━━ねぇ、あなた、そういえば下の名前はなんていうの━━

━━下の、名前?━━

━━わたし、”ひむら”しか知らないわ。これからここで暮らすなら、下の名前がないと変だもの。教えてちょうだい━━

━━無いよ━━

━━なんですって?━━

━━無いんだ。縁が付けてくれたのは”緋村”だけだから、他の名前は俺にはない━━

━━そうなの? 困ったわね。それじゃああまりにも難儀だわ━━

━━薫が、付けてくれればいい━━

━━わたしが、決めていいの?━━

━━ああ、そうしてほしい━━

━━それなら何か、あなたの行く先を示す名前がいいわ…そう言えばその刀は、どうしたの? 昔は持っていなかったと思うのだけど━━

━━これは縁が用意してくれたんだ。逆刃になっていて、そのまま振っても何も切れない。腰に差せば様になるし、抜いてしまっても誰も傷つけない。戒め代わりに持つには良いだろうと━━

━━ちょっと、また縁さんなの? 嫉妬しちゃうわ。あなた縁さんが居なきゃ私のところに戻ってくることなんて、できなかったのではないの?━━

━━……まぁそれは…確かにそうなんだが…━━

━━まぁ、いいわ。そう、じゃあ…そうね…うん、決めた。あなたの名前は━━







胎動 十九







「なぁ妙さん、例の話しなんだがな、やっぱりなかったことにしてくれと、先方から連絡があったよ」

夜の宴会時で賑わう牛鍋屋を右から左へと動き回る妙を呼び止めて、初老の男が頭をかきながら言った。男は妙の古くからの知り合いで、この界隈の商工会を束ねている問屋の主人だ。

「例の話しと言いますと、薫ちゃんとお見合いしたいと言うてはった呉服屋の息子はんのことです?」

「ああその話しだよ。なんでも家業の都合で急に別の娘と一緒になることになったとかで、薫さんのことはもういいからと。全く人騒がせな話しだ」

「はぁ、そうなんどすか。でもちょうど良かったですわ。一週間ほど前に薫ちゃんにその話しをしてみたんやけど、すげなくお断りされたところでした」

「そうなのか、いやそれなら良かった。ところで、薫さんのところにどうやら新しい食客さんが居着いたらしいと風の噂で聞いたのだが、妙さんも知ってるかい?」

「ええ、知ってます。つい昨日薫ちゃんがここに来てな。紹介してくれはったんですよ。なんでも、最近東京の卸し問屋の中で勢いのある”ゆきしろ”の縁者の方やそうで。剣の腕も相当なものらしいです」

「赤い髪をしていて頬に十字の傷があるというのは本当かね? 実は私も、”ゆきしろ”の主との会合でチラとだけ見かけたことがあってな。不思議な出で立ちだったので覚えているのだが、薫さんのところに居着いた人というのはどうもその人なのではないかなと」

「ええ!そうなんどす!うちもびっくりしましたわ!珍しいお色の髪やなぁと思いましたし頬の十字傷も綺麗なお顔にもったいないことやと思いましたけど、でもお人柄が良さそうでなぁ。優しそうで、ずっとニコニコしてはって、薫ちゃんのことが一番大事ですて顔に書いてあるようなお人で」

「優しそうでニコニコ…んん…それは少し私の記憶にあるのと違うような気もするが…」

「腰に刀を差してはってな。なんやこの時代に刀というのもおかしなことやなと思ったら、なんと逆刃なんやって」

「逆刃?」

「へぇ。抜いて振ってもなぁんにも斬れんけど、剣客働きするには十分やからって言うてましたわ」

「剣客働きか…確かに、”ゆきしろ”の主のそばで見かけた時も、そのような働きをしている者だと言っていた気がするな。しかし優しそうでニコニコという雰囲気ではなかったような…」

「それに何よりも!」

首を傾げる男の肩をバシっと叩いて、妙は目尻を下げた。

「あのお人が間違いなく、薫ちゃんの心に決めた人なんやとうちは確信したんどす!あの、薫ちゃんの嬉しそうな様子ときたら!あれを見たらもう、誰も何も言えまへん」



***



「”剣心”とはまた随分とご大層な名前を付けてもらったものだナ」

神谷家の縁側で緋村が淹れた茶を一口飲むと、縁は鼻を鳴らした。ちょうどいい温度で淹れられた日本茶はなかなか様になった味がする。

「俺もまだ慣れない」

家主の薫はどこぞの会合に出るとかで、今は不在だった。縁もこの後の用事を考えると、薫が帰ってくる前にはここを出ねばならない。まだ、縁と薫が会話できたのは一度だけだ。緋村が突然の再会劇で薫を失神させてしまった翌日に、縁も薫との再会を果たしていた。

失神から目覚めた後にどんなやりとりが緋村との間にあったのか詳しくは知らないが、縁が翌日この家を訪ねると、薫は一も二もなく飛びついてきた。

『縁さん!待ってたよ!!』

そう言って飛びかかってきた薫をしっかりと玄関で抱き止めて、縁はその場でくるくると回った。薫の身体は記憶にあるよりもずっと重く、ずっと大きくなっていたが、それでもその軽やかな気配は少しも変わっていなかった。

『遅くなってしまってすまなかった。本当はもっと早く、来るつもりだったんだ』

━━七年も寂しく待たせるつもりなど毛頭なかった━━

縁がそう弁解しようとすると、薫は泣きながら首を振ってさらに縁の首にぎゅうとしがみついた。

『いいよもう。戻ってきたからなんでもいい。そのうちたくさんいろんなことを聞きたいし、話したいけど。今はもう、わたしに会いにきてくれたからそれでいいよ』

ひとしきり再会を喜びあって、縁はすぐにその場を辞した。彼にはやることがたくさんあって、昔よりも自由になる時間がとても少ないのだ。それから数日経って今日ようやく捻りだした時間にまたここを訪ねたのだが、運悪く薫は不在だった。薫も薫で、道場を再興させるために走り回っているのだろう。いまだ門下生が一人も居ないという道場の方に目を向けて、縁は目を細めた。こればかりは自分が裏で手を回すわけにはいかない。そんなことをしても、薫が喜ぶことはないし彼女の幸福には繋がらないとわかっている。彼女はこれから一人で━━時々は緋村と縁の手を借りることはあっても━━この道場を盛り立てていくことになるのだろうし、それが彼女の人生だ。

「まぁ、いいんじゃないカ。剣のこころ━━素直な薫が素直に付けたんだろう。ここに食客として身を置くにはこれ以上ない良い名前だと思うがネ。まぁその”食客”という肩書きがいつまで続くのか、知らないガ。というか”食客”という前置きを踏む必要があったのかどうかすら今となっては疑問だガ」

「……」

縁がそう言って横目で見ると、緋村はさりげなく視線を外した。気まずいことがある時のこの男の癖だ。

「この節操なしガ。泣き落としでもなんでもして懐柔しろとは言ったが、来て早々手籠めにしろとは言ってないぞ」

「なんのことだか…」

「とぼけるなよ報告はちゃんと受けているんダ。アンタ、この家に来て三日も経たないうちに薫を食い散らかしたな」

「縁…お前、いったい何人ここに見張りをつけているんだ…」

「必要な情報を手に入れるのに必要な数だけダ。全く、盛りのついた童貞はこれだから困る。少しの”待て”もできないとは頭が痛い」

「…十分待っただろう」

赤い前髪の隙間からのぞいた茶色の瞳がにぶく金色に光った気がして、縁は天を仰いだ。

「まだ孕ませるなヨ。それはまだ早い。ここまで根回しとアンタの鍛錬と身繕いをするのにどれだけ時間をかけたと思ってる。台無しにするな。ここに根付いてあの子がアンタの居る人生を本当に受け入れるまで、慎重にやれ」

「わかってる。縁には感謝している」

「ボロは出してないだろうナ? また姉さんの時の二の舞はごめんダ」

「出してない…と、思う」

「思う、だと?」

「あ━…その…夜に薫を前にすると、どうしても…その…」

もごもごと口ごもる緋村を見て、縁はまた天を仰いだ。頭痛がする。薫のこの先の苦労を思うと、涙さえ出そうな気がした。



***



「え、縁さんが来たの?! なのにもう帰っちゃったの?!」

「ああ…ちょうど薫が出かけている時で、時間もあまり無かったらしく」

夕方に帰宅した薫は昼間に縁が来てすぐに帰ってしまったことを聞くと、肩を落として悔しがった。

「会いたかったのに…」

「まぁ、そのうちまた来るし、焦らなくても縁は逃げないよ」

「そうだけど…」

ぶつぶつとまだ何かを呟きながらしょげている薫からは、不安定な精神の揺らぎが滲みでていた。

━━また とつぜん 居なくなったら どうしよう━━

そういう不安が見え隠れする言動が、緋村がここに来てからずっと続いている。薫自身はちょくちょくと用事で外出するのに、緋村が一人で外出するのにはあまりいい顔をしなかった。”どこにいくのか”とか”何時に戻るのか”とか、不安そうに細々と尋ねられるので、緋村は薫が家にいる間は極力自分も外出を避けている。
まだ、薫自身が状況に追いつけていないのだろう。七年も待って、一人きりになって、それなのに突然二人が戻ってきて。自分の手の中に転がり落ちてきたものに、まだ確信が持てずにいるのだ。

だから緋村は、その薫の不安定さにおおいにつけ込もうと決めている。

再会した日に家で失神から目覚めた薫は、自分を介抱していた緋村を見て、しばらくの間は呆然としていた。緋村の姿を上から下まで何度も眺めたり、赤毛や頬の傷を触って確かめたり、手の爪をしげしげと撫でてみたり。髪を括っている藍色の布がかつて自分が渡したものであることを確かめて、薫がようやく笑顔を見せるまで、緋村はじっと置物のように検分を受け入れた。

そこからは拍子抜けするほどすんなりと事が運んでいる。

”この家に置いてほしい”と緋村が自ら言う前に、薫の方から”ここに住むよね?”と尋ねてきたので、緋村はただそれに頷くだけで良かった。こんなにあっさりと家に入り込ませてしまうなんて不用心にもほどがあるとは思ったが、ここ数日の様子を見る限り、それはどうやら薫がまだ放心状態から抜け出せていないせいのようだった。

緋村が戻ってきた。目の前に居る。ここに住むと言っている。もう居なくならないはず。居なくならないようにしなくては。住みやすくして、居心地を良くして、ずっとここに居たくなるようにしなくては。

そんな風にぐるぐると考えているのが、緋村にはなんとなくわかってしまった。わかってしまったので、遠慮なくそれに便乗しようとしている。

試しに薫に触れてみると、全く嫌がらなかった。試しに口を吸ってみると、これまた何も抵抗しない。だからそのまま寝所に引っ張り込んで、契ってしまった。薫は最後まで抵抗らしい抵抗をほとんどしなかった。破瓜の時だけはさすがに緋村を引っかいたり叩いたり蹴ったりしたが、そんなものは毛ほども痛くなかったので、おおむね緋村の好きなようにできてしまった。
時間が経ったら薫が正気に戻って”やっぱりここに居てもらっては困る”などと現実的なことを言い出すかもしれないので、その前にもうあと戻りできないところまで事を進めてしまいたかった。

(だいぶ見苦しいことをしているが、別にそんなことは気にしない。俺はもう決めたのだから)

「薫、夕餉は」

風呂から上がった薫に緋村が聞くと、しゅんとして答えた。

「あ、ごめんなさい、会合でいろいろ食べちゃって、あまりお腹がすいてないの」

「そうか」

「緋村さ…けん、しん、は食べてね」

「ああ、あとで食べるよ」

「今は食べないの?」

「今はいい」

手を取って引き寄せる。まだ塗れている黒髪から良い匂いが立ちこめて、緋村はそれに鼻を付けて息を吸った。とたんに薫の顔が上気したのが気配でわかった。

「薫。部屋に行こう」

「あ…えと…もう…?」

「そう。我慢できそうにないから」

そう言って髪を解くと、緋村の赤い髪はすぐにざわざわと伸び始め、薄茶の目が鈍く金色に光り出した。瞳孔が細く形を変えていく。

「あ…」

薫は目の前で変わっていく緋村を見つめて、さらに頬を赤らめた。昼間は何があってもその姿を変えないよう気を使って生活しているようなのに、緋村は夜、薫を前にして興奮すると、すぐこの姿になってしまう。

「薫は、これが、気に入っているようだから」

━━そうだろう?

そう続けて問われて、薫はコクンと頷いてその手を取った。長い爪がカリカリと薫の手の甲を小さく掻いて、何かをねだっている。

「わたしは あなたのことが 好きなの。もうずっと、前からね」

そう言うと、緋村はこの世の春が来たように笑うのだ。そうして薫を引き寄せて、同じ言葉を返してくれる。

「俺は、かおるが 好きなんだ。はじめて会ったときからずっと、ずっとね」

そう言って腕の中に閉じこめてしまうので、あとはもう薫には、何も見えなくなってしまう。



***





ひらひらと木の葉が舞っている。
色とりどりの葉が次から次へと降ってくる。
葉に紛れるように赤い髪が揺れている。

(またどこかの枝に絡まってしまうわよ)

そしたらあの人は躊躇いもせずにちぎってしまうので、そうなる前にほどいてあげなくてはいけない。

薫は今にもどこかの枝に絡まろうとしている長い赤毛をそっと掴んだ。

そうすると柔らかいそれは薫の指に巻き付いて、腕を這い、やがて全部を包みこむ。

薫は包まれながら思っている。いつか教えてあげなくてはいけない。

手に入れたのは他の誰でもない、薫の方だったと。



あの、狂ったように紅葉する黄色と赤の世界で。
最初にわたしが、あなたを見つけたのだ。
停滞していた全てを問答無用で動かしたのは、このわたし。



あなたを見つけたあの時から、わたしがあなたのものになる前に、あなたがもうわたしのものだった。そうわたしが決めたから。だから二度と離れないし、離さない。わたしにはそれが、許される。




胎動が聞こえる。
この懐かしく胸を打つ、愛しい律動。











モドル。