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確かに自分は、一刻も早く家へ帰りたいとは思っていた。 それはもう、切実に。 早く帰ればそれだけ両親の心配を減らすことができるし、 嘘をついたこともバレずに済む。 ━━だからってこれはいくら何でも!━━ 周りの景色は物凄い勢いで後方へと流れていく。地面も木も落ち葉も、ただの線にしか見えない。 顔に当たる風は氷のように冷たく、目を開けていることもままならない。時折飛んできた何か━━虫でないと薫は信じたかったが━━が、 頬やおでこにピシリピシリとぶつかっては、後ろへと飛んで行った。 胎動 六 ひらひらと振っていた手を降ろして、縁は小さく息を吐く。 銃弾のように跳躍して走り出した緋村の姿は、あっという間に見えなくなった。 つむじ風のように走り去った後にはその道筋の通りに落ち葉が舞い上がり、 またゆっくりと地面に落ちてくる。 恐らく脇に抱えられたままの少女は今もまだ混乱しているだろう。 去り際に聞こえた絶叫には悲壮感と驚愕が一杯に詰まっていて、それには少しばかり同情した。 「まぁでも、これで」 同情はするが、後悔は少しもない。 機会を逃したくなかったのだ。緋村と自分の停滞した暮らしを、何とか変える機会を、逃すわけにはいかなかった。 これは単なる起爆剤だ。 そして自分はその導線に、かすかに火を付けただけだ。 火は途中で消えてしまうかもしれないし、そのままじりじりと燃え続けるかもしれない。 それは縁にも誰にもわからない。 「……あの子には、申し訳ない気もするが」 全ての生き物は利己的に作られている。 緋村もあの少女も、そして自分も。 いや、利己的であって欲しい、と。 縁は楽観的過ぎるようにも思う自分の希望を、不思議なほど穏やかな気持ちで笑った。 ********************** 恐怖のせいなのか冷たい風のせいなのか、薫の目からは涙が飛び、鼻水も垂れてきたような気がする。 飛ぶように流れていく景色に酔ったのか、若干の吐き気も感じていた。 大きく鼻を啜って、自分を抱えている男の着物をきつく握りしめた。 手を振る縁に別れを告げる間もなく走り出した緋村は、薫の絶叫も余所に、黙々と移動を続けている。 地面を蹴っては大きく跳躍し、また地面に着地しては風のように進む。 それはおよそ人間では無理な速さで、薫はしばらくの間悲鳴を上げることになった。 ひとしきり叫び続けるうちに少し落ち着きを取り戻すと、ようやく状況の理解が出来てくる。 どうやら緋村は薫の家の方角に向って、山を急速に下っているらしい。 確かにこれならば陽が沈みきる前に家に帰り着くことが出来るかも知れない。 しかしいくらなんでもこんな風に、荷物のように担がれたまま、恐怖体験をしたいわけではないのだ。 「な、なんでこんな…! おろしてよぅ、自分で帰るから…!」 掴んでいる緋村の着物をぐいぐいと引っ張って抗議をしてみるも、緋村はちらりと薫を見ただけで、 目線はすぐに進行方向へと戻ってしまった。 「五月蠅い、黙っていろ。舌を噛むぞ」 「………」 どうやら足を止めるつもりはないらしい。 更なる非難をしようにも、揺れる振動のせいで本当に舌を噛んでしまいそうだったので、 薫は大人しく黙ることにした。 リボンを落とさないように必死にしがみついていると、 ふいに、視界が開けた。 鬱蒼と生い茂る木々の合間を恐ろしい速度で縫うように進んでいたのに、突然目の前には何も無くなってしまった。 ただ夕暮れの空だけが見える。 瞬間、ふわりと身体が浮いたような気がした。 何事かと不思議に思いながら顔を動かすと、遥か下の方に、東京の街並みが見えた。 空中に止まっているように感じたのはほんの一瞬だけだった。 当り前だろう。重力には逆らえない。 蒼白になった薫の表情を一瞥して、緋村は白々しく鼻を鳴らした。 地道に山を下るのが面倒になったので、崖の一角を飛び降りてしまおうと思ったのだが、 この少女には少々刺激が強いかもしれない。 だがもう今更どうしようもなかった。 崖を蹴って空中に飛び出てしまったのだから、戻ろうにも戻れない。 「い、い、いやあああああぁぁぁ!」 急速に落下していく感覚に身を竦ませながら、薫は力の限り、叫んだ。 ********************** 「おい、着いたぞ、起きろ」 頬をペシリと叩かれる感覚に、薫は呻きながら目を開けた。 落下の恐怖に気を失っていたらしい。自分がまだ生きていることを確認すると、どっと安堵感が溢れてくる。 手足をバタつかせてもがくと、緋村はゆっくりと薫を降ろした。 地面に付けた足がふらついて、暫くの間は緋村の手にしがみ付いたまま体制を整える。 「ここは……」 薄暗くなった辺りを見回すと、確かに景色に見覚えがある。 ちょうど道場の裏手にあたる林に面した小道だった。ここは日中でもほとんど人が通らない。現に今は自分たち以外には誰も見当たらなかった。 「どうしてここだってわかったの?」 情けなくも気を失っていたために、薫には道案内が出来たはずもない。 しかし山から街中を通って神谷家に辿り着くには、それなりの距離と道順があるのだ。 「そんなもの、匂いでわかる」 「匂い、って……」 いよいよもって自分の目の前に立つ男がただの人間では無いのだろうということが、薫には実感できた。 改めて男を観察してみる。 太陽の光が消えつつあるせいか、髪の色は限りなく黒に近くなっていた。小豆のように暗い赤だ。走ったせいで髪はあちらこちらに飛び散っていて、絡んでいるのをほぐすのは骨が折れそうだった。 目は不思議とかすかに光っていて、薄い瞳が今は山吹色のように見えた。猫のような目だと薫は思う。 「あの…送ってくれて、ありがと」 小さな声で謝辞を述べた。猫のような目を見つめていると、そわそわとしてしまう。 「……」 緋村はぼさぼさになってしまった髪を邪魔そうに払うと、何も言わずにくるりと背を向けた。 帰ろうとしているのだと気づいた薫は、慌てて離れていく袖を掴む。 緋村は怪訝そうに掴まれた袖と、薫の顔を交互に見た。 咄嗟に引き留めてしまったものの、薫は何をしたいのか自分でもわからない。 ただこの不思議な男と、何故か離れがたかった。 このまま別れれば、それで終わりになるだろう。リボンは取り返すことが出来たし、再度紅葉狩りに行く予定も無い。 もう二度と会うことも無いのかと思ったら、反射的に男を引き留めてしまっていた。 「あ、あの、また……行ってもいい?」 「……何故」 必死な様子で見上げてくる薫を見て、緋村は驚いたように聞き返した。 「な、何故って…ま、また、会いたい…から」 意を決して出した声は、最後の方が蚊の鳴くような小さなものになってしまった。 それでも緋村にははっきりと聞こえたようで、猫のような目が更に丸く開かれている。 「そ、それに縁さんにも、また会いたいし……駄目?」 十秒だったか二十秒だったか━━とにかく薫には長く感じられた━━沈黙を手に力を込めながら待っていると、 緋村はとうとう諦めたように息を吐き出した。 「別に……来たければ来ればいい」 「ほんと…!?」 「ただし縁は気まぐれに立ち寄るだけだから、常に会えるとは限らない」 「うん、でもあなたはいつも、あそこに居る?」 「………まぁ、大体は」 「なら、いい! また、会いにいくから!」 わくわくしながら薫が弾むように答えると、緋村はそっと薫の前髪を撫でた。 長い爪で薫の額を傷つけないように、細心の注意を払いながら。 子供の体温は高く、指先から伝わる温かさに、緋村は目を細めた。 暫く髪を撫でていた緋村がふいに身を固くしたのに薫が気がついた時、 道場の裏の扉をガタリと開ける音が聞こえた。 「薫ちゃん? 帰ったのかい?」 扉から顔を覗かせたのは、道場の門下生の一人だった。 運悪く、薫の嫌いな青年である。 慌てて緋村を振り返ると、そこにはもう誰も居なかった。ただ薄暗い小道が続いているだけで 辺りを素早く見渡しても、姿は見えない。 「誰かと、一緒だったのかい?」 青年が近づいてきながら粘着質な視線を薫と薫の周りにめぐらせる。 薫は慌てて首を振った。 「ううん、誰も居ないよ。一人で帰ってきたもの」 「そうかい? 誰かと一緒に居るような気配がしたんだけど」 青年はしつこく周囲を見回しながら、薫の肩に手を置いた。 嫌悪感が薫の全身を包む。 「ほんとに、誰も居ませんってば。それより早くお父さんに帰ったって言わなきゃ!」 「ああ、そうだね。いつもより帰りが遅いから、心配し始めていたよ」 青年の手をさりげなく外すと、薫は急いで扉をくぐった。 青年は後ろを付いてきながら「今日はどこへ遊びに行ったのか」とか、「何をして遊んだのか」とかいうようなことをねちねちと聞いてきたが、それには当たり障りのない回答を冷や汗をかきながら捻り出しておいた。 母屋の方へと駆け込んで、父の部屋へと向かう。そこまでは青年も付いては来なかった。 安堵の溜息をついて、薫はいそいそと父の部屋の襖を開けた。 多少のお小言は覚悟しなくてはならないなと、思いながら。 **************************** 林の中から道場を眺めつつ、緋村は眉を顰めていた。 ━━何だってまたあんな━━ 先ほど裏の扉から出てきた青年を思い起こす。 一目で薫によからぬ考えを抱いているということは、わかった。 あれはおぞましく、気味の悪い類の人間だ。 ━━あんな者にまで好かれているのか━━ 関わりたくなければ関わらなければいいだけの話だった。 薫がまた会いたいと言ったところで、こちらが嫌ならば姿を見せなければいいだけのことだ。 しかし自分はそうはしないだろう、と、緋村は確信に近い予感を持ってしまっている。 薫が会いに来るというのなら、間違いなくそれに応じてしまうだろう。 そしてそれが回数を重ねれば重ねるだけ、情が沸いてしまうだろう。 薫に降りかかる災難を、見過ごせないと、思うほどには。 ━━全く、厄介なことになった━━ 縁は今頃腹を抱えて笑っているに違いない。 緋村は深い溜息をついて、山へと向かうために跳躍した。 今後の苦労を考えると、じんじんと、頭が痛むような気さえした。 当て馬って必要ですよね、やっぱり。うん。 モドル。 ススム。 |