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何を間違えて、どれが正しかったのか。 そんな問い掛けが無意味だということにはお互いにもうとっくに気づいていた。 最初の一歩を踏み出すのがどちらなのかという探り合いと牽制を繰り返すことにも、 もうとっくに疲れていた。 ただ声高に罵ることが出来るほど単純なことでは無いと解っていたし、 ただ跪いて悔いることが出来るほど己に甘くも無かった。 だから出来ることなら、願わくば。 この小さな災害のように突然現れた侵入者が、全てを破壊してくれたら。 壊しきって粉々に砕けたこれまでの全てを蹴散らして、 自分たちが縋るに値するだけの新しい何かを掴みだしてくれたなら。 そしたらもう、何もかもを理解して、何もかもを許せる気がした。 胎動 七 「あのね、それでねっ、他に剣術をやってるのはみんな男の子ばっかりだからね、 『女なのに剣術やってるお前は変だ』って言われたの。だからね、こう言ってやったんだぁ……」 季節は秋も終盤で、冬の匂いのする木枯らしが吹き始めている。黄色や赤や橙の紅葉もほとんどが茶色に変わり、 地面に深く積っていた。山の木々はその枝を寒そうに突き出していて、冷たく澄んだ空がその間から見えている。 東京ではつい最近初霜が降りたばかりだ。 いつものように定位置の枝の上に寝そべりながら、緋村は木の下で繰り広げられる姦しい会話を聞くともなしに聞いていた。 「そしたらねぇ、その子が掴みかかってきたから、逆に投げ飛ばしてやったの!」 「剣術だけでなく投げ技まで使えるのかい?」 「そうだよ! 体術も一緒に習ってるから!」 「それはそれは。相手の子も恐れ入っただろうね」 「うん! ・・・でもその後で父様には怒られたんだぁ。『驕れるものは久しからず』だって。 暴力がいけないのはわかったし反省もしたけど、この言葉の意味はなんとなくしかわからなかった。 ねぇこの意味って、縁さんはちゃんとわかる?」 「ふふ、解ると思うよ。なんとなくね」 木の根元に座り込んだ薫と縁は、飽きることもなく話し続けている。 と言ってもその会話のほとんどは薫が一方的に捲し立てているもので、縁は専ら相槌を打つ役らしい。 この年頃の女の子というものが皆そうなのか、薫が元々話し好きなのか━━恐らく後者だろうと緋村は確信しているが━━ 出てくる話題には尽きることが無いようだった。時々興奮が抑えきれないのか、身振り手振りが混じることもある。 子供特有の高い声が、次から次へと突飛な話題を繰り出して来るのにも、縁は辛抱強く頷きを返していた。 ━━女が三人寄らずとも、こうも喧しくできるとは━━ 楽しそうに揺れる黒髪とリボンを上から見下ろしながら、その隣でにこやかに相手をする縁には、 少なからず尊敬の念を覚えた。自分ならばきっと四半時も持たないに違いない。 薫がこの山の中へ通い始めてから1ヶ月半ほどが経っていた。 来るのはほぼ週に一度の割合で、回数にすればまだ十回にも満たない。 決まって午後の早い時間にやってきて、数時間をここで過ごし、日暮れに間に合うように家路に着く、 その繰り返しだ。 帰路は緋村か縁のどちらかが送って行くのだが、実際には縁が送り手になることが多かった。 緋村による家への強制連行━━つまり担がれたままの急速下山━━に、薫自身が懲りているということもあるが、 何よりその姿が街中では目立ち過ぎるということが主な理由だった。 白髪の異国風男とて目立つことには変わりがないが、それでも人離れした速度で移動しないというだけ、 緋村よりはマシなのだ。 薫が来るようになってからというもの、縁の訪問回数も以前とは比べものにならないほど増えていた。 これまで薫が来た日に縁が居なかったことの方が少ない。 半年に一度か二度ふらりと現れるだけだったことを思えば十分異常事態だが、 それは緋村にとっては迷惑というよりむしろ、有り難いことだった。 正直なところ、薫をどう扱って良いのかわからない。 縁以外の人間と接触らしい接触はもう何年も持っておらず、おまけに齢十にも満たない子供などには 過去を振り返っても関わったことは少しも無く。否、『無い』とは言い切れないだろうか。縁も数年前までは、 子供だった。 とにかく『女の子供』には接点が無かったのだ。 驚くほど良く喋る生き物であることも、喜怒哀楽がはっきりし過ぎていることも、感情の波が表面に現れ過ぎることも、 予想以上に緋村を混乱させた。 全てに対して、どうして良いのかわからない。 その高い体温と微かに香る甘い匂いに、腹の底がわけもなく疼くことも。 何もかも、どうすれば良いのかわからない。 緋村は薫に訪問を許したことを、今では少し後悔しつつあった。 だからこそ縁がこの場に居ることが有り難い。 縁が居れば、薫の相手をするのはほとんど彼ということになる。話し相手になり、遊び相手になり、 時折二人で木の上の自分をからかったりもする。 聞き上手な縁に対しては薫はますます饒舌で、終始機嫌が良いようだった。 こんな風に上手く子供の相手をするのだと、緋村は知りもしなかったのだが。それが嘘であろうと本当であろうと、 今は素直に感謝しようと思えた。 「ぶっ、それは・・・本人に聞いてみればいいんじゃないかな・・・っくく」 ぼんやりと木の枝を眺めていた緋村の耳に、縁の咳き込むような声が聞こえた。と同時に、 耳の後ろの辺りにツンとした痛みが走る。 「・・・っ・・・なんだ」 見下ろすと、垂れ下がった赤い髪の一房を、立ち上がった薫が握り締めていた。 顔のぎりぎりまで近付けて、まじまじと手の中の赤毛を眺めている。 「・・・おい、何して」 「ねぇこれは、いつ変わるの?」 咎めようと眉を顰めた緋村を勢いよく見上げて、薫が不思議そうに聞いた。 「・・・は・・・?」 「だからね、この髪は、いつ茶色くなるの? 周りの葉っぱはもう全部茶色になったけど…」 「ぶはっ…!」 「・・・・・・・・・・・・」 赤い紅葉が枯れ葉色に変わったのだから、この赤毛もきっと変わるに違いないと。 期待に満ちた目で見上げる薫に、緋村は大きく溜息をついた。 横では縁が腹を抱え、小刻みに肩と丸い耳飾りを揺らしている。 **************** 「送り届けたよ。と言っても通りの入り口までだけどね」 辺りはすっかり暗くなっていて、木の下に立つ縁の姿は影法師のように黒く染まっている。 常人では闇と見分けがつかないそれも、緋村にとっては昼間に見えるものと特別違いは無かったが。 「・・・・・・そうか」 枝に腰かけ幹に寄りかかったまま、緋村は小さく答えた。 日暮れ前に家に帰り着くように、早めに薫を帰路に着かせた。いつものように縁が送って行き、律儀に報告のつもりなのだろう、 再度緋村の元へ縁が来たのは、既に陽が落ちきった後のことだった。 冷たい風に流された髪が、またどこかに絡まった気がする。 外すのが面倒だなと思い、面倒なら千切ってしまえばいいのだと、すぐに思い直した。薫は惜しむかもしれないが、 次に顔を合わせる頃にはどうせまた伸びているだろう。 「納得は、したようだったか?」 「ふん・・・お前の言うことには盾突くかもしれないが、俺の言うことには実に素直なものだよ。 信用の差ってやつだね。とりあえず、冬の間はここへ来ないってことは、約束させたさ」 「そうか」 これから山は本格的な冬になる。東京といえど山にはそれなりに雪が降り、天候も変わりやすい。 ただでさえ子供一人が行き来するには相応しくないものを、これまで通り許すわけにはいかなかった。 しかし緋村からその旨を伝えても薫は首を縦に振らず。駄々をこねるのを縁が帰る道すがら、噛んで含めたのだろう。 「アンタさ、あわよくばこのまま春になって、あの子が此処に来るのを止めたらいい、なんて思ってるんだろう」 懐から小さな眼鏡を取り出して耳にかけながら、縁は刺すような視線を木の上に投げた。 枝の上に居る緋村が一瞬ぴくりと動いて、じっとこちらを窺っているのがわかる。 その黒い塊の輪郭は、まるでじっと夜をやり過ごす巨大な梟のようにも見えた。 「甘いね」 「・・・・・・・・・」 「ま、春になればわかることだけど」 ふん、と鼻を鳴らして、縁は踵を返した。ザクザクと落ち葉を踏む音が響く。異国の着物の背中側に刺繍された 不思議な模様が、月の光に薄らと浮かんでいる。 五歩ほど遠ざかったところで、ふいに縁は振り返った。 眼鏡を指で押し上げて、糸のように目を細める。 ガラスのようにぴりぴりとした気配。薫の相手をしている時とは百八十度雰囲気が違う。 しかし元来、緋村が知っているのはこういう縁だ。 「そういえば、家に向かうあの子の姿を、物陰から見てる奴が居たヨ」 その時の様子を思い出しているのか、縁の目はイライラと更に細くなり、口元には蔑むような笑みが浮かんだ。 「気持ちの悪い男だったよ。そのうち東京湾に沈めてやっても、いいかもネ」 時折言葉に混じることのある大陸訛りは、その気分が良くも悪くも高揚していることの証だということも、緋村は知っている。 正に妙案という体で、縁はにっこりと笑った。 モドル。 ススム。 |