そう、それで新しいのを打ち直して貰ったのよ」
「違う。打ち直して貰ったんじゃない。元々作ってあった真打ちだ」
「……そうね。あれは真打ちね」
最後の質問で男は腹を立てたようだった。薫がわざとひっかけようとした意図に気づいたからだろう。
薫は下を向いてふぅと溜息をつくと、覚悟を決めたように顔を上げた。
「とても信じられないけれど、あなたも緋村剣心なのね。本当に、信じられないことだけど」
そんなことはあり得ない。それは薫もわかっている。一人の人間が二人になるなんてあり得ない。おとぎ話でもなかなか無い突飛な話だ。
しかし他にどう解釈すればいいのかもわからない。ここまで外見が同じ人間がそう居るわけもない。
今思いついただけの質問をしてみても当然のように答えが返る。
何より本人が「緋村剣心だ」と言い張る以上、薫にはそれを無理に否定できるだけの材料は何も無かった。
「木から落ちて石に頭をぶつけたら二人に別れてしまいました――だめね、口に出すとますます冗談みたいな話だわ。
ほんと、私こそ頭を打って夢でも見ていると思いたい……」
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