胎動 十二



「……それはつまり、私が恐ろしい怪物をこの東京に引き入れてしまったと、そういうことですね?」

ざわつく警察署の一室で、神谷越路郎は向かいに座る細面の男を見上げた。
部屋の扉は固く閉じられているというのに、廊下からは絶え間ない音が聞こえてくる。ある者は怒鳴り、ある者はバタバタと走り回っているようだ。 その周囲の喧騒のせいで余計に焦燥感は増した。ピリピリと張り詰めた空気に耐えかねて、 机の向こうに対峙する細面の男━━浦村署長━━は、かけている丸眼鏡の端をそわそわと押し上げた。

「いや神谷殿、何も貴殿に咎があるわけでは……」

「しかし私の浅はかさが一因であることには変わりないでしょう。せめて最低限の身辺調査はするべきだった」

「それは……確かにそうかもしれませんが」

机の上には何枚もの書類が散乱していた。持ち主の性格を表すように生理整頓された署長室の中で、 机の上だけが雑然としている。山と積まれた書類のその一番上の紙を取り上げて、浦村は普段から開いているのかいないのかわからない目を更に細めた。 眉間に寄った皺は深く、その顔は苦渋に満ちていた。

「この、今は白川と名乗っている男、元は西の方の生まれであったようです」

「あったよう、ということは、正確な出自まではわかっていないということですか」

「ええ。調査が進んでいけばいずれわかってくるとは思います。思いますが、今の時点ではこの男が各地の捜査網を蛇のように擦り抜けながら ひたすらに罪を重ねてきたということしか。いくつもの名前を使い捨て、人を騙し、時には身分を詐称するす術(すべ)を上手に手に入れながら」

越路郎は額を手で覆った。身分を詐称する術。その最も新しい現物は、まさに今、浦村が眺めているものだった。 元は自分の手元にあったものである。一通の、ごく普通の、紹介状だ。

「貴殿にお持ち頂いたこの紹介状ですが、これ自体は本物と考えて良いのですね?」

上質な和紙に丁寧にしたためられた文面を最後まで追うと、浦村はそれをまた机の上に置いた。越路郎は顔を上げて頷く。

「ええ、その紹介状自体は本物です。私自身、少し思うところがありまして。その紹介状を書いた者に確認を取りました。 なにぶん遠方であったので時間がかかったのですが。それを書いた者は確かに神谷の縁戚の者です。西の、ごくごく遠縁ではありますが。しかし…」

「しかし?」

「その紹介状を持っているはずの人物は、『白川』という男などではないと、返答がありました。背格好についてもまるで違うと言うのです。 そしてその正当な所有者は、いまだ帰途に着いていないと」

浦村はそれを聞くと、山となった書類の中からいくつかの調書を抜き出した。慌てたせいか書類の束が雪崩を起こして何枚かがバサバサと床に滑り落ちる。 目的の調書を見つけ出すと、手早くそれをめくり、内容を確認して彼は越路郎に目線を合わせた。

「……先日、西に続く街道の外れで成人男性の遺体が発見されました。なかば白骨化していましたが、肩から脇腹にかけて袈裟懸けに斬られたあとがありました。 身に着けているものから見て、剣術を嗜んでいた者だと思われます」

「……まさか……」

「まだそうと決まったわけではありませんが、可能性としては大きいでしょう。紹介状の本来の持ち主かどうか、至急調べさせます」

そう言って浦村が調書に何かを書きこむと、部屋には重苦しい沈黙が落ちた。
窓から差し込む西日は春の陽気に満ちていて、その暖かい色が逆に不吉さを際立てる気がした。やることはたくさんある。すぐにも動かなくてはいけない。 浦村は一瞬迷うように逡巡したあと、意を決したように口を開いた。

「━━わかっているだけで五人。もし今回の男性の遺体が紹介状の持ち主であったとすれば、六人。少なくとも五人の幼子と、成人男性一人を殺していることになります」

「ご……」

具体的な数字を告げられて越路郎は絶句した。幼子。しかも五人。おぞましい数だ。
戦でもないのにそれだけの人数がたった一人の人間の手にかけられたなんて、
できれば信じたくないことだった。

「明るみになっていない事案もあると仮定すれば、被害者は更に多いと見て間違いないでしょう。身寄りの無い子供や貧しい家の子供の場合、 ただの行方不明で処理されてしまうこともままありますので」

「何という…」

「しかも少女に少年、性別は問わずです。共通しているのは、どの子も見目の整った美しい容姿であったこと。そして…… いずれも暴行の痕跡がありました」

もはや越路郎には言葉を返そうという気力もなかった。いっそ浦村が冗談を言っているのではないかとすら思った。 そんなことがあるはずがない。あっていいはずがない。そんな、吐き気がするほどおぞましいことが、あっていいはずがないではないか。
驚きと嫌悪で鬼の形相を浮かべている越路郎を前に、浦村は焦ったように早口で捲し立てた。

「こんな気味の悪いことをお話しして申し訳ありません。ですが、神谷殿、私は心配でならぬのです」

「心配……?」

「見目麗しい幼子。貴殿のご息女の薫ちゃんは、まさにその条件に当てはまるのではありませんか…?」

「……!」







***








薫が目を覚ました時、真っ先に意識に届いたのは古びた木の匂いだった。
湿っていてどこか懐かしい、しかしカビ臭さの混じる匂い。それが自分の顔のすぐ近くから香っている。 どうやら自分は固く冷たい床に転がされているらしいということがわかるのにそれほど時間はかからなかった。

しかし辺りは真っ暗闇で、何一つ見えやしない。確かに意識は覚醒したというのに、何も見えなかった。━━両目が何かで塞がれている。
目を塞ぐものを取り去ろうと身じろぎしたが、身体の後ろに回されていた両手はビクともしなかった。束ねられた手がこれまた何かで固く縛られている。

「ん…んぅぅ…!」

声を出そうとしたがそれもできない。布の感触が唇にあるから、たぶん口も塞がれているのだろう。
見えもせず声も出せず動けもしない。
混乱状態に陥りながら、なぜこんなことになっているのかを必死に考えた。
覚醒はしたものの意識には薄いモヤのようなものがかかっている。思考は上手く纏まらず、クラクラと回転しているような感覚もあった。

自分は今日、緋村のところを訪ねたはずだ。それはそれは楽しみにしていて、ようやく来た春の陽気に心躍らせながら山道を登った。
途中で遅咲きの梅の木を見つけた。ふくよかな香りのそれを土産にしようと、手折って袂に入れたのだ。
緋村の所には運良く縁も居た。嬉しい誤算だった。緋村と同じぐらい縁にも会いたかった。なぜか不機嫌な緋村の代わりに、縁がたくさん 話しを聞いてくれた。楽しかった。

(それからどうしたっけ? それから━━そうだ、梅の枝を━━)

土産にと手折った梅の小枝を、緋村に渡そうとしたのだ。

(そう、そうしたら叩き落されて)

そこまで思い出すと、薫の目尻には涙が浮かんだ。布で覆われているせいでそれは流れることなく滲んだだけだったが、 ツンとした痛みが鼻の奥に湧いてくる。

(叩かれて、それで、そうだ、走って山を降りたんだ)

わけがわからないまま泣きながら山を下った。緋村を怒らせたことがただただ悲しかった。

(それから途中で転んで、それで起き上がったら━━)

あの男に会ったのだ。

「……っ」

そうだ。自分は最後にあの男に会ったはず。そしてそこからの記憶が全くない。
そこまで考えて薫の焦りは増した。一刻も早くこの目隠しを取って周囲を確認しなくてはいけない。 それなのに両手を縛るものは一向に外れる様子もなく、体力だけが無駄に消耗していく。手首が擦れて痛い。

起き上がることもできず芋虫のようにもがいていると、ガタガタと木の扉が引き開けられるような音がした。

ふわりと新鮮な新緑の匂いが吹いてきて、誰かがそこに立っている気配がした。
薫はハッとして動きを止めた。緊張で身体が硬直する。緋村か縁であって欲しい。それか他の、全く知らない誰かでもいいから。





「やあ薫ちゃん。起きたんだね」

「……っ」

耳に届いたのは一番聞きたくない声だった。
柔らかく男にしては少し高音気味のその声は、聞く人によっては美声と感じるのかもしれなかった。 実際、道場を時々覗きに来ている近所の年頃の娘たちが、この声を『いい声よねぇ』と称賛しているのを何度か聞いたことがあった。 薫にしてみれば信じ難いことだった。ちっともどこがいいのかわからない。

「手荒な事をしてごめんねぇ。でも薫ちゃんがいけないんだよ、暴れたりするから」

この、上辺だけの柔和さに覆われた限りなく薄気味悪い不協和音。音に滲み出る酷薄さに、どうして皆は気づかないのだろう。

「さ、目隠しは取ってあげよう。僕は君の大きな目が大好きなんだ」

近づいて来た気配から必死に逃げようとしたが、少しばかり床を移動できただけだった。 肩を掴まれて上半身が起こされる。後頭部の何かを解かれると、目を覆っていたものが取れて途端に視界が開けた。 取り去られたのは手拭いか何かだろうか。 薄暗くてよくわからない。

「あれ? もしかして泣いてたのかな? 大きな目が潤むと更に存在感が増すねぇ」

「……っ…」

案の定目の前に居たのは白川だった。薫は声にならない悲鳴を上げて━━悲鳴を上げようにも口は塞がれているので無理だった━━ 素早く後ろへと身体を引く。
横目できょろきょろと周囲を見回すと、自分たちが居る場所が小さなあばら屋のようなものの中だということがわかった。
扉は一つ。窓はなく、しかし壁のあちこちにあいた隙間からかすかに西日が差し込んでいる。

白川はせわしなく視線を巡らせる薫の様子をにこにこと見ていた。決して慈しんでいる笑顔なぞではない。 嘲笑と優越感。そういうものが隠しきれずに滲み出ている。

「そんなに周りを探してもここには他に誰も居ないよ? ここは山の中の朽ちかけたお堂だからね。 だあれもこんなところに用事なんてないし、探してもおいそれとは見つからないだろうねぇ」

「……」

暗に『逃げられないぞ』と言っている。そして『助けも来ない』と脅しているのだ。
薫がきつく睨みあげると、白川は『おや』と言って驚いたように目を瞬いた。

「そんな顔もできるんだね。根は気の強い子だとは思っていたけど、なるほど、そうやって敵意剥き出しの目で睨まれるのも悪くない。 なにせ君は僕がいくら打ち解けようとしてもちっとも心を開いてくれなかったものね。他の門下生には笑顔を振り撒くのに僕には少しも笑いかけないし、 会話にも全然乗ってこない。だから実に新鮮だよ。こんな風に君が感情を隠さないのを見るのは、うん、実に新鮮だね」

ふむふむと満足そうに頷くその男の様子が、薫にはどうしようもなく気持ち悪かった。 こんな風に監禁紛いのことをされている時点で十分意味がわからないのだが、それ以上にこの男の考えていることが未知数すぎて、 薫の中で言い様のない不安と恐怖が込み上げてくる。

「どうしてこんなことするんだろうって、思ってる?」

目の前にしゃがんだ白川は薫の頭の先から足の先までを眺めて、実に楽しそうに笑った。
つり上がった口角と、細められた瞼から覗く底の見えない瞳。

まるで蛇のようだ。
その口角の先からチロチロと出る細い舌までが見えるようだ。




「僕はね、綺麗な子が、大好きなんだ」







モドル。 ススム。