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落ち葉が延々と降り積もる山道を、薫は早足で歩いていた。 一緒に山に入った父とはぐれてから、一体どれくらい経ったのだろうか。高く結い上げた 髪も、大分ほつれてきてしまった。もみじ狩りに行くのならきっとこの色の着物が良く 映えるに違いない、と言って母が選んでくれた藍色のリボンと小袖は、なるほど周囲の見事に紅葉した 木々の鮮やかな赤や黄色とは実に対照的だが、一人で歩く今となっては 我が身をやたらに浮き立たせているようで、不安な心に拍車をかけるばかりだ。 「も・・疲れた・・・どっちに行けばいいのぉ?」 大きな瞳にじわりと涙が滲む。 蝉の声が寂しく響く、午後のことである。 胎動 ほんのちょっと。ほんのちょっとだけ、手を離しただけだったのだ。 10月も終わりのこの季節に父と二人、紅葉を見に出かけてきた山の中で。大きな父に 手を引かれて歩く、山道で。ふいに見つけたとんぼに気を取られて、父の手を離してしまった。 遠くへ行ってはいけないよという忠告の声も半分に、とんぼの後を追って少しだけ、道から 外れ林の中に入り込んだ。 気付いた時にはもう、父の姿は見えず。歩いてきた山道に戻る方向も、見失ってしまっていた。 「どうしよう・・・」 一気に心は不安で満たされたが、こんなことで泣き出すわけにはいかなかった。きっと父も自分を 探してくれているに違いないし、それほど山奥に入り込んでしまったわけでもないだろうから。 薫は両手を強く握り締めて、心細い気持ちを振り切るように歩き出した。 ガサリガサリと、地面に足がつくたびに音がする。山はすっかり紅葉した木の葉に覆われていて、 土の色はほとんど見えなかった。薫が帰り道を探して歩き出してから、どのくらい経っただろうか。 ふいに、開けた場所に出た。樹木が生い茂る林が途切れ、ぽっかりと円形に空間が開いている。 薫はきょろきょろと辺りの様子を気にしながら、その開けた場所の中ほどへと進み出ていった。 あたり一面は見事に色付いたもみじに包まれている。周りをぐるりと取り囲むように、 広葉樹が生い茂っていた。その全ての木が、狂ったように紅葉している。 薫はきょろきょろと周りを見回した。 これ程鮮やかな世界を今まで一度たりとも見たことがなかった。どこを向いても紅。 紅 紅 紅。 黄色や橙の葉が所々に混じりつつも、強烈な紅い紅葉ばかりが目に映る。折からの強風で 散りざるを得なかったのだろうもみじたちが所狭しと地面を覆い隠していた。 『紅い世界だ』と薫は思う。 綺麗な綺麗な色のある世界。黄色や橙や赤の。その中で真っ青な着物を着ている自分だけが、 一人、異質なもののようだった。 「きゃっ」 一際強い風が吹く。いっせいにもみじが舞い上がった。薫は四方に乱れなびく髪を必死に押さえる。 どうにか気丈に保っていた不安な心をわざと波立たせるような突風が恨めしかった。誰にともなく やつ当たって、泣きたい気分になる。行き着く先も分からずにただ自分の直感に任せてここまで来たが、 少し心配になってきた。自分はちゃんと両親の元に帰れるだろうか。 強い風がおさまると、空中に舞い上がった木の葉たちは静かに地面へと戻った。辺りには再び静寂が 下りる。薫は乱れに乱れてぐしゃぐしゃになってしまった髪を小さな手で撫で付け、塵が入らないように と固く閉じていた目をゆっくりと開けた。と同時に何かがちらりと視界をかすめる。 先刻までは気づかなかった。ちょうど10歩ほど進んだ先には、周りに生い茂る樹木よりもやや大きめの 木が立っている。「立派な木だ」と、薫は思う。決して太くはないが。かつて道場に程近い神社で見たような ご神木とは比べようもないほどほっそりとした、しかし確かな生命力を感じさせる幹。形良く、 いくつにも分かれた枝。枝のほとんどは他の木と同様見事に色づいた紅い葉で覆われている。 そして、そして・・・もみじで覆われたその木の中ほどからゆったりと垂れ下がっているあれは・・・・ あれは? ぱちくりと薫は目を瞬いた。時折吹く風にそよそよと揺れるあれは・・・なんだろう? 先程までは気がつかなかった。だってそれは殆どもみじの色と変わりがない。 知らず、薫の足はその木の方へと向いていた。どうしてもそのさらさらゆれる上質の糸のような ものの正体が、知りたかった。 一歩近づくごとに、薫の心臓は脈を打つ速度を速めた。 とても緊張するし、とてもわくわくする。 だってこんなのは見たことが無い。 忍び足で音を立てないように気を配りながら━━実際、落ち葉を踏めば少なからず 音は立ったが━━薫は木の根元まで近づいた。顔のすぐ目の前に、紅い糸が垂れ下がっている。 否、これは糸ではない? 垂れ下がっているということは、上には『モト』になるものがあるはずだ。薫はドクドクうるさく 鳴り響く心臓の音を耳のすぐ傍で聞きながら、思い切って顔を上げた。思わず漏れそうになった 驚きの声を、咄嗟に両手で押さえる。 紅い絹の糸のようなそれは、地面すれすれに垂れ下がるばかりで無く、近くの四方の枝々に、 美しく絡み付いていた。何度も吹いた強風のせいで四方に散ってしまったのだろうそれは、 紛れも無い、髪の毛だった。そして その中心には、穏やかに目を閉じた、男の顔が一つ。顔の下には首があって、胴体があって、 両手両足がついている。白地に色鮮やかな刺繍が施された着流しを纏った身体は、薫の身長の 二倍程の高さにある太い枝に器用に寝そべっていた。 この生き物はなんだろうと、薫は思う。 普段見慣れた両親や友達や道場に来る人たちと身体的な特徴が同じと言えばそれはそうだが、 しかし決定的にそれとは違う何かがあるような気がした。第一こんなに長い髪の毛は、今まで 見たことが無い。それにこんなに紅い色をしたものも。この世に生まれてまだ10年にも 満たないの薫の頭の辞書には、こんな容姿の人間は記憶されていなかった。 実を言えば性別も、薫には確信が持てなかった。くっきりと頬に浮かび上がる、痛々しい 十字の傷跡さえこの生き物に無かったら、疑いも無く「女」だと認識したに違いないけれども。 仮に男だとしておこう。この優雅に木に寝そべる男は、目を開ける気配は無かった。その顔に 血の気が無いので一瞬薫は死んでいるのかとも思ったが、その是非を確かめるよりも先に、 薫には小さな欲が生まれてしまった。 この髪に、どうしても触りたい。 自分の髪と見比べてみる。違いは一目瞭然だった。自分の髪は真っ黒で、目の前で揺れている髪は 紅い。微かな風にも忠実に揺れている様は、細さと柔らかさを想像させるのに十分だった。 きっと触ったらその手触りは、自分の髪よりも良いに違いないだろう。ほとんど意識もせずに、 薫は手を伸ばした。その紅い髪に触りたくて。 「触るな」 突然上から降ってきた声に、薫は文字通り飛び上がった。驚いて一、二歩後ずさる。 見ればたった今まで眠っているとばかり思っていた男が、不機嫌そうに目を細めて 自分を見下ろしている。 その目が自分を煩わしそうに見ていることに、薫の胸は何故かちくりと痛んだ。 『触るな』と言った声は、明らかに薫の動作を咎める意が含まれているものだった。それが 証拠に、この男の目は尚薫を射抜くように睨んでいる。普通の子供だったら震えあがる はずの場面かもしれなかった。が、しかし。生来薫は気が強く、勝気な性格である。 あからさまに向けられた敵意よりも、薫には 自分の所作を途中で止められたことへの不満の方が勝っていた。負けじと男を睨み返す。 一瞬空気が非常に張り詰めたものになった。 男は相変わらず背を幹に寄りかからせて枝に寝そべっていたが、思いのほか自分を 見上げる子供の態度が怯まなかったことに対してなのか、その目は僅かに苦々しさを増した。 「人間の匂いなど鼻についてかなわん。さっさと往ね」 ふいと顔を背けてその男は言った。薫はこの言葉にますますむっとする。自分はただ、道に 迷って此処へ来てしまっただけだ。そしてたまたまこの木が目に止まって、たまたまこの 不機嫌な男を見つけただけで。それでその紅い髪に、ちょっと触ってみたいと思っただけで。 不躾にも触れようとしたことは、確かに悪かったかもしれないが。ここまで邪険にされる 必要があるだろうか? 薫は腹いせに、目の前に垂れている紅い髪を素早く思いっきり引っ張ってやった。 「っ!!・・・小娘っ」 痛みに顔を歪めて振り向いた男の顔を身もせずに、薫は全速力で走り出す。後ろで「待て!」 という声が聞こえたが、そんなことで待つ馬鹿はいないと舌を出して。それにしても、と、 薫は思った。ちょっとだけ触ったあの紅い髪。握ったのはほんの一瞬だったが、やはり手触りが 良いということは十分わかった。出来るなら、もうちょっとだけ長く触ってみたかった。 落ち葉を踏みしめて駆けること数分。いい加減息切れしてきた薫は速度を落としてゆっくりと 立ち止まった。あの男が追ってきている気配はない。ほっと胸を撫で下ろす。むっとしてつい 手を出してしまったが、あの男を怒らせたのは、ひょっとしたら不味い事だったのでは ないだろうか。『人間の匂いなど』とあの男は言っていた。ということは あの男は一体何なのだろう? あの尋常ではない長さの紅い髪。細く明けられた瞼から覗いた 瞳の色は、心なしか薄かったような気がする。そこまで考えて、薫は今更ながらに恐くなった。 相変わらず帰り道はわからない。闇雲に走ってしまったため、ますます方角がわからなく なってしまった。もうそろそろ太陽が西の空に沈みかけている。こんなところで立ち止まっている 暇はないだろう。暗くなってしまえば正しい道に戻るのはもっと難しくなるに違いない。そう 思ってまた薫が歩き出すと、強い突風が吹いた。 「・・・っ!」 周りの落ち葉をぐるぐると巻き込むようなつむじ風だった。薫は咄嗟に顔を両手で覆い、身を屈めた。 木々が一斉に揺れ動き、大きな葉擦れの音を立てる。両手で顔を覆ったまま風が過ぎるのを待って いると、すぐ目の前で声がした。 「小娘。先程はようもやってくれたな」 冷たさの中に嘲笑が混じったような声が、薫の耳に入った。恐る恐る顔をあげると、先程の 紅い髪の男が、着物の袂に腕を差し込んで立っている。その男は苦々しげに薫を見下ろしていた。 思った通り、髪が長い。風に揺れている紅い髪はやがて静かにもとへと戻ったが、その 長さは膝の位置を軽く越している。 「あ・・・」 薫はまるで身体が縫い付けられたように、動けなくなってしまった。 「人間にしてはなかなかに見目が良い、が、いらぬ好奇心は身を滅ぼす」 微かに男が笑ったような気がした。と同時に薫を見下ろしていた瞳の中の瞳孔が、 すうっと細くなっていく。 「さぁどうしてくれようか」 「・・・っ」 顔のすぐ側まで伸びてきた男の手に、薫がぎゅっと目を閉じた時だった。 遠くから、自分を呼ぶ父の声が聞こえてくる。どうやらすぐ近くで薫を探して いるらしい。瞬間薫が安堵の表情を浮かべるのと同時に、男が小さく舌打ちをして 声がした方向を振り返った。 その隙にと、薫は父がいるであろう方向へ駆け出した。はやくこの場から、この紅い 髪の男から逃げ出してしまいたい。男の横をすり抜けるようにして走り去ろうとした時、 片腕を強く掴まれて引き戻された。男の長い爪が、僅かに腕に食い込む。 「離して!」 「いいか、私に会ったことは誰にも話すな」 「そんなの知らない!」 「小憎らしい小娘め。もしもう一度此処へ来たら、その愛らしい目玉をくり抜いてやろうよ」 そう言って男が唐突に腕を離すと、また強い風が巻き起こった。薫は腕を離された勢いで、 地面に尻餅をつく。目を開けたときにはもう、男の姿は無かった。 「薫! 何処へ行っていたんだ。あれほど遠くへ行くなと言ったのに」 ようやく見つけた父の姿に薫が勢いよく飛びつくと、心底心配したような父が諌めるように 薫の頭を撫でた。温かい体温に薫はますます強くしがみつく。 「何かあったのか?」 そう問われても薫は頭を振るばかりで、決して何かを話そうとはしない。 「薫、リボンはどうした」 「え?」 父の言葉に顔をあげて咄嗟に頭に手をやると、確かにつけていたはずのリボンが無い。 「無い・・・」 リボンが無くなっていることを知ると、薫は再び父の身体にしがみついた。悔しさと、興奮と、 謂れの無い胸の高揚とで真っ赤になった顔を、誰にも見られないように。 この日薫が奪われたものは、リボンばかりでは無かった。 すみません。髪が恐ろしく長い緋村さんていうのを書いてみたかっただけなんです。 つづきます。多分・・・ モドル。 ススム。 |