東京下町。どこかの川にかかるどこかの古ぼけた橋。
民家が立ち並ぶ集落からは少し離れた所に位置しているこの橋を、通る者はあまり居ない。
天気は快晴。太陽がもうすぐ南中に登ろうとしている。
橋の下にはそれなりに幅のある河原が続いていた。
新緑の匂いを含んだ風が爽やかに吹き抜ける河原では、高さを増した雑草が青々とした葉を天に向けている。

風に吹かれて柔らかく揺れた草の向こうに、白い何かが見えた。
白く滑らかな小さいそれは、子供の足だった。草履は脱げてしまっていて少し離れたところに散らばっている。
さらに草が揺れると、今度は青い何かが見えた。
綺麗な綺麗な刺繍の入った、上等な布の青地の着物だった。
また風が吹いた。黒くて長い絹糸のような髪が、無残に地面に流れていた。

土手を通りかかって近づいた誰かが悲鳴をあげた。
打ち捨てられているのが人形ではないと気付いたからだ。

虚ろに目を開いたまま横たわる子供はピクリとも動かず、頬の上に落ちた幾筋かの髪だけがさらさらと風になびいていた。









胎動 九








朝早くから降り続く雨に、縁側で空を見上げていた薫は深く溜息をついた。
暦の上ではもう春だというのに、ここ数日は気温が低く冬に逆戻りしたような日が続いている。
━━春が来た━━と意気揚々と山に登り、緋村にこっぴどく叱られてから、早くも三週間が過ぎていた。 この三週間の間は一度も山には行っていない。完全に雪が解けて暖かくなるまでは絶対に来るなと しつこいぐらいに緋村に釘を刺されたので、薫も大人しく待っているのだ。 もしまた焦って雪解け前に山を登ってしまえば、完全に怒らせてしまうかもしれない。そうなったら最後、 緋村とも縁とも二度と会えなくなるだろう。薫だってそれくらいはわかっている。

「明日はやむといいなぁ」

この雨が上がれば、気温も上昇するに違いない。そうなれば今度こそ大手を振って会いに行ける。 次に行く時は若草色の小袖を着ていこうか。リボンもそれに合わせて選ぼう。 自分の箪笥にある着物の柄と色を思い出しながら、あれこれと思案するのが薫の日課になっていた。
どうも緋村は、毎回薫の着てくる着物や小物の色に少なからず関心を持っているようなのだ。
あまり表情の変わらない彼の顔が、会いに行く度に、一番最初に薫の装いを隅から隅まで確認して少しだけ変化するということに気が付いてから、 薫は一層身につける物の色の組み合わせに気合を入れるようになった。

(特に気に入ってるのは藍色の着物みたいだけど、あれは厚手だから今の時期には着れないな……)

初めて出会った時に来ていた藍色の着物とリボン。薫自身も一番のお気に入りだが、 秋冬用なのでこれからの季節には着ることが出来ない。
これからの季節は薄手で動きやすい着物が良い。まだ見せていない色のものもいくつかある。
何にせよこの雨が止まないことには出かけることなど出来ないのだが、それでも会いにいく時のことを考えるだけで、十分楽しかった。

「今日は稽古、がんばろっと」

手早く道着に着替えて愛用の竹刀を抱え、道場へと向かう。しとしと降り続く雨を避けるように軒下を潜り抜け、小走りで入り口に辿り着いた。 中では既に十数人の門下生たちがそれぞれに稽古を始めていた。
道場の木戸を潜った所で、ひそひそと低い声で囁く会話が聞こえてきた。薫が足を止めて声のする方を見ると、 古くから居る門下生の何人かが、隅っこの方に集まって顔を寄せ合っていた。

「聞いたか? 数日前に小石川の外れで見つかった子供の死体、ありゃあ大きな呉服問屋の末娘だったらしい」
「そうだってな。可哀そうに。まだ十歳だって言うじゃねぇか。下手人はまだ捕まってないんだろ?」
「まだだそうだ。手掛かりがトンとないってよ。呉服問屋も真っ当に商売してた所で、誰かの恨みを買う覚えも特にねぇし、 子供相手に物取りってこともないだろうしって。一体何でまたあんな小さい子供が……」
「……何でも相当惨い有様だったとよ。着物も乱れてたし乱暴の痕も……」
「あっ、おい…!」

近くで聞くともなしに聞いていた薫の存在に気がついた一人が、話し続けていた門下生の肩を揺さぶって止めた。

「あ、ああ薫ちゃん。どうしたんだいそんな所で」
「あの、稽古始めようと思って」
「そうか!偉いな!じゃ、じゃあ一緒に素振りでも始めるか!」
「あ、はい」

集まっていた数人は慌てて会話をやめ、蜘蛛の子を散らすように散らばっていった。
そのうちの一人に背中を押されて歩きながら、薫は先程聞こえてきた会話の内容を考える。
考えてはみたが、何か深刻な、自分と同じぐらいの女の子の死についての良くない話し、ということしか わからなかった。
薫は死を理解している。
少なくとも、自分では理解出来ていると思っている。
死とは呼吸が止まり、心の臓が止まり、二度と話すことも動くことも出来なくなることだと、知っている。
だが死に至るまでの過程にどんな種類の出来事があるのかとか、世の中で起きる様々な事件━━主に殺人というものについて━━ には、あまり深くまで考えが及ばなかった。
それは子供に対する大人の多くがそうであるように、薫の周囲の大人たちもまた、幼い子に深刻で残酷な話題を聞かせることを良しとしなかった ためでもある。

子供に何を見せて、どんな時にその目を覆い隠すか。
子供に何を聞かせて、どんな時にその耳を塞ぐか。
そういう事に関しては、薫の周囲の大人たちは至極保守的であった。

薫は守られて生きてきた。
母は厳しい時もあるが、それ以上に優しい。一人娘である薫に惜しみない愛情を注いでくれる。
道場に居る門下生も皆真っ当な人たちばかりで、いつだって薫の身を案じてくれた。

もし今ここに、父の越路郎が居たなら。
父ならばあるいは、先程の門下生たちの会話の内容について、誤魔化したりせずきちんと薫にわかるように説明をしてくれたかもしれない。
どういうことが起きていて、どういうことに注意しなければならないのか。きちんと説明してくれたかもしれない。
しかし生憎と父はまだ道場に姿を見せておらず、そして門下生たちはいつものように薫に対しての過保護さをいかんなく発揮して、 不吉な会話を潔く打ちきってしまった。

「そう言えば神谷先生は、今日は稽古に顔を出さないのかな。薫ちゃん、知ってるかい?」

並んで素振りをしながら、古株の門下生が隣の薫に聞いた。いち、に、さん、し、と数を数えながら竹刀を懸命に振っていた薫は、 朝の寝床で漏れ聞いた会話を思い出しながら答えた。

「今日は、朝早くから出掛けたみたいです。何だか、警察の人に呼び出されたって」
「え、警察…? それはまた…何かあったのかねぇ」
「さぁ、よくわかりません…」
「いや、まぁ、ね。心配しなくても大丈夫だよ。帰ってきたら『怠けるな』って叱られないように、素振りあと百回、しようか!」
「はい!」





****************




翌日はよく晴れた。
冬に戻ったようだった気温の低さも嘘のように高くなり、外は全き春の様相だ。

起きて真っ先に天気を確認した薫は、降り注ぐ暖かい日差しに声を上げて喜んだ。 この陽気ならばもう山の雪も溶けているだろうし、緋村も文句は言わないに違いない。
午前中を家事に勤しむ母の手伝い━━薫なりのご機嫌取りの意味もあった━━に費やし、 昼食を食べ終わるとすぐに「友達と遊んで来る」と言って玄関へと向かった。
前の日に考えていた通り、着物は若草色の小袖に深緑の帯を選んだ。 新緑に満ちているだろう山の風景に、良く合うと思ったからだ。
手には着物とお揃いの巾着。そして髪には、光沢のある深い抹茶色のリボンを付けた。 つるつるとした生地のこのリボンは、光の加減と角度によって玉虫色に見える珍しい品だった。

玄関を出て門を潜ろうとした所で、浮かれた気分を一瞬で沈ませてくれる人物と出くわしてしまったのは、 この日一つ目の薫の不運だったと言える。

「おや薫ちゃん、可愛い恰好をして、どこかに出かけるのかい?」

門を出ようとする薫の前を塞ぐように、白川が立っていた。弾む気持ちのまま歩き始めていた薫はピタリと足を止める。

「あ……白川さん、こんにちは」

思わず強張った表情を隠す様に、ペコリと頭を下げた。楽しい気分が一気に下降していく。 この青年と対面すると何故か、訳も無く嫌な気分になるのだ。

「こんにちは。今日は久しぶりに薫ちゃんと稽古出来ると思って来たんだけど、残念だなぁ、遊びに行くの?」

稽古道具を手に持った白川は、本当に残念そうに眉を下げた。その媚びるような猫なで声がどうしようもなく不快だ。
確かに白川はここ数日道場に顔を見せていなかった。 神谷道場に来てからほぼ毎日稽古に通っていたことを考えれば、これだけ間を空けたのは珍しい。 久しぶりに道場に来たことは確かだろうが、だからと言って薫がそれに付き合う謂われは無い。
━━稽古をしたければ一人で好きなだけすれば良いじゃない━━ついそう悪態をつきそうになるのを堪えて、薫は余所行きの笑顔を何とか貼り付けた。

「はい。友達と約束したので……」
「ふぅん、そうなんだ。あ、ねぇ、じゃあ僕と甘味でも食べに行くのはどうだい?勿論、約束した友達も一緒に。美味しいお店に連れて行ってあげるよ」

とんでもない、そんな事は死んでもご免だ。薫はぶんぶんと首を振った。

「いえ、いいです! 友達と遊びたいし、それに甘いものは一日一個までって父さまに言われてるし、今日はもうお饅頭食べちゃったから…!」

本当はそんな言いつけなど存在しないし饅頭を食べてなどもいなかったが、とにかく白川の申し出を断れるなら何でも良かった。 何も用事が無くてもこの青年と出かけるなど嫌なのに、やっと緋村に会いに行ける今日は尚更嫌だ。絶対に嫌だ。

「ええ? そんな決まりがあるのかい? それなら僕が神谷先生に直接聞いてきてあげる。大丈夫、きっと許してくれるよ」

そう言って玄関に向かおうとする白川を、薫は慌てて止めた。

「と、父さまは! 昨日から帰ってきてないから、居ません!」

薫がほとんど叫ぶように言うと、白川はピクリと肩を揺らして動きを止めた。

「神谷先生は不在なの? 昨日から?」
「はい、昨日の朝に警察の人から呼び出されて、まだ帰ってきてなくて…」

その瞬間白川の顔が能面のように無表情になった。しかし何とかこの場を凌ごうとする薫は焦っていて、その一瞬の表情の変化には気がつくことが出来なかった。 薫がようやく落ち着いて顔を上げた時にはもう、白川はいつもの柔和な顔に戻っていたのである。

「それならやっぱり僕と甘いもの食べに行こうよ。神谷先生には内緒にしておけば大丈夫さ」

白川はにっこりと満面の笑みで薫の腕を掴んでしまった。そのまま腕を掴んで歩き出す。

「あの! ちょっと…!」

連れて行かれまいとする薫が足を踏ん張るのだが、凄い力で引かれ、ずるずると何歩かを進んでしまった。握られた腕が少し痛い。
苛立った薫が仕方なく掴まれていない方の手で白川の手に爪を思い切り立てると、ようやく彼の力が緩んだ。その隙を逃さず勢いよく腕を引き抜く。

「ごめんなさい、わたし、急ぐから!」
「あっ、薫ちゃんっ」

もう一度捕まえようと白川が手を伸ばす。
その手が触れるより早く、薫は身を引いて全速力で駆けだした。









モドル。 ススム。