駆ける。駆ける。全力で駆ける。
後ろを振り返ったらあの気味の悪い男が追いかけてくるのが見えるかもしれない。
そんなのは嫌だ。見たくない。何としてでも振り切りたい。
だって今日は待ちに待った日なのだから。
赤い髪の、綺麗な顔したあの人に会える、待ちに待った日なのだから。

台無しにされたくない。
邪魔されたくない。

下町を網の目のようにじぐざぐに駆け抜け、
誰にも後を追われていないことを確認して山に入る。

途端にむわっとした土と青草の匂いに包まれた。
山は新しい息吹に満ちていた。

どこもかしこも緑色だ。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても。どこもかしこも緑色。
何回呼吸を繰り返しても新緑の匂いが鼻孔に届く。

ああ爽やかすぎる。なんとなく、あの人には似合わない季節だな、そう思った。









胎動 十








この日二つ目の薫の不運は、偶然にも遅咲きの『それ』を見つけてしまったことだった。
意気揚々と山道を登る途中で『それ』を見つけた時、薫の気持ちは更に弾んだ。

手土産にしよう。一も二もなくそう考えた。

「喜ぶかなぁ……んー…それはなさそう……ま、いっか!」

『花を愛でる』などという風雅な趣味が緋村にあるとも思えなかったが、 時期外れと言ってもいいほど遅咲きの花はそれだけで珍しいものだ。何かしら話題の種にはなるかもしれない。
迷わず手折って袂に入れた。
それがいいか悪いかなんていうことは特に考えたりしなかった。
すぐに歩みを再開する。急ぎ足で、しかし袂はあまり揺らさないように。

道場を出る時に出くわしてしまった白川のことは、もうほとんど忘れかけていた。
引っ掻いて逃げた後は全力失踪で町中を駆け抜けたし、あの男が後ろを追って来た気配もない。 帰ってから道場で顔を合わせるのは少々気まずいかもしれないが、それはそれだ。 もしまた強引に連れ出されそうになったりしたら、その時はもう躊躇せず父か母に告げ口して助けて貰えばいい。

この時の薫は実に楽天的だった。いや普段からその傾向はあるが、 久しぶりに山を登る期待に胸はいっぱいで、いつも以上に楽天的になっていた。 自分の行く手には深刻な問題など何も無いと思っていたし、緋村との再会を前に、白川という嫌いな男のことなど考える余地は 少しもなかったのである。


多分『それ』を見つけなければあんなことにはならなかった。
この後彼女に降りかかる一番の災難も回避できたかもしれない。

いや、不運ではなかったのだろうか。
『それ』を見つけてむしろ幸運だったと言った方が良いだろうか。
起こるべくして起こることなら、それが今日であったことは不幸中の幸いだと。

どちらにしろ色々な事柄が絶妙な間合いで噛み合った結果、
この日が薫のまだ短い人生のうちで最悪の日になったことには変わりがなかった。



***



目的の場所に到着したのは、未の刻(午後二時)を少し過ぎた頃だった。
山の上も天気は良く、空は晴れ晴れとしていて暖かい日差しが降り注いでいる。

見慣れた大木がある場所まで来ると、例によって緋村は木の上に居るようだった。 青々と生い茂った葉の隙間から、長く赤い髪が垂れ下がっているのが微かに見える。 おまけに木の下には縁まで居るではないか。 これは嬉しい。緋村にも会いたかったが、縁にも会いたかった。うきうきと心が弾む。やはり今日来たのは正解だったのだ。

木の上に向かって何事かを話していたらしい縁は、薫が小走りで近づいてくるのに気がつくとにこりと笑って手を振った。

「薫ちゃん、久しぶり」
「縁さんこんにちは! 来てたんですね!」
「うん、何となく今日あたり薫ちゃんが来るような気がしてね」
「ええ?凄い!そんなことわかるんですか?」
「ふふ、薫ちゃんのことは何でもお見通しなんだよ……ていうのは冗談だけど。
 今日は良く晴れたから、たぶん来るんじゃないかと思って。
 あ、もしかして俺は居ない方が良かったかな? お邪魔虫だったりして」
「そ、そんなことないです! 縁さんに会えて嬉しいです!」

縁が面白半分でからかってくるのを、薫は顔を真っ赤にしながらぶんぶん顔を振って否定した。

「お前も挨拶ぐらいしたらどうだ、緋村」

上を見上げて声をかけた縁につられて、薫も顔を上げる。
太い枝に座り、幹に身体を預けた緋村がこちらを見下ろしていた。相変わらず長い赤毛があちらこちらに飛んでいて、 その間から見える顔は無表情だ。親しみやすさなどカケラもない。 それどころか何故か探るような目で見られている気がする。

「あ、あの、お久しぶり!………です」
「………」

何と言ったら良いかわからず、とりあえず薫がペコリと頭を下げる。けれどもそれに対する返答はなく、緋村は剣呑そうに目を細めるだけだった。

薫は少し慌てた。まさか感動の再会などという甘い期待を持っていたわけではないが、もう少しこう、 何かしら柔らかい態度というか、暖かい言葉なり挨拶なりが貰えると思っていたのだ。

(な、なんでこんなに不機嫌そうなのかしら。もしかして、まだ来るのは早すぎた?)

「あ、あの、暖かくなったから来たの。もう雪も溶けたでしょう?
 寒くないし、もう大丈夫かと思って……」

言いながらだんだん不安な気持ちがせり上がってくる。消え入りそうな声でごにょごにょと来訪の理由を述べると、 とうとう薫は俯いた。来てはいけなかったのだろうか。迷惑だったのだろうか。心待ちにしていたのは自分だけで、 緋村にとっては少しもそうではなかったのだろうか。

(もしかして着物の色が気に入らないのかも)

自分の身につけている物をざっと見回してみる。昨日からあれこれと考えて選んだものばかり。 しかし張り切って若草色を中心に統一した装いも、 こうなってみるとなんとも滑稽に思えてくるから不思議だ。
━━まるで青虫じゃない。そもそも若草色なんて私には似合わなかったんだ━━

目に見えて落ち込み始めた薫の頭を撫でて、縁が大きく溜息を吐いた。

「気にすることはないよ薫ちゃん。誰も怒ってなんかいないから。  ……全く、どうしてそう偏屈なんだ緋村。さっきまでこの子がいつ来るかとソワソワしていたくせに。 いざ来てみれば何てそっけない。少しは愛想良くできないのか。それとも何か気に入らないことがあるのか?」

そう言って睨み上げる縁と目が合うと、緋村はようやく口を開く。

「………別に、ただ……」
「ただ何だ」

何かを含んだような緋村の表情に縁が首を傾げる。
一体何がそんなに気にかかるのだろうか。可哀そうに薫はすっかりしょげてしまっていて、 静かに縁に頭を撫でられるままにしている。
巾着をぎゅっと握り締めたまま俯いている薫を見て、緋村は小さく首を振った。

「……いや、何でもない」



***



明るい春の陽光の下で木の根元に座り込み、縁と薫はとりとめもない話題を楽しそうに続けている。 しょげてしまった薫の気分が回復するのにはいくらも時間はかからなかった。緋村のそっけない態度に落ち込んでいたのは 最初のうちだけで、気が付けば機嫌良く身振り手振りを交えて会話に夢中になっている。向かい合わせで座る縁が根気良く話しを聞き、相槌を打ち、 あちらこちらに飛んでいく会話の内容をうまく誘導していた。

「雪が降った日にはね、雪だるま作って遊んだの。あと雪合戦もしたよ!」
「友達とかい?」
「うん友達とも遊んだ!あと道場の人たちも一緒に遊んでくれた!」
「風邪はひかなかった?」
「ひいたよ一回だけね。薄着で外に出たからだって母さまに怒られた。でもそのあと新しい襟巻と手袋を作ってくれたの」
「凄いね、薫ちゃんのお母さんは裁縫が得意なんだ」
「そう! 母さまは裁縫がとっても上手!だから私も習ってるよ。今はね、手拭いを綺麗に作れるように練習してるの。あ、今度縁さんにも作ってきてあげる!」
「本当に?それは嬉しいね。名前の刺繍入りだったらもっと嬉しいな」
「わかった!刺繍も母さまに習って入れてあげる!」

話題は尽きる気配が一向になく、次から次へと流れていく。少しも沈黙する時間がないのだから凄いものだ。 木の上で会話を聞いていた緋村は呆れ半分、感心半分で二人を見下ろしていた。

「あ、緋村さんにも作ってきてあげるね……?」

ふいに薫は上を見上げて、控え目に緋村にも話題を振った。顔色を窺うように恐る恐る話しかけてくる様子に少しだけ胸が痛む。 気分は回復しても、やはり最初の挨拶時の気まずさを引きずってはいるのだろう。
緋村は極力冷たい雰囲気にならないよう気を付けながら、小さく頷いた。

「………刺繍はいらない」
「…!うん!じゃあ刺繍は無しで作るね…!」

拒否されなかったことがよほど嬉しかったのか、薫はぱっと顔を煌めかせる。笑顔のまま縁に向き直ると、 どんな布がいいか、どんな柄がいいかということをいそいそと相談し始めた。
そのせわしなく動く小さな頭の上で、抹茶色のリボンがふわふわと揺れている。
光に反射して所々玉虫色に輝くそれは実に不思議な一品で、この春の気候と薫によく似合っていた。

久しぶりに姿を見せた薫を見て最初に緋村が眉を顰めたのは、決して彼女の着ている若草色の小袖が気に入らなかったからではない。
勿論深緑の帯の色が気に入らなかったわけでも、山吹色の帯上げと帯締めが気に入らなかったわけでもない。

全てが計ったように統一された薫の装いの中で、ただ一つ纏う匂いだけが異物として際立っていたからだ。

(どうしてこの香りが……この近くには咲いていないはずなのに)

懐かしく切なく痛みを伴う甘い香り。
いまだに我が身に近付けたくないと、慄くほどの。

ふわりと風が吹くとまた鼻孔に届く。一体どこから香ってくるのか。薫が香水でもつけているのかと考えて、 そんな馬鹿なとすぐさま否定する。いくらなんでもそこまでマセた子供ではないだろうし、これは香水というよりもっと 直接的な生きた香りだ。

頭の中のざわつきがどうにもおさまらず、とうとう緋村は木の枝からひょいと飛び降りた。
地面に着地するとそれに反応して縁と薫が振り返る。突然のことに驚いてかピタリと会話は止まった。

「一体どうしたんダ」

地面に降り立ってから辺りをひとしきり見回していた緋村に、縁が眉を顰めて尋ねる。 向かいに座る薫は完全に固まっていて、急に上から振って来た男の長い赤毛がさわさわと風に靡くのを、瞬きもせず見ていた。

━━━やはりそうだ
東西南北をぐるりと見回し、緋村は二人の方にひたと視線を向けた。
常人とは比べ物にならないくらい良く利く鼻が、香りの発生源を正確に告げていた。

緋村はすたすたと数歩歩み寄ると、薫の目の前で止まった。
薄い色の目が細くなり、その目線は鋭く薫の右の袂に向けられている。

「……何を入れてる」
「え?」
「袂に何を入れてる」
「……たもと…?……あ、ああ!そうだった!」

一瞬何を聞かれているのかわからないと顔を傾げた薫は、しかしすぐに思い出した。
ここに来るまでの道中で確かに袂に入れたものがある。手土産のつもりで手折ったはずなのにすっかり忘れてしまっていた。
急いで右の袂を探る。

「あのね、ここに来る途中でね、見つけたの。凄く綺麗でいい匂いだったから、お土産にと思って、ほら、これ!」

にっこり笑って薫が差し出したのは、この季節にはとうに散り終わっているはずの、密やかな花弁をつけた真っ白い梅の小枝だった。

袂から出した瞬間に強い芳香が辺りにたちこめる。
甘く、美しく、苦い香り。

途端に緋村は身体を硬直させた。
縁は縁でぎょっとした表情のまま顔を強張らせている。
薫は忘れていた手土産に夢中で、二人の様子には気がつかない。

「はい、緋村さんにあげる!綺麗でしょ?」

立ち上がって意気揚々と小枝を差し出す。
喜んでくれるかどうかは別として、とにかく緋村に何か手渡すということがしたかったのだ。
幼い心は単純に『何かをあげる』という行為の持つ達成感にまっしぐらに向かっていた。

「か、薫ちゃん、それはちょっと……」

微妙な困り顔のまま縁が制止の声をかける。薫の袖を引いて緋村から引き離そうとした彼の手が目的を果たす前に、 小気味いい破裂音と共に、梅の小枝は弧を描いて空中を舞っていた。








モドル。 ススム。