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赤い木の葉が舞い散る中に、柔らかな長い髪が弧を描いている。 頬をかすめたそれが、意志を持つようにそろりと肌を撫でた。 心臓の音が大きくなって、他の音が遠くなる。 背後を振り返るだけの動作が、なかなか出来ない。 振り返ったらもう、引き返せない気がした。 それでも。 胎動 四 「記憶力というものが無いのか? 此処へはもう来るなと、行ったはずだが」 先にかけられた声に、薫は勢いよく向きを変えた。 思ったとおりの男がそこには居て、自分を見下ろす目には何の感情も見当たらない。 風になびく長い髪がまるで自分に降り注いでいるようだと、 不覚にも一瞬だけ見とれてしまったことが少しだけ悔しい。 「り、リボンを…! 返して貰いにきた、だけだもん!」 ━━怯んではいけない━━必死に自分の心を奮い立たせて出した声は、少し震えが混じってしまった。 握り締めた手に力が入りすぎて、自分の爪が手のひらに食い込んだけれども、薫は見上げた視線を外すことは しなかった。それをしたら負けなのだ。何が「負け」なのかわからなかったが、とにかく怯えたり、気弱なそぶりを 見せてはいけないと、漠然と思っていた。 「リボン? はて、何のことやら」 薫からの強い視線を受けていた男は、ふいと目をそらすと、横をすり抜けて 木の根元にどさりと腰を降ろした。地面に降り積もったもみじがガサリと音を立てて、 その上にひらりと髪が横たわる。ほとんど同じ色のそれは、遠めには見分けがつかない。 「取ったでしょう? わたしのリボン!」 「さぁ、どうだったかな。憶えてない」 「嘘つき! あれはお気に入りなんだから、返して!」 肩で息をする薫を、男はぼんやりと眺めている。青で統一されていた昨日とは違って、 着ている物は桜柄の小袖だ。秋に桜とは何ともちぐはぐだとは思ったが、この少女には 似合っているのだから、それも良いのだろう。 気が高ぶっているのか、薫の頬は着物と同じく桜色に染まっていた。それでも視線の強さは 揺るがない。拳を握り締めて仁王立ちしている幼い少女が、頬を紅潮させながら自分を睨みつけている。 ━━扇情的だな━━と思って、即座にその思考を後悔した。 一瞬だけ胸がざわりと沸き立ったのを視線を外すことで握り潰す。 縁が笑いながら言った言葉が頭をよぎった。 ━━随分気に入ったようだな━━ そんなことはあり得ないことで、あってはならないことだった。 他の誰かに、ましてや幼い人の子などに、心を引かれたり興味を持ったり。 自分以外の生きている者に意識を向けること自体が。 そういうことはもう、自分には許されないし許してもいけないのだ。 この、何かに駆り立てられるように色づく木々の中で、 埋もれるようにひっそりと、息を殺して、ただ静かに生きていかなくてはいけない。 ━━だってそうでなければ━━ 「ねぇ!聞いてるの? 返してよ!」 気がつくと目の前の少女は、先ほどよりも更に顔を赤くして、こちらを睨んでいた。 ぼんやりと無言で座っている男にしびれを切らしたのか、 駄々をこねるように足を踏み鳴らしている。 小さな肩をいからせて、精一杯の威圧をしているようだった。 睨みつける目は子供にしては鋭く、元が猫の目のように大きいせいか、 不思議なほどの迫力がある。 「名前は」 「え?」 ようやく口を開いた男から出た言葉が予想外のものだったのか、 薫はぱちくりと目を瞬いた。 「お前の名前は、何だ」 長い前髪の隙間から見え隠れする男の目が、静かに薫を見ている。 色の薄い茶色の目もまた、薫にとっては見慣れないものであり、 その髪と同じようにそそられるものだった。 自然と頬が赤くなる。 元々頭は相当熱くなっているというのに、更に血が昇っていくようだ。 「そ、そんなの関係ないでしょ…それに、人に名前を聞く時は、 まず自分が名乗りなさいって、父さまが言ってたもん…!」 薫は気が強く、そして特に恥ずかしさが苦手だ。 普段の性格は素直なのだが、そこに恥ずかしさが混じると、 とたんに天の邪鬼になるクセがあった。 自分に興味を持ってもらえたのかという少しの嬉しさと、 薄茶の目に見られるこそばゆさと。 何だかとてつもなく面白そうな生き物に出会えた期待感が、 薫を天の邪鬼に変えるツボをこれ以上なく刺激していた。 「私に名前を訊くなら、そっちが先に名乗りなさいよ…!」 「………」 薫の目は爛々と輝き、西日が着物を橙に染めている。 子供特有の好奇心に息を弾ませるその様は 久しく人の気配から遠ざかっていた男の目には眩しすぎた。 拳を握り締めて仁王立ちするその姿からは どうしようもない程の生の息吹が沸き立っている。 ひどく懐かしい感覚だった。 もうずっと前に諦めて、手放してしまったもの。 二度と触れることもないだろうと思っていた人の気配。 生きていることを実感させる血の流れる音。 目に見えるような体温の温かさ。 無言の男に、薫の勢いは少し削がれてしまった。 生意気な口をきいたせいで怒りを買ったのかもしれぬと、流れる沈黙に居住まいを正す。 まだ痕の残る腕がじんじんと痛むような気がして、片手でそっと抑えた。 このまま男の機嫌を損ねれば、リボンは戻ってこないだろう。 母から貰った大切なものだ。 何としても取り返さなくてはならなかった。 自分から折れるのは本意ではないが、背に腹は代えられない。 薫はもごもごと何度か言い淀んで、ようやく声を出した。 「か、かおる…」 男は目を少しだけ見開いて、窺うように首を傾けた。 その仕草が思いのほか優しげで、とても魅力的だ。 「わ、私の名前は、薫」 思い切って口に出すと、大きく息を吸って吐いた。 男は『かおる』と聞いた名前を小さくつぶやいて、何事かを考えているようだった。 薫はその間が落ち着かない。 「平仮名か」 男は何かが納得いかない様子でふいに尋ねた。 そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったので、薫はまた少し動揺した。 「ち、違う。風薫るの、薫」 ああ、と頷いて、男はようやく満足したようだった。 「お、教えたんだから、そっちも答えてよね」 天の邪鬼を返上して素直に自分から名乗ったのだから、今度は男が名乗るのが当然だ。 世の中は『ぎぶあんどていく』なのだ。 欧州帰りだという門下生から教えられた言葉を心の中で思い出しながら、 薫は目の前の男を指差した。 「あなたの、名前は?」 な、なかなか進まなくて申し訳ない…! このどうにもならないツンデレ二人を拙宅の縁くんが なんとかしてくれる…はず…! モドル。 ススム。 |