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胎動 十八 「薫ちゃん、あんな、気ぃ悪ぅせんと聞いてな。実は、うちの知り合いで薫ちゃんとどうしてもお見合いさせて欲しい言うてる人が居てるんよ。どうやろか、会うだけ一度、会ってみぃひん?」 ざわつく牛鍋屋の店内の一角で、店の主人の妙がそんなことを急に言い出したので、薫は思わず飲んでいた茶を吹いて固まってしまった。 「げほっ、え、妙さん急にどうしたの」 店は昼時を過ぎていて、今し方遅い昼食を食べ終えたばかりだ。妙は周りを少しだけ見回して薫につつとすり寄り、心なしか声を潜めた。 「だってなぁ、うち、心配でたまらんのよ。薫ちゃんももう十七やろ。お母さんもお父さんもおらんようなってしまって、一人でこの先どうするん? 門下生の人も、みぃんな辞めてしもたんやろ?」 「あ━…まぁ、確かに今はうちの道場、誰もいないけど。でもまた一から始めるし、これから色々やろうと思ってることもあるし。わたしまだまだ結婚なんて、考えてないのよ」 もともと身体が強くなかった母が病に倒れたのは、五年ほど前になる。必死の治療も空しくこの世を去ってしまった。その後は父と二人でどうにか暮らしてきたものの、その父も徴兵によって国に召し上げられ、名誉の戦死を遂げたという知らせが来たのは昨年のことだ。父が死ぬと、門下生たちも去ってしまった。薫は師範代になっていたが、十代の小娘一人が主の道場など、人が離れてしまっても仕方がない。 今では薫は天涯孤独の身の上で、たった一人で道場に暮らしていた。時々こうやって昔なじみの牛鍋屋に来ては食事をしたり、妙とたわいもない話しをするのが気晴らしで、他に親しい友人と呼べる者も数える程度しかいない。 「誰ぞ、心に決めた人でも居るん?」 妙が首を傾げてそんなことを聞くので、薫はもう一度飲もうとしていた茶を喉につまらせた。 「え、いや、そんな人は別に居ないけど」 「だって薫ちゃん、いい年頃やのに浮いた話しの一つもないやん。これまでにもお見合い話、ぎょうさんあったのに」 「なんで妙さんそんなこと知ってるの…」 「うちの情報網をなめたらアカンで。薫ちゃんのとこに来た縁談、ほとんど全部知ってるんやから」 「え━こわいんだけど」 「そんなことはどうでもよろし。お見合いぜ━んぶ、釣書の中も見んと断ってるんやろ」 「まぁ。興味無いし、受けるつもりもないお見合いなんてしてもしょうがないし」 「お見合いだけでなく、言い寄ってくる男の人もみんなすげなくフってしもて」 「だからなんでそんなこと知ってるの…」 開いているのか開いていないのかよくわからない妙の目から視線をそらして、薫は頭を抱えた。まったく、噂好きもここまで来ると一芸の域ではないだろうか。 「薫ちゃんには、心に決めた人が居るんやないかって、うちはずっと思てたんよ。いくら道場が一番でも、恋の一つもせぇへんなんておかしいわ。それとも薫ちゃんもしかして…男の人より女の人のが好きなん」 「いやいやいや違うから。そんなことはないから」 「だったらやっぱり誰か決めた人が居るんやろ」 「もう!この話しはおしまい!わたしそろそろ帰るね!お勘定、ここに置いとくね!」 「あ、ちょっと!まだ話しは終わってないねんで…!」 まだ引き留めようとする妙を振り切って、薫は素早く店を出た。さすがに妙も店の外までは追ってこなかった。 「ふぅ。もうほんとに、妙さんたら」 往来を家の方に向かって歩き出す。人出はそれなりに多く、すれ違う人々は皆それぞれに道を急いでいた。ここ数日急に寒くなったので、のんびりと散歩をするような気温には少し低い。 季節は秋も終盤で、そろそろ冬の入り口が見えてきていた。 「心に決めた人、ねぇ」 右手に持った巾着をブラブラと揺らす。妙には”そんなものは居ない”と答えたはずなのに、薫の頭には先ほどからずっと浮かんだまま消えない男の顔があった。 「馬鹿みたいよねぇ、ほんと」 ふふと苦笑して風に靡いた髪を耳にかける。するとその頬に突然ピシリと張り付いたものがあったので、思わず薫は「うわ」と声をあげて頬を押さえた。 「なんだ…落ち葉か…」 頬に張り付いたものを摘むと、それは一葉のもみじだった。まだらに黄色と赤色が混ざっていて、今年もそういう季節になったのだなと思う。 緋村と縁が薫のもとを去ってから、もう七年が経とうとしていた。この七年の間、二人からの音沙汰は全くなかった。ただの一度も、影も形も。 最初の一年は、二人がまた会いにくるのを今か今かと待ちわびていた。 二年目は、母の病と看病と、死を受け入れるので精一杯で、あまり二人のことを思い出すことはなかった。 三年目、正式に父の道場に入門をして、稽古に明け暮れた。鍛錬をしてがんばっていれば、いつか会いに来る二人が誉めてくれると思った。 四年目、このころから縁談や恋文をもらうことが増えだしたが、見向きもしなかった。 五年目、父が戦争に連れて行かれた。薫は一層稽古に励んだ。道場を守るのに必死だった。 六年目、父が死んだ。薫は一人になった。 七年目、二人はまだ戻らない。 「”また あいにいく”とか書いてたくせにさぁ、嘘っぱちじゃない。ていうかもしかして、書いてた内容、読み間違ったのかしら、わたし」 あの時の手紙も括り付けられていた赤い一房の髪も、まだ大切に薫の宝箱の中に保管されている。手紙は何度も何度も読み返したが、みみずの這ったような文字だったことを思うと、自分が内容を正しく読みとれていなかったのではないかと、もう自信が持てなくなっていた。 「あ━…クサクサしてもしょうがない。お参りでもして帰ろ」 *** 家の近くにある神社は、こじんまりしているが雰囲気がいい。幼い頃からの薫のお気に入りだ。中でも気に入っているのは、境内のはずれに立つ一本のご神木だった。 お参りを終えてその前に立つと、そっとその木の幹に触れた。七年前に山の中で逢瀬を過ごした木よりも二周りほどは大きいが、枝振りや佇まいがどことなく似ている。 「あれから一度も山には行っていないから、もう記憶もほとんど薄れてしまったけれど」 この七年の間、山には一度も行かなかった。”あいにいく”と書かれていたのだから、自分から行っても意味はないのだとわかっていたし、がらんどうになったあの場所で一人で過ごしても、みじめになるだけと知っていた。 周囲の木々も目の前に立つご神木も、葉が色づき紅葉の真っ盛りだ。黄色や橙の木の葉がパラパラと振ってくる。 幹に添えた手の上に額をくっつけて目を閉じると、乾いた土と木の匂いがした。ツンと鼻の奥に寂しさがこみ上げる。一人になってしまって、これからも一人で。二人が会いにくるのをいつまで待っていられるだろう。それともいっそ。 「もう、待つの、やめようかな。そろそろ忘れた方が、いいのかも」 「それは困る」 一人ごとだったはずなのに、誰かが答えた。 薫はがばりと顔を上げる。周りを見回しても誰も居ない。木の葉が散っているだけだ。 ━━さてはとうとう自分の頭がおかしくなって、空耳でも聞こえか━━ 「待つのはもうやめてもいいが。忘れるのは困る」 もう一度声がした。どうやら頭の上からだ。 見上げると、誰かが枝の上に腰かけて自分を見下ろしていた。いつの間にそんなところに現れたのか、もしくは薫が来る前から、そこに居たのか。逆光で顔がよく見えない。でもその着流しには見覚えがあった。眩しさに目が慣れると、その誰かの髪がまず見えた。光を反射して赤く輝いている。次にその誰かの顔が見えた。左頬に大きな十字の傷がある。 腰には一振りの刀を差していた。それは見たことが無いものだ。 記憶にあるように赤い髪が垂れ下がってくることはなかった。髪は後ろで括られているようだった。 ━━いつか また あいにいく かおるが まっていても いなくても━━ ”待たせすぎだよ”と恨み言を言う前に、薫はあまりの驚きで意識を手放してしまった。 *** 「馬鹿にもほどがあるだろう。あれだけ慎重にやれと言ったのに。なんでいきなり目の前に出ていくんだ。しかも芝居がかって木の上に上ったりして。アンタ浮かれすぎて脳味噌溶けたんじゃないカ」 逆立った白い髪を更に逆立てるようにして、縁が歩きながらネチネチと小言を言っている。隣には、背負った薫を揺らさないように気をつけながら、緋村が歩いていた。 「……悪い。少し気がはやってしまった」 ばつが悪そうに言い訳する緋村の髪は背中の辺りまでの長さで、襟足のところで一つに括られている。まだ意識を取り戻さないまま背負われている薫の鼻にその毛束が触れていて、むにゃむにゃとむずがゆそうに鼻を鳴らした。縁は横からその毛束をピシリと指で弾いてやると、その顔をのぞき込んでふふんと笑った。 「思った通り、美しくなったナ。本当にアンタにはもったいない」 「思った通りって…ずっと近くで見てたんだろうに何を今更」 「近くでは見ていない。そんな危ない橋を渡るわけがないダロウ。俺は遠くから見守っただけダ」 「みまも…物は言いようだが、感謝はしている」 「当然だ。一生死ぬまで感謝しロ。全く、こんなに時間がかかるとは夢にも思わなかった。この子にたかるハエを気づかれないように露払いするのはなかなか骨が折れたんダ。まぁ払うまでもなくこの子は見向きもしなかったが。アンタはこれから俺にせっせと恩を返セ」 「━━わかってる」 太陽が西に傾きはじめている。妙齢の娘を背に負って歩く二人の男がどちらも変わった髪の色をしているせいで、チラチラと行き交う人が視線を寄越した。おまけに片方の男は腰に刀を差していて、もう片方の男は異国風の着物ときている。意識を失ったまま背負われている薫の手足はダラリと投げ出されていたので、すれ違う者が不審げな顔をするのも無理はない。 もうすぐ神谷道場に着くというところまで来て、縁は足を止めた。 「じゃあな」 「薫が起きるまで待たないのか」 「俺は後日ゆっくり会いにくるつもりダ。アンタみたいにヘマはしない。それより、今日からアンタの寝床はここになるンだから、せいぜい薫の機嫌を取れヨ」 「え」 「なにが”え”だ」 「いくらなんでもそれは…いきなりここに住み着かせてくれと言うのは無理がある…」 「うるさい黙レ。ここまで来て下手な尻込みをするなチキン野郎。泣き落としでもなんでもして薫を懐柔しロ」 「おい縁…」 くるりときびすを返して去っていく縁の背中は、もう振り返ることはなかった。 「困ったな…」 そう言いながら緋村は、薫を背負ったまま道場の門をひらりと飛び越えた。 モドル。 ススム。 |