毎日の日課である庭での素振りを終えると、薫は小さく溜息をついた。手に握る竹刀の丈を身長が追い越したのは つい最近のことで、地面に付けないように持つのには一苦労する。それでも父の真似事をして剣術を始めたばかりの 頃よりは格段に竹刀の扱いは上達した。最近では素振りをこなすこともなんら苦では無くなってきていたというの に━━・・・。
今日は素振りを終えるのに、倍以上の時間がかかった。おまけにいつも以上に竹刀が重く感じる。 素振りをすることにてんで集中出来ていないのが理由だということは、薫自身、気づいていた。

「なんで集中できないんだろ・・・」

その理由も、解ってはいた。「なんで」などと口に出して自問するまでも無く。
気になって気になって、仕方ないことがあった。

心は全部、全部。持っていかれてしまったに違いなかった。















胎動 三













「薫ちゃん? 素振りが終わったのかい?」

後方から掛けられた声に振り向くと、門下生の一人が道場の中から顔を出していた。薫の遠い親戚に当るとかで、 父を尋ねて剣の修行に来た青年だったが、薫をとかく可愛がっている一人でもある。

「あ、はい! 今終わりました」

慌てたように返事を返すと、青年はニコリと微笑を浮かべて道場から薫のもとへと歩いてきた。薫は心持ち 身構えて、一、二歩後ずさりする。

「なんだか今日は随分と時間がかかったみたいだね」
「あ・・・はい・・」

薫の目の前にしゃがみ込むと、青年は心配げに眉をひそめた。

「どこか具合でも悪いのかい?」
「いえ、大丈夫です」

顔を俯けて早口に返事をすると、薫は足を道場に向けようとした。しかしその足が一歩を踏み出す前に、 青年が薫の肩に手を置き、もう片方の手を額に当てて、動きを止めてしまった。

「熱でもあるのじゃないかい?」

生温かい手の感触が、額から伝わって全身を巡るような気がする。酷い嫌悪感が薫を襲った。 素振りで汗をかいた身体に同じく温まった体温が触れるのが不快だったと、言えなくもないが。それよりも もっと明確な理由がある。
薫はこの青年が、あまり好きではなかった。
薫の父が開いた道場には、十数人の門下生がいる。取り立てて流行っているというわけではないが、それでも 日々、剣の腕を磨くべく修行に励む人たちの活気は十分にあった。幼い薫の目から見ても父は誇れるほどの 人格者であったし、また道場にはそんな父を慕って集まってくる人たちばかりだった。そして彼らは皆一様に、 薫を可愛がってくれている。幼い子供がちょろちょろと周りを動き回るのが邪魔でないはずはないのに、皆薫には 好意的に接してくれるのだ。しかしこの男は。この男だけは、自分を見る目が他の人とは違うような気がする、と、 薫は普段から思っていた。一般的には、美男子と呼ばれる類いの顔なのかもしれない。現にこの青年目当てに 道場を覗きに来ている若い娘を見たことも、何度かあった。
━━━こんな人のどこがいいんだろう・・・・
目の前にしゃがんでいる青年の顔を、薫は額に被さった手に顔を顰めながら伺い見てみる。すると自分を見る青年と 目が合った。

ねっとりと品定めをするような視線に、暫し息がつまる。

こんな、こんな厭らしい視線を向けてくるような人間の一体どこがいいのか、本気で今度この青年に熱を上げている 人たちに聞いてみたい。顔のつくりが綺麗だと言うなら、あの人の方がどんなにか━━・・・

そこまで考えて、薫ははっと我に返った。

「熱もないとおもいます・・!」
「そうかい?」

額に当てられた青年の手を振り払い同じく肩に置かれた手も外すと、薫はペコリを頭を下げて急ぎ足で道場へと 向かった。青年が舐めるような視線でもって遠ざかる薫の背を追っていることに気づいたが、振り返らずに 道場へと入った。

道場へ入ると、既に稽古を始めていた門下生達が口々に薫に朝の挨拶を述べ、一緒に稽古をしようと手招い てくれた。薫は喜んで駆けていく。
薫は聡い。故にこのように大の大人が自分の相手をしてくれるのは、ひとえに自分が道場主である 父の娘だからであると、薫なりの理由をつけて理解していた。が、しかし、それには多少の間違いがあると 言える。父がその人格の素晴らしさのために人望を集めているように、薫が門下生たちに愛されるのもまた 薫自身に美点があるからに相違ないのだ。
くりくりと良く動く大きな瞳も。
艶のある長い黒髪も。
活発で元気のある性格も。
全て人に愛されて然りだった。あともう数年経てば、この辺ではちょっと見ないような美人に育つだろう事は、 薫本人以外は皆が予想していることである。

それでもその薫が昨日から上の空で、稽古に身が入っていないということに気づいている門下生は、恐らく ほとんど居なかっただろう。

「そう言えば薫ちゃん、昨日、先生と紅葉狩りに行って来たんだって?」

一通りの打ち稽古を終えて壁際で休憩を取っていると、隣に居た門下生の一人が穏やかに声をかけてきた。

「えっ、あっ、はい。行ってきました」

「紅葉狩り」という言葉が出た途端、薫の心臓は跳ね上がった。もう朝からずっと、何度も思い出しては気もそぞろ になっていた原因は、まさに昨日の紅葉狩りだった。

「いいなぁ。今度僕も行ってこようかな。綺麗だったでしょう」
「・・・え・・!?」
「・・・え?って・・・綺麗じゃなかったの? 紅葉」
「あ、ああ・・はい、凄く綺麗でした」
「だよねぇ・・・今が一番いい時期だもんねぇ・・・・」

その後も楽しげに話す門下生の声を右から左へ受け流し、薫はまた小さく溜息をつく。 綺麗だったかと聞かれて、真っ先に頭に浮かんできたものは、様々に色づいたもみじなどでは無かった。 母に選んでもらった、自分でもとても気に入っている藍色の着物でもなかった。あんなに鮮やかに、 あんなに美しく、木々たちは精一杯紅葉していたのに。 綺麗だったのは、自分が綺麗だと思ったのは━━・・・

「何よ。リボンまで持っていったくせに」
「・・・・・・え?」

思わず口に出してしまった声に、隣の門下生が不思議そうに振り向いた。

「な、なんでもないです! 独り言です!」

慌てて両手をぶんぶんと振って否定すると、隣の門下生はそう?と言って、休憩を終えるべく去って 行った。薫は一つまた溜息をつくと、ずるずると壁に寄りかかりながら座り込む。

「もう・・・何なのよぅ・・」

胴着の左袖をめくると、二の腕にはまだ新しい痣が残っている。掴まれた時に、爪が食い込んで出来た傷だった。 頭にこびり付いて離れないのは、あの、紅くて長い髪の毛だった。女のように整った顔だった。自分を煩わし そうに睨む、瞳だった。木の上で眠っていたあの、不機嫌な男だけが、昨日から薫の頭を占領している。

昨日、山の中で父を見つけ、勢いよく抱きついたはいいが、その薫の頭には確かにつけていたはずのリボンがどこにも 無かった。迷って走り回るうちにとれてしまったのかとも思ったが、きつく結んでいたはずのリボンが 滅多なことで外れるとは思えなかった。きっと、あの男が取っていったに違いないのだ。



もしもう一度。
もう一度、あの山へ行ったら。
もう一度、会えるだろうか。

━━━もう一度此処へ来たら、その愛らしい目玉をくり抜いてやろうよ━━━

もしもう一度、会いに行ったら・・・・

「・・・リボン、返して貰いに行くだけだもの」

そう。リボンを返して貰いに行くだけだ。その他の理由なんて無い。だってあのリボンは、藍色の 着物とお揃いだし、とても気に入っているものだし。

薫の心はとうとう、決心を固めてしまった。リボンを取り返しに行くのだと正当らしく思える理由に こじつけて、本当は何に会いに行くのか━━・・・何故こうも、彼の紅い髪が目に焼き付いて離れない のか━━・・・その答えを素直に受け入れるには、薫はまだまだ幼すぎた。薫はまだ、 恋も知らない、小娘に過ぎない。



もうだいぶ以前から薫は竹刀を握っていたが、それはまったく薫の自由意志に任せられていた。 稽古をするのも、休むのも、薫が自分で決めている。父は剣術をすることを決して強制はしなかった。 それでも滅多に薫が稽古を休むと言う事は無かったが、薫とて幼い女の子である。たまに友達と遊びに行く、 と言えば、極すんなりとそれは承諾された。
午後からの稽古は休んで友達と遊んでくると父に告げ、薫は静かに道場を出た。
友達と遊んでくると嘘をついた後ろ暗さもあったが、それよりも何よりも、自分がもう一度山に行くと いうことを何故か誰にも知られたくなかった。
━━リボン返して貰いに行くだけよ
何度も心の中でそう繰り返しては、妙にうるさく鳴る心臓を落ち着ける。
門を出るときに、間の悪い事に門下生のうちの一人と出くわした。

「どこかへ出かけるのかい?」

例の薫が苦手な青年である。他の誰と出くわすより、嫌な相手だった。

「はい。友達と遊びに・・・」
「そうかぁ、道子ちゃんかさゆりちゃんかい? それとも今日は加絵ちゃんかな」

どうして自分の友人の名前を事細かく覚えているのか、薫にはそれも気持ち悪かった。気が付くと この青年は自分を見ているのである。薫はこの青年と話すときだけは、いつもの人懐こい 笑顔を押し込めて、つとめて淡々と言葉を返すようにしていた。

友人の名前をニ、三人あげて、急いで道場の門をぬける。
いつもとはどこか違う薫の様子に、青年が好奇の目を向けていることまでは、薫は気づかなかった。



* * * * *



山の木々は相変わらず様々に色づいている。
落ち葉を踏み分けながら、薫は昨日迷い込んだ場所を探していた。そもそもが道に迷ってたどり着いた 場所だったので、見つけるのには偉く時間がかかった。ようやく見つけ出した時には、太陽も随分西に 傾いてしまっていた。

「あ・・・・ったぁ・・」

ぽっかりと円形に開けた空間が、昨日と変わらず薫の前に広がっている。
薫はぐるりと身体を一回転させながら辺りを見回して、最後にその中でも一際大きく枝の張った木に 目を向けた。

「居ない・・・かな・・」

どうもこの位置からでは枝と葉に覆い隠された木の内側の部分はよく確認出来なかった。
もっと近づいてみようと思い、恐る恐る進み出てみる。

円形に空いた空間の、ちょうど真ん中まで来た頃、後ろからぐいと背中を押すような強い風が吹いた。 あ、もしかして、と薫が思った時にはもう、背後に誰かが立っている気配があった。
後ろからの風に煽られて、長くて紅い髪の毛が薫の背後からなびいているのが視界に入る。
振り向かなくてもそれが探していた人物だということは、すぐにわかった。






あー・・なんだろう、この話し・・(遠い目)
もうちょい続けさして下さい・・。






モドル。 ススム。