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胎動 十三 小屋の壁にところどころ空いた隙間から、橙色の西日が細く差し込んでいる。 空気の中を舞っている埃が光に照らされて、酷く時間の流れが遅くなっているような気がした。 「最初はね、ただ美しいものが好きなだけだったんだ」 薫の目の前にしゃがみこんでひとしきり眺め回すと、白川は満足そうなため息と共に呟いた。 過去の記憶を手繰ってでもいるのか、その目の焦点は薫を通り越してどこか遠くに結ばれている。 「物心ついた時から、僕は美しいものが好きだった。薫ちゃんも好きだろう?綺麗な色のリボンや、 可愛い柄の着物や、ガラス細工や小物や、そういうもの。色々集めてるもんね?君の審美眼はなかなか筋が良いと思うよ。 君は自分に似合うものをきちんとわかっている子だ。それは自分の短所と長所を知っているからできることで、 その歳ではなかなか難しいものだよ。 ……話が逸れたね。とにかく、君がそういうものを愛でるのと同じ気持ちで、僕は とりわけ“美しい人間”が好きだったんだ」 白川の声は一定の落ち着きを保っていた。表情は穏やかで、視線は確かに薫の顔に向いているのだが、 通り抜けてどこか別の所を見ている。まるで演説でもしているかのような抑揚の付け方で語られる話しを、 薫は慎重に身構えながら聞いていた。この話しの向かう先がどこに続いているのかを、少しでも早く見極めなければいけない。 「ねぇ薫ちゃん。この世で一番美しい人間とは、どういう人間のことだと思う?」 問いかけられて、薫はピクリと肩を揺らした。白川は今度は間違いなく薫の顔に焦点をあてて、 興味深そうにこちらの様子を伺っている。 ――この世で一番美しい? 問いを反芻して真っ先に薫の頭に浮かんできたのは、何故か長い赤毛を風に翻す緋村の姿だった。 (やだどうしてこんな時に……) 美しいという言葉から真っ先に連想するのが男だなんておかしい。そもそも彼は“人間”のくくりに入れて良い者なのだろうか? 思考を振り払うように何度か頭を振ると、目の前の白川はそれを見て眉を顰めた。 「今、誰のことを頭に思い浮かべたのかな?」 「……」 「ああ喋りたくても喋れないか……いいよ、とりあえず今は不問にしておこう」 猿轡を解く気はないのか、小さく唸る薫を無視して、白川はまたも己の語りに戻った。 「この世で一番美しいのはね、“子供”だと僕は思うんだ」 そう言ってひたと薫を見つめると、白川はゆっくりと周囲を歩き出した。 まるで“とっておき”の宝物を鑑賞するように薫の周りを周回しながら、尚も演説は続く。 「小さなものというのは、それだけで可愛らしいものだ。 だからと言ってまるっきりの赤子ではだめだよ。頭身が低すぎる。 言葉も解さないような年齢の赤ん坊なんて動物と同じさ。少しも美しさなんてありゃしない。 そうだな、年齢は八歳から十歳ぐらいが一番いい。頭と身体の比率が最もあやふやで、 不均等で。言葉の意味と世の中の理が少しずつ理解でき始めた頃の、 精神が急激に育っていく時期の子供。 性差がはっきりと現れでる寸前の、不均衡な美しさほど、言葉に尽くせないものはないね」 語られる言葉の全てを、薫は理解できたわけではない。むしろほとんど理解できなかったし、したいとも思わなかった。 そんなものを理解できなくても、これだけはわかる。自分の周りをぐるぐると徘徊しているこの男は、間違いなく気持ちが悪い。 子供がどれだけ好きか知らないが、こんな風に拐かし紛いのことをして、手と口を塞いで小屋に放り込むようなことは、 どう考えても真っ当な人間のすることではない。 美しい子供が好き?だから何だと言うのだ。それと今自分をこんな目に合わせていることと、一体何の関係があるというのか。 「でも全ての子供が美しいわけではないんだよ。勿論ね。僕にだって拘りがある。 中でも“容姿”は重要だ。キメの細やかな肌や、黒々とした髪。形の良い目や鼻や口。 外見が整っていることは、僕にとっての“美しいもの”に入る 第一条件なんだ。見れくれが良くなければ、全てが台無しだからね。 これまでに僕の目にかなう“美しい子供”は、そんなにたくさん居たわけじゃない。 その点君は――」 何回目かの周回を終えると、白川は薫の正面で動きを止めた。 「――その点君は、完璧に美しい子供だよ。薫ちゃん」 その一言を聞いた時の薫の驚愕を、どう表せば良いだろうか。 まさに頭を石で殴られたような衝撃と、一瞬にして全身に浮いた冷や汗と、胃の辺りがひゅうと竦むような感覚と。 この男、今なんと言った? 完璧に美しい子供?誰が?私が? つらつらと語られた演説の終着点が、最終的には自分に辿り着くのだと、薫はここに来てようやく本当に理解した。 自分が美しいかどうかの真偽のほどは置いておくとして、何ということだろう。 この男にとっては自分が“完璧に美しい子供”と認識されているのだ。普通ならば誉め言葉であるはずのそれは、 この状況においては不吉でしかなかった。 一気に顔色を悪くした薫の様子を見て、白川は満足そうに頷いている。 「そうそう。そうやってね。未来を予測して脅えることができるのも、 君ぐらいの賢しさがないとできないことだよ。君の一番の美徳はそこにあるんだ。 容姿だけでなく頭も良い。かと言ってこまっしゃくれている訳でもない。絶妙な均衡だ。 ━━そろそろ口は自由にしてあげようか。声が聞けないのはつまらないから」 そう言って無造作に手を伸ばすと、白川は薫の口を塞いでいた布を取り去った。 薫はようやく自由になった口で新鮮な空気を吸い込む。何度か咽ながら呼吸を落ちつけると、 顔を上げて白川を睨んだ。本当は大声で詰ってやりたかったが、また口を塞がれてしまっては困る。 声を張り上げたいのを我慢して、ぎゅっと唇を引き結んだ。 「…本当に君は賢しいねぇ。これで騒ぐようなら、 今度は布を直接口に詰めてしまおうと思っていたのに」 どうやら判断は正しかったらしい。白川がポイと布を床に投げ捨てたのを見て、薫はできるだけ気を落ち着けながら口を開いた。 「……どうして、こんなことするんですか」 「どうしてだと思う?」 質問に質問で返されて薫はむっとした。わからないから聞いているのに。 「僕だって本当はこんなことしたくないんだよ。本当だよ? こんなことをしなくても済むように、君と仲良くなろうと努力したんだ。 でも君はどうしてか僕には全く心を開いてくれなかったね? だからだよ。薫ちゃんがもう少し僕に歩み寄ってくれていたら、 こんな強引な手段を取ることは、きっとなかったと思うよ」 じゃあ自分がこの男と打ち解けていたら、この状況を回避できたということなのだろうか? 仲良くできなかった自分が悪くて、心を開いて接しなかった自分のせいで、今こんな目にあっているというのだろうか? ━━そんな馬鹿な。 ぐるぐると考えを巡らせている薫を無視して、白川は悦に入るように声を上げた。 「全く僕は幸運だった! たまたま手に入れた紹介状が神谷道場へのものであったことも、 その道場に君が居たことも、もう運命としか思えなかったね」 「……?」 その言葉に薫は眉を寄せる。“たまたま手に入れた紹介状”とはどういうことだろう? この男は神谷家の遠縁の者で、だからこそ道場主である父も快く受け入れたはずなのに。 怪訝そうにしている薫を見て、白川はなんでもないことのように言った。 「東京に来る途中で殺した男が持っていたんだよ。神谷道場への紹介状をね」 「っ…なっ……!」 「腕に覚えはあったから、ちょうどいいと思ったんだ。 東京でしばらくは身を顰めて暮らすしかないと思っていたけれど、 剣術道場への紹介状が手に入るなんて運が良かった。 おまけに道場主はあっさり信じてくれて。ほとんど質問さえされなかった。 君の父上は本当に人がいいよね。馬鹿がつくぐらいに。 そしてそこには薫ちゃん、君が居た。運命だと思ったよ。 僕は君に出会うために導かれたんだって」 “人を殺した”ということをこんなにも平然と言ってのける目の前の男に、薫はもはや思考が追いつかなくなっていた。 おまけに紹介状の持ち主になり済まして、父を騙して道場に潜り込んだなどと。あげくの果てに“運命”なんていうもっともらしいことまで言っている。 これまで薫が出会ってきたどんな人間の中にも、これほど傲慢な者はいなかった。 「冗談…でしょ…?」 「冗談? 何が?」 「だって…そんな…何のために……」 混乱する薫に息がかかる距離まで顔を寄せて、白川は至極真面目な様子で言った。 「美しい子供を見るとね。僕はどうしても近づきたいと思ってしまうんだ」 それはもう磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、なす術もないことなのだと白川は本気で思っている。 一体いつから明確にこんな嗜好が身に付いたのかなど、彼自身にさえわからない。 わからないぐらい昔から。わからないぐらい自然に、気がつけば年端もいかぬ見目の良い幼子にばかり目が向いていた。 「人間が生きる一生のうちで瞬く間に過ぎ去ってしまう一瞬の、奇跡のような時間。 あどけない幼子が持っている不均衡な美しさは何者にも代え難い。 そういうものに近づきたい、愛でたい、触りたい。 薫ちゃん、君は僕が今まで見てきた子供の中で、最も理想に近いんだ」 息を詰めた薫の目の前にしゃがみこんでいた白川は、唐突に立ち上がるとその場で大きく手を広げて嘆いた。 「それなのに人間はすぐに醜くなってしまう!」 突然上がった音量に薫はビクリと肩を揺らした。 目の前の男はなぜか急激に気を高ぶらせていっている。 「薫ちゃん、君だってそうだ。君はそんなにも完璧な“美”を備えているというのに、なぜなんだ?」 「なぜって……なにが……」 「なぜ“恋”などというものを覚えてしまったんだ?」 「…っ……!?」 「僕にはね、わかるんだ。神谷道場に来てからずっと君を見ていたから。 君は最近、そう、去年の秋の頃から変わってしまった。君が君の父上と紅葉狩りに行った その辺りから。僕は嫌な予感がしたんだ。 これまで僕を幻滅させてきた“期待外れ”の子供らからした匂いと同じものが、 君から漂いつつあるって。春になってそれは一層強くなった。僕は確信したよ。 ━━薫ちゃん、恋をしているね?」 「っ…そんな…ことは…」 「どこのだれかは知らないけれど。今日もその相手と会っていたんでしょう? 君はまだ初潮もまだの子供のくせに、“友達と遊びに行く”だなんて嘘をついて、 こんな山の中まで逢い引きに出向くなんて」 「逢い引きなんてそんなんじゃ」 「そんな醜い“女”になんてなってはいけないんだ!」 「……っ!!」 勢いよく肩を掴まれて、薫はバランスを崩した。半ば床に倒れ込んでしまい、 背後で縛られたままの両手でどうにか身体を支える。 白川の目は完全に常軌を逸していた。 「いつもいつもいつもいつも。僕の目にかなう子供たちはいつも“美しいまま”ではいてくれない。 “恋心”なんていうものは“美しさ”を失くす弊害でしかないのに。 欲望に塗れてしまったらあっという間に醜くなってしまうのに」 顎を掴まれて強引に上を向かせられると、薫は目の前に迫る白川の顔を嫌でも凝視しなくてはならなくなった。 蛇のようだと思っていたその目が、今はぐるぐると螺旋を描いているようにさえ見える。 ━━おぞましい。 「ねぇ薫ちゃん。美しいものを一番美しい時に留めておきたいと思うことは 至極真っ当な心理だろう?」 近づいてきた白川の顔を咄嗟に薫は避けた。口を吸おうとしていた男の唇が引き結んだ薫の唇のすぐ横に押し付けられる。 なま暖かい湿った感触がして、薫は心底嫌悪した。気持ち悪い。ただただ気持ち悪い。 「…っいや…!!!」 身を捩ってもがくと、どうにか白川の唇が離れた。 「やっぱり君も嫌がるんだね。どうして? 他の子も皆そうだった。 仲良くなって手懐けた子でも、最後はやっぱり抵抗するんだ。 この前小石川で見かけた子もそう。薫ちゃんに少し似ていた。 頭は良くなさそうだったけれど、容姿はなかなかだった。 着ている着物が青地でね、君の藍色の小袖を連想させたよ。 君にツレなくされてばかりで我慢ができなかった。優しく声をかけて、 最初は機嫌よく懐いてきたのに、最後はやっぱり抵抗したんだ。 本当に忌々しい」 そう言うと白川は薫の肩を強く押した。 完全に床に倒れ込んだ薫が抗議の声を上げる前に、手の平が口を塞ぐ。 「むー!んーー!!」 「しー!静かにして。暴れると僕も酷くしなくちゃいけなくなる」 宥めるように囁きながら、白川のもう片方の手が薫の着物の裾を割り開いた。 体重をかけて押さえこまれていて、薫は必死に足をばたつかせてはみたが逃れることは到底できそうにない。 「ねぇ薫ちゃん。まさかとは思うけど、逢い引きの相手に“手を出されて”なんていないだろうね?」 せわしなく裾の中を弄りながら白川が思いついたように尋ねた。 「んむーー!!!」 「僕が調べてあげる」 一体何を調べると言うのか。薫が首を振って拒否している間に、バタつかせていた足が白川の片手に捕らえられた。 「じっくり検分してあげるよ。君が“美しい”ままかどうか、じっくりね!!」 「むぅぅうううーーー!!!!」 薫の足が大きく広げられるのと、小屋の扉が吹き飛んだのはほぼ同時だった。 「なっ━━!」 派手な衝撃音を響かせながら破られた扉が背後から四方へ散ったのを見て、白川は驚愕の声を上げる。 振り返った白川と、その肩越しに小屋の入口を見た薫の目に映ったのは、扉を蹴破った形のまま着流しから真っ直ぐに伸びている 形の良い筋肉質な足だった。 「━━下衆が」 腹の底から響くようなその声と、続いて見えた翻る長い赤毛は、薫が今一番欲しいものに間違いなかった。 モドル。 |