冷たいながらもどこか柔らかい風が吹いた。
微かに花の香りと、芽吹き始めた新芽の香りを含んでいる。

春一番というものは、ただそれだけで清々しい。

「わぁ、今日はあったかい!これなら多分、大丈夫ね!」

門を潜って外に出た薫は、大きく息を吸い込んで、春の訪れに一人歓声をあげた。

早足で歩きながら後頭部に手をやって、柔らかな布地を確かめる。
今日は春らしく桜色のリボンを選んだ。藍色の次にお気に入りのものだ。
小袖も桜模様で合わせている。それから手に持った、巾着も。

母が揃いで仕立ててくれた小袖と巾着を身につけるのは、今年に入ってからは今日が最初だった。

全身上から下まで桜色。

━━なんかちょっと、これじゃうるさいかなぁ?━━

冬の終わりが待ち遠しすぎて、湧き立つ気持ちのままに着物を選んでしまった。
あからさまに浮かれた心が、見た目にも滲み出ているかもしれない。

━━きっと鼻で笑われる━━

「でも、別に気にしない!」

笑われようが何だろうが、そんなことは今の薫には少しも痛手ではない。
笑いたければ笑えばいいし、馬鹿にしたければすればいい。

そんなことはどうでもいいのだと、胸を張って言えるぐらい。

心底今日を楽しみにしていたのは、本当のことなのだから。








胎動 八






「━━越路郎さん。最近、薫ちゃんをちょっと自由にさせ過ぎなんじゃありませんか?」

道場の中は喧騒に満ちていた。
床を踏み抜く音と、竹刀を打ち鳴らす音。そして気合の入った掛け声が絶え間なく響いている。
その音の合間を縫ってかけられた声に、越次朗は竹刀を担いだまま振り返った。

「ああ、白川君か。薫がどうかしたのかい?」

振り返ると、細身で中肉中背の男が、にこやかな顔で立っていた。
竹刀を片手に持ち、もう片方の手には手拭いを提げている。

「いえ、どうかしたということではないのですが。秋頃から結構頻繁に外に遊びに出るようになりましたよね。  冬の間は無かったようですけど、今日もまたどこかへ行ったようですし」

「そのようだね。だが友達と遊びたい年頃だろう。あれくらいの女の子は特に」

「ええ、そうかもしれませんが。だからこそですよ。年頃と言ってもまだ小さいのに、
 一人で外に出すのは危なくありませんか?
 それに行き先を聞いてもどうもあやふやで、本当に友達と遊んでいるのかどうか・・・」

ふむ、と頷いて、越次朗は隣に立つ青年をしげしげと眺めた。
いかにも心配だという顔をして自分に訴えかけているこの男は、
一年ほど前にこの道場にふいに現れた、遠い縁戚に当たる人物だった。
名を白川という。
実のところ、越次朗には白川という名に聞き覚えが無かった。
付き合いのある親戚にもそんな名前の家は無く、勿論この青年にも面識があったわけでは無い。

去年の今頃に突然道場を訪ねて来たこの青年は、自分は神谷の縁戚の者で、諸国を回って剣の腕を磨いているので、 どうか暫くの間こちらの道場でお世話になりたい、この道場のことはどこそこの誰それから噂を聞いて立ち寄ったのだ、と口上を述べた。 その説明の過程で出てきたいくつかの名前は確かに親戚のものであったし、簡略ながら聞き覚えのある縁者の名で書き記された 紹介状も持っていた。
剣の路とは誰にでも開かれているもので、望む者は皆平等に道場に受け入れるというのが信条であった越次朗は、 快く青年の入門を許した。 見れば青年の物腰はごく柔らかく、言葉づかいもしっかりとしている。それに諸国を回っているというだけあって、 剣の腕前もなかなかのものだった。恐らくこの道場に通っている者たちの中でも三本の指には入るだろう。
稽古にも熱心に取り組み、休むことは滅多になかった。
人当たりも良く、他の門下生とも打ち解けている。その整った顔立ちと立ち居振る舞いのせいか、近所の娘たちの 憧れになっているようでもあった。

しかし越次朗はここに来て、微かな違和感を覚え始めていた。

人懐こく誰にでも愛想を振りまくはずの薫が、何故かこの青年にだけは懐こうとしていないからである。 逆にこの青年はと言えば、どことなく薫にかまい過ぎているような気がした。

「僕はただ心配なだけなんです。最近はだいぶ治安が落ち着いたとは言え、  まだまだ世の中は物騒ですから。何かあってからでは・・・・・・」

少しだけ眉を寄せて薫の身を案じるその顔は、一見本当に優しい人柄を表しているように見える。 だが越次朗はそこに見え隠れする、危うい執着心をじんわりと感じ取っていた。

━━いくら信条とはいえ、少し短慮であっただろうか━━

縁戚の者であるという言葉をあっさりと信じて、碌に調べることはしなかった。
思い過ごしであるなら、それに越したことはない。

━━だが一応、確認はしておくべきか━━

「越次朗さん? 聞いていますか?」

自分の顔を見つめたまま黙考してしまった越次朗の様子に、白川が急かすように声をかけた。

「ん、ああ…聞いているよ。薫には後で私からそれとなく言っておこう。
 まぁ、君もそんなに心配するな。あれでもしっかりしている子なんだよ」

「ですが…」

尚も言い募ろうとする白川を軽く手で制し、越次朗は道場の中心へと顔を向けた。

「そろそろ乱取りが終わるな。白川君、次は試合形式でやるから、君も準備しなさい」

「……はい」



指示を出すために越次朗はすたすたと離れていく。
その背中を、白川が睨むように見つめていた。

━━なかなか上手くいかないもんだ━━

手で握りしめられた手拭が、ギシギシと小さく音を立てた。





*********************




「冬の間は来るなと言っただろう・・・・・・」

いつものように腕を組んで仁王立ちしたまま、緋村はがっくりと項垂れた。
目の前には全身これでもかというほど桜色の薫が、むくれた顔で立っている。

「もう春だもん。春になったら来ていいって言ったでしょ!」
「何が春だ。どこが春だ。この山中のあちこちに残ってる雪がお前には見えないのか」

意気揚々と山を登っていつもの場所にやって来た薫を見て、緋村は猛烈な頭痛に襲われたような気がしていた。 春になるまでは来ないという約束をさせたはずなのに、雪解けも終わっていないこんな早い時期に 薫が再訪するとは思っていなかったのだ。
確かに街中ではもう風も暖かく、春の陽気を感じる日もあるだろう。しかしここは違う。山のそこいら中に雪が残っていて 風も冷たい。こんな中をそんな薄着で歩いてくるなど、いくら子供でもしないだろうと思っていたのに。

「━━寒いのか」

現に目の前に立つ薫は、ぶるぶると小刻みに震えていた。ぶすくれた頬は風の冷たさのせいで赤く、逆に唇は少し青褪めている。
はあと溜息をついて額に手をやった緋村は、ふいと薫に背を向けて歩き出した。

「…! どこに行くの…!?」
「少しそこで待っていろ、馬鹿娘」

森の中へと消えて行った緋村を少し待っていると、すぐに消えていった同じ場所から戻って来た。手には何かもこもことした 毛の塊のようなものを持っている。一体どこからそんなものを持って来たのだろう。薫は緋村が消えて行った先が気になった。

「これでも巻いておけ」

「わっ…」

ばさりと頭に振り落とされたそれは、雪のように白い毛皮だった。狐だろうか、触るととても手触りが良く、ふわりと太陽の匂いがした。

「うわ…あったかい…」

首の周りにぐるりと巻くと驚くほど暖かい。余った部分を肩にまでかけてみると、寒さはあっという間に消えた。

「ありがとう」

もこもこの毛を握りながら緋村を見上げて、薫は笑った。




「今日は縁さんは居ないの?」

緋村の定位置となっている木の枝に向かい合うように腰かけながら、薫は思いついたことを尋ねた。
いつもなら緋村だけが枝の上、薫は気の根元に座り込むのだが、まだ湿った土は冷たくてとても腰を下ろせるような状態ではなかった。 不機嫌そうな緋村にせがんで、自分も枝の上に上げて貰ったのだ。一度ここに座ってみたいと思っていた薫は、不安定な枝の上で 重心に気をつけながらも上機嫌だった。

「今日は居ない」

「そっか」

緋村からの返事はいつもそっけない。それは薫がどんな話題を振っても同じで、もはや会話というよりは薫の一方的な独演会のようになっていた。冬の間にあったこと、最近の稽古の内容、友達とのたわいもない出来事。次から次へと薫が繰り出す話題は豊富で、 緋村はただ頷きも少なく聞いているだけだ。本当に聞いているのかどうか怪しかったが、薫は別に気にしていなかった。 本当に返事が必要な事にはきちんと答えてくれるし━━たまに無視されることもあるが━━ただ目の前で座っている緋村の顔を見て 話しているだけで、不思議と楽しかった。
手持無沙汰になれば、長い赤毛をひたすら三つ編みにする作業に没頭した。
一房手に取って編みこみ、先までいったら解いてまた最初から編みこんでいく。編みこまれた束は陽の光に照らされて、所々が 橙に輝くのだ。それはとても美しかった。
最初は嫌がって止めろと言っていた緋村も、しつこい薫の懇願に負けたのか、今では黙って髪を薫の好きにさせている。
むしろその間は薫の猛烈な喋りが止まるので、仕方なく受け入れているといったところだろう。

「…できた!」

黙々と赤毛を先端まで編みこんでいた薫が嬉しそうに顔を上げた。目を閉じてじっとしていた緋村が目を開けると、 三つ編みを手で揺らして達成感に溢れる顔の薫が笑っている。

「……おい」

先端まで編んだ毛の束が藍色の細い布で蝶結びにされていた。

「わたしのリボンと、お揃いなんだよ!」

確かにそれは薫が良く身につけている藍色のリボンと、全く同じ色だった。細いのに赤い髪にはやけに目立つ。流石にそれは 緋村の眉間の皺を深くしたが、薫の満足そうな表情にしぶしぶ抗議の声は飲み込んだ。

「そろそろ帰る時間だろう」

「あ、ほんとだ、帰らなきゃ!」

話しに夢中になり、三つ編みに夢中になっているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。
薫は慌てて腰を上げる━━ここが枝の上だということはすっかり頭から抜けたまま━━

「きゃあっ」

当然のようにバランスを崩した薫が地面に叩きつけられることは無く。
素早く伸びてきた緋村の腕が、ひょいと小さな身体を掬い上げた。

「全く、これだから危ないと言ったんだ……」

がっしりと胴体を固定されたまま薫が息をつくと、すぐ横に緋村の顔があった。思いがけず近くにその顔を見て、 薫は訳もなく慌てた。陽の光に反射して金色になった目が、薫を見ている。

━━なんて綺麗なんだろう━━

思わず伸ばしそうになった手を、緋村はすいと顔を背けて回避した。
その避けられた仕草に、薫の胸がちくりと痛む。
嫌われてはいないだろうに、だからと言って好かれているわけでもないのだろうか。
伸ばそうとした手を引っ込めて、薫はぎゅっと目を閉じた。
緋村はそのままはずみをつけて枝から飛び降りる。衝撃は無く、薫は抱えられたまますとんと軽やかに着地した。

「このまま送っていく」

「……うん」

首に巻いたままの白い毛皮に顔を埋めて、薫は緋村の着物を握り締めた。
走り出した緋村の表情は見えない。

冷たい風が、熱を持った顔を冷やしてくれる気がした。








モドル。 ススム。