胎動 十一






一瞬薫には何が起こったのかわからなかった。本当にわからなかった。
てっきり緋村がよろけたか何かして、偶然ぶつかってしまったのだと思った。でも違った。
骨ばった大きな手が振り払ったままの形で空中に静止している。
持っていた枝は地面に転がっていて、花びらは無残に散らばっていた。鋭く叩かれた手がじんじんと痛い。

「え……」

手ごと枝を払い落されたのだと気がつくと、薫は茫然と緋村を見上げた。

「………!」

茫然としているのは緋村も同じだった。
まん丸に見開かれた薫の目と自らが叩き落とした梅の小枝を交互に見て、石のように固まったまま動けない。
叩かれた小さな手が薄ら赤くなっているのが可哀そうだと思うのに、それと同じぐらい苛立ってもいた。

━━なぜよりにもよって━━

「やりすぎだぞ緋村」

固まった空気からいち早く抜け出したのは縁だった。すぐに薫を引き寄せて、硬直している小さな手の具合を確かめる。 赤くはなっているが、幸い傷にはなっていないようだった。緋村の長い爪に弾かれれば簡単に皮膚など裂けてしまう。 無傷で済んでいることにとりあえず胸を撫で下ろした。

「大丈夫かい薫ちゃん。びっくりしただろう」

膝をついた縁が覗きこむと、放心状態だった薫の顔が途端にクシャリと歪んだ。
なぜ叩かれたのかわからない。なにが緋村の気に触ったのかもわからない。 自分の何がいけなかったのかも勿論わからなかった。
ただ弾かれた手だけがじんじんと痛い。

「ふっ…うぅっ……」

目に盛り上がってきた涙をこらえようと唇を噛み締める。
それを見て、縁は更に優しく薫の手を撫でた。

「薫ちゃんは悪くない。全然悪くない。その馬鹿男が全部悪いんだ。だから泣かないで」

そんなことを言われてもおさまるわけはない。
ぎゅうと目を瞑った薫の目尻から、大粒の涙がボロっと落ちた。
それを合図にするように自分の手を包む縁の手を振り払う。

「薫ちゃ……」

弾かれたように背を向けて走り出した薫に、膝をついていた縁が少し出遅れた。 肩を掴もうとしたのだが間に合わず。

「薫ちゃん……!」

呼び止める声に振り向きもせず、薫は一目散にその場から逃げ出した。






「………おい、どうするんダ馬鹿男」

「………」

駆けて行く薫の後ろ姿が見えなくなると、縁は冷めた目で緋村を振り返った。 軽蔑と呆れが入り混じったような目だった。
幼い女の子の足になどすぐに追いかければ間に合っただろうが、それは自分の仕事ではない。
元凶がなんとかするのが筋なのだ。
緋村は相変わらず硬直したままで、息をしているのかも疑わしいほど静止している。

「黙ってないでなんとか言えヨ。お前、あんな小さな子に手をあげるなんてクズの中のクズだナ」

手を上げる、という直接的な言葉を聞いて、ようやく緋村が意識を取り戻した。 手をあげたわけじゃない、ただ小枝を遠ざけたかっただけだ。しかし結果的には 手をあげたのと何も変わらない。
自分を睨む縁の視線から逃げるように顔を俯けて、絞り出すように呟く。

「………あの香りが……」

「黙れよクズ。香りがなんだ、そんなことはあの子には何も関係がないだろう。まったく、見かけ通りの女々しさだヨ。 本当に救い難い」

「………」

地面に転がる小枝は無残にその小さな花びらを散らしてしまっている。 白く密やかな美しい花。ほのかな香りが風に乗って二人の周りに漂っていた。

「いつまでもいつまでも、ウダウダと思い悩んでいるからこういうことになるんだ。
 アンタは一体どうしたいんだ? 一生そうやって姉さんのことを悔いて生きるつもりなのか。
 俺がその首を撥ねればいいのか? それとも俺が許せばいいのか?」

「……やめてくれ、その話しはしたくない」

「いいやアンタは聞かなくてはいけない。十年もの間ずっと、目を背けて戻りもせず進みもしなかったツケを、 いよいよ清算しなくてはいけない時が来たのサ」

縁の丸眼鏡が太陽光に反射して光っている。緋村はその光を直視できず、ただひたすらに地面を見つめた。

縁は眼鏡を指で押し上げると深くゆっくり息を吐いた。少なからず高ぶっていた自分の気を静めて、 懐に入れてあった懐中時計をちらりと確認する。時刻は午後四時を過ぎていた。 冬より日が長くなったとはいえ、山の夕暮れは早い。すぐに日が落ちてしまう。

「とりあえず今は、やるべきことがあるだろう。このまま放っておけばあの子は確実に迷子だぞ」

そう言われて、緋村もようやくハッとしたように顔をあげた。
そうだ、薫はこの場所へは何度も一人でやって来ているが、帰り道を一人で行ったことはほとんど無いのだ。 いつも縁か緋村のどちらかが送っていて、緋村に至っては強引な近道をすることもよくあった。 薫がその道順を覚えているとも思えない。もし覚えていたとしても、 山では行きと帰りでガラリと景色が変わる。来たはずの道が別の角度からは違う道に見えたりするのだ。
まして確実に泣いているだろう子供がやみくもに走っていれば、迷うのは簡単だった。

「……っ……」

思わず薫が走り去った方向に目を向ける。影も形も見えはしなかったが、匂いを辿れば見つけられるはずだ。

「早く行けよ。ぐずぐずしてると日が暮れる」

縁が言い終わるか終わらないかのうちに、緋村の姿はその場から消えていた。
走り去ったあとの風が周りの草を揺らしている。

「……」

地面に転がる梅の小枝を拾う。懐かしい香りに縁は目を細めた。

「……本当に、つくづく手のかかる男だねぇ……」



***



どこをどう走ったのかわからない。薫は涙でほとんどぼやけた視界のまま、 必死に山道を駆け下りていた。道の脇から飛び出した木の枝や地面からつき出た草の葉やらで 手足には細かい擦り傷がいくつもできている。でもそんなことも気にならないほど頭は混乱していた。

「うぇ…うっ…うぅっ」

あとからあとから嗚咽が湧き上がってきて、走っているせいで乱れた呼吸が更に苦しい。
肺が悲鳴を上げて、それでも走るのはやめなかった。

(なにがいけなかったんだろう)

何度考えてもわからない。自分は咲き遅れの梅を手折って土産にしただけだ。 それがそんなに悪いことだっただろうか?

(怒らせた……怒らせちゃった……せっかく久しぶりに会えたのに)

枝と一緒に叩かれた手はもうほとんど痛んではいなかったが、別のところがじくじくと痛み続けている。 緋村に会える日をいまかいまかと、春が来るのを心待ちにしていたこれまでの自分が馬鹿みたいで情けなかった。 楽しいはずの再会は自分の気まぐれな行動のせいで台無しになってしまったのだ。ひたすら惨めで悲しかった。

「うぇ…ひっく……」

坂道を全力で走り続けて足が痙攣をおこしたのか、大きく突き出た木の根を踏んだ時に薫の身体は 大きく傾いだ。

「きゃあっ」

そのまま派手に転んで地面に前のめりに倒れ込む。手をついて顔を打ち付けるのはなんとか防いだものの、 着物にはあちこち土がついてしまった。

「うぅ……いたい……」

起き上がろうとしても、転んだ拍子に捻ったらしい右の足首が猛烈に痛い。
踏んだり蹴ったりだった。泣きっ面にハチ。惨めな気持ちが更に増して、 地面に突っ伏したまま薫は暫くしくしくと泣いた。
ひとしきり泣いてようやく気持ちが少し落ち着くと、のそのそと身体を起こして足の具合を確かめてみる。 かなり痛みがあるので走ることは無理そうだが、歩けないほどではない。どうにか家に帰ることはできそうだ。

「っ……いたた……」

立ち上がろうと体勢を変えたところで、ふいに地面が暗くなった。

「おやおや、怪我をしたのかい?」

俯いた自分の頭の上から誰かが声をかけた。途端に薫の背には悪寒が走る。
粘着質なその声には、ありがたくないことに聞き覚えがあった。 恐る恐る顔をあげると、そこにはやはりあの男が立っていた。

「やぁ、薫ちゃん。奇遇だねぇ、こんなところで会うなんて」

なぜここに。なぜこの男がいるのか。
上から薫を見下ろしている白川はニタリと笑みを浮かべていて、その笑顔がどうしようもなく気持ち悪い。

「……っ……!!」

咄嗟に悲鳴が漏れそうになって、だがその声は口から出る前に大きな手に塞がれてしまった。
いや、手だけではない。間に何かの布が挟まれている。

「むぐっ…むぅぅ!!」

「おっと、騒がないでおくれよ」

後ろから抱え込まれるように口を布で覆われて、必死で身体を捩ってもビクともしない。 暴れたせいで大きく息を吸い込んでしまった。途端に視界がクラリと揺れた。 背後にある男の顔を思い切り押しのけようとするのだがうまく力が入らない。

「うー…ぅぅ……」

「しーっ」

伸ばされた手をなんなく避けて男がまるで寝かしつけるように薫の目を覆った。

「そうそう、いい子だねぇ、薫ちゃん」

足から力が抜けてズルズルと崩れ落ちる。視界には木々に生い茂った青々とした葉が映り、 その隙間から空の色が見えた。

逃げなきゃと思う意志とは裏腹に、意識は容赦なく沈んでいった。



***





薫の後を追って急速に山を下っていた緋村は、ある地点まで来るとピタリと足を止めた。

「……?」

この季節は一斉に芽吹き始めた新緑の匂いが濃く漂っていて、目的の匂いだけを嗅ぎわけるのがとても 難しい。それでもよく慣れ親しんでいる━━いつの間にかそうなってしまっていた━━薫の匂いはなんとか 辿ることができた。できていた、のだが。

「途切れた……? いや、方向を変えたのか……?」

ここまでほぼ真っ直ぐに山の麓に向かっていた匂いが、ここにきて急に薄れてしまっていた。 よくよく集中してみると、それは他の何かの匂いと混じりながら全く別の方向へと続いているようだった。 その何かの匂いにも何となく覚えがある。

「………」

ぐるりと辺りを見回してみる。すると大きく地面に突き出た木の根元に、小さな白い物がいくつか落ちているのが見えた。

「あれは……」

近づいて拾いあげる。小指の爪ほどの白い梅の花びらが、緋村の手の上で風に揺れた。

「どうしたんだ、薫ちゃんは見つかったのか?」

緋村に続いて山を下ってきたらしい縁が、立ち尽くしている緋村を見つけて声をかけた。 一緒に薫を探すというよりは、見つかったあとに送り届ける役目をしようと追ってきたのだが。 肝心の薫の姿が見当たらない。

「ここで方向を変えたらしい」

「変えた、らしい?」

緋村が差し出した手の平の上にある梅の花びらを見て、縁は眉を顰めた。

「それは……あの子が袂に入れていたものか…?」

「恐らくは。木の根元に躓いたような形跡がある。転んで落としたのだろう」

「それはいいとして、方向を変えたというのはどういうことだ」

何かを考えているような緋村の様子に、縁は首を傾げた。方向を変えたというのなら、 またそのあとを追えば良いではないか。何をそんなに考え込むことがあるのか。

「他の匂いも混じっているんだ。これは確か……」

さわさわと木々が風に揺れている。太陽はだいぶ西へと傾いていた。日没が近い。
記憶を辿っていた緋村は、答えに行きついて弾かれるように顔をあげた。

「思い出した。あの道場で見かけた男の匂いだ」

その言葉を聞いて、縁はピクリと肩を揺らす。

「それはあの、気持ちの悪い粘着野郎のことカ?」

道場へと送り届ける際に何度か見かけた、薫に強い執着を持っているらしい男のことを、 縁もよく覚えている。
頷いて肯定を示した緋村の長い髪が、沸々と湧く嫌な予感に呼応するようにざわざわと揺れた。 瞳孔は細く長くなり、気配はどんどん鋭くなっていく。

縁は丸眼鏡をクイと押し上げて、苛立ちを隠しもせずに吐き捨てた。



「━━あの野郎。よほど東京湾に沈められたいらしいナ━━」









モドル。 ススム。