「あの子に話したのか」

縁は木の幹に寄りかかって、枝の上の緋村を見ることもなく尋ねた。

「ああ」

白い髪が、暗い夜でもわずかな月の光を集めてぼんやりと輝くのを見ると、緋村はいつも喉のあたりをきゅうと締められたように苦しい。

「で、どうするつもりなんだ、アンタは」

「……」

「こんな山の中でいつまでも、あの子の訪問を待つだけの暮らしを続けるのか。あの子は数年もすれば大人になる。中身も見た目もそれはそれはいい女になるだろう。アンタへ向けられた幼い恋心はきっとそのまま育つだろう。相当な頑固者のようだし、欲しい物には素直に手を伸ばす性格のようだから。
ここには通い続けるだろう。春も夏も秋も、冬を越してまた次の春も。それで、その先はどうする。いい女には早々に縁談が舞い込むものだ。それでもそんなものは蹴ちらして、あの子はアンタのもとへ通うだろう。二十代、三十代、いつまで続くか知らないが、アンタはあの子に、そうさせるつもりなのか」

縁はどこを見ているのかわからない。木々の先の、どこか遠くの方に視線が向いているのに、その目は間違いなく緋村を見据えているのだ。いつもそうだ。

「…縁。頼みたいことが、あるんだが」

覚悟を決めたように口を開いた緋村を今度は本当に見上げて、縁が丸メガネを押し上げた。

━━言ってみロ。内容によっては頼まれてやル。もししょうもないふざけた頼みだったらその時は、今度こそお前に引導を渡してやるからナ━━






胎動 十七






夏が来た。薫は相変わらず週に一度の頻度で緋村のもとを訪れている。ほとんど毎回縁も一緒にやってきていた。どうやら薫と縁は山を訪れる日を前もって相談して決めているらしく、山の入り口で待ち合わせては共に道を登るようになっていた。

毎回”友達と遊んでくる”と言って家を出ていると聞いて、両親に不審に思われはしないのかと緋村が尋ねると、薫は”一度、あぶなかったことがあったの”と肩をすくめた。

「母さまがね、友達のうちの一人のお母さんと町でばったり会っちゃったみたいで。そのお母さんが”うちの子が最近薫ちゃんと遊んだとは聞いてないわ”って言って、それで母さまから”あなた一体どこの誰と遊びに行ってるの”って聞かれて」

緋村は蒼白になった。

「それで。どうしたんだ」

「”最近知り合った子とよく遊んでるんだよ”って言ったよ」

「いや…またそんな居もしない新しい友達を作り出したら、よけいに疑われるだろうに」

緋村が頭を抱えると、薫はきょとんとして縁を見た。

「居るよ、ちゃんと。縁さんが紹介してくれた子が三人」

「なんだって?」

見れば縁はすました顔でそっぽを向いている。

「縁さんが面倒見てる子なんだって。男の子が一人と、女の子が二人でね、三人とも凄く頭がいいの!それに武術をやってるっていうから何度か手合わせしてもらったんだけどね、わたし、一度も勝てなかった!」

「……」

━━それは本当に世に言う子供かどうか怪しいし、恐らく”縁が面倒を見ている”の意味が薫が思っているものと激しく違うのではないか━━

縁はまだ二十歳を少し超えたばかりだというのに、既にこの国の裏の世界に深く入り込んでいるらしかった。大陸でのし上がった組織をそのまま日本に持ち込んで、いろんな方面に根を張っているらしい。組織が抱えている構成員も多岐に渡るようで、様々な見た目、様々な能力、様々な年齢の者が縁の配下には控えている。恐らくその中の”適した三人”を、薫の”新しいトモダチ”としてあてがったのだろう。

「縁…俺はそんなことは頼んでいないぞ…」

「うるさいな。別にお前には関係ないことだ。俺が好きでやっていることに口を出すな。それに薫が気に入ったのだから、嘘でもなんでもない真っ当なトモダチさ」

「そうだよ!ここに来るのと同じぐらい、三人とも遊ぶもの!」

「……」

いつの間にか縁も薫のことを”薫”と呼び捨てにするようになっていた。山から出ることのない緋村の預かり知らないところで、二人は着々と親交を深めているらしい。たぶん薫も気づいていない生活の端々にまで、縁の手が回っていると考えて間違いなかった。



***



山から出ない緋村はそれでも夏の間、薫に色々なものを見せてくれた。その中でもとりわけ薫の印象に強く残ったものが二つある。
一つは緋村のねぐらだった。
かねてから薫は、緋村がどこで寝泊まりをしているのかが気になっていた。まさかこの木の上で昼も夜もずっと暮らしているわけではないだろう、そう思って尋ねると、緋村は薫の手を引いてねぐらにしている古いお堂に連れていってくれた。
いつもの木が立っている場所からほど近く、少しばかり木々を分け入ったところにそれはあった。

古いお堂ではあったが、外側の古さに反して中はよく手入れされていた。聞けば、打ち捨てられたこの建物に緋村が住み着いたころには中も紛れもなく古く朽ちていたらしい。

「縁がね。見かねて手を入れてくれた。余りに朽ちていて目に余ると言って」

「そうなんだぁ。縁さん優しいねぇ。もしかして、着物も縁さんが用意しているの?」

「ああ、そうだよ。俺は別に着られれば何でも構わないのだが、それは縁の美意識からすると許せないことらしい」

確かに緋村の着ている着流しは生地が上等で、時々刺繍が入っていたりするものもあった。山の中でふらふら生きているだけの━━幼い薫の目からみても、とても糧があるとは思えない━━緋村がどうやってそんなものを手に入れているのだろうという疑問はこれで解けた。

薫が中をきょろきょろと見回すと、衣紋かけの端に白い毛皮がかかっているのが見えた。以前、雪溶け前の春先に勇んでここに来てしまった時に、緋村が貸してくれたものだ。

「これも縁さんが?」

「いや違う。それは俺が自分で捕った狐の皮を剥いだものだよ」

「あ…うん、そうなんだ…」

触ろうとしていた手を引っ込めて、若干狼狽えた薫の背後から、緋村はその白い毛皮に手を伸ばす。両腕の中に薫を囲うようにして毛皮を広げて見せると、小さな頭の上からのぞきこんだ。

「獣を捕って、喰って、皮を剥ぐ。使えるものを使い、残りは土に埋める。薫が魚や肉を食べるのと、何か違うのかい」

のぞき込まれた薫は緋村の顔を逆さまに見て、そして振り返って緋村の胴体にぎゅうと抱きついた。

「ううん、なにも、ちがわないよ」



***



二つ目は、蛍の群生だった。
それまで昼の間しか山を訪れることのなかった薫が一度だけ、夜に来ることができた日があった。その日町では祭りが行われていて、薫は家に迎えに来た”トモダチ”と、”トモダチのお母さん”に連れられて、祭りを見に行くと言って外出を許可された。もちろんトモダチもトモダチのお母さんも縁の差し金である。一応形だけ祭りを素通りしながら眺めて回ると、トモダチとトモダチのお母さんはすっと消え、縁が代わりに薫の手を引いた。

「今日はね、緋村が薫に、どうしても見せてあげたいものがあるそうだよ」

「そうなの?なんだろう。お祭りで上がる花火かな。山の上からだと、よく見えそうだもんね」

「さぁどうだろうね。行って、確かめておいで」

いつもの木の場所に着くと、今度は緋村が手を引いた。縁は用事があるからと行って去ったので、薫は緋村と二人で暗い山の中を進んだ。虫避けのお香を炊いてはきたが、夏の夜の山はそんなお香が利くはずもなく、暗い足下で蛇に咬まれでもしたら困ると、途中から緋村は薫を抱き上げてしまった。
まるで赤子のように抱き上げられて薫は少し抵抗したが、緋村が「着いた」と言うと、そんなことは気にならなくなってしまった。

「すごい…!こんなにたくさん蛍が居るの、はじめて見た…!」

そこは細い川が流れる岸辺だった。無数の蛍の光が、辺り一面に飛び交っている。

「きれいだねぇ。すごいねぇ。ありがとう、見せてくれて」

「ああ」

「そう言えばもうすぐお彼岸だね。蛍はね、死んだ人の魂が宿ってるって、何かの本で読んだよ」

「そうか」

「でもねぇ。わたしはここには、ともえさんも、きよさとさんも、居ないと思うよ」

「どうしてそう思う」

「二人はねぇ。もうとっくに極楽にいって、お釈迦様に誉められて、二人で生まれ変わって、また一緒に居るよ。だから、ここには居ないと思うよ」

「……そうか」

薫の輝く瞳が、本当にそう信じているのだと言っていた。そうならいい。きっとそうだと、信じたい。

「わたし、この蛍を見たこと忘れない」

「ああ」

「また来年も、連れてきてね」

「……」

それには緋村は答えなかったが、蛍の光に気を取られている薫が気がつくことはなかった。



もうすぐ秋が来る。秋が来れば、出会ってから一年だ。



***



夏が終わり秋が来た。緑の葉は黄色や橙に徐々に色を変えつつある。
薫は朝起きて午前中の稽古を済ませると、自分の部屋で箪笥を開けていそいそと着物を取り出した。

「ええと、これと、これと、あとこれと…」

藍色の着物に藍色のリボン、お気に入りの一式を揃えて確認すると、手早くそれに着替える。
前回会いにいった帰り際に、緋村から頼まれたのだ。

━━初めて会った日に着ていた、あの藍色の着物とリボンを、また、着てきてくれないか━━

薫は快く請け合った。この時期になれば袖を通してもおかしくはない生地だし、何より自分もお気に入りだ。緋村もよほど気に入っているのだろうと思って、いつもより気合いを入れて弛み一つなく自分を着付けた。

いつも通り山の入り口で待ち合わせた縁も、薫の装いを見て微笑んでくれた。

「とてもよく似合ってる」

「ありがとう縁さん!縁さんもそのお着物、とっても素敵だよ!」

縁はいつになく手のこんだ刺繍が入った黒地の、異国の着物を着ていた。その上に山吹色の、これも異国の羽織を着ている。羽織にも刺繍が入っていた。これまでみた中で一番豪華な装いだった。

「そうかい、ありがとう。一張羅を着てきたんだ」

「そうなの?今日は何かお祝い事でもあったの?」

「いいや、そういうわけじゃないけれど。薫に見てほしかっただけだよ」

「そうなんだぁ。すごく、かっこいいよ!」

満足そうに縁が笑う。片耳では丸い耳飾りが揺れていた。



出迎えた緋村を見て、薫はその装いにもすぐに気がついた。

「あ、その着物、はじめて会った時に着てたやつ」

「ああ。よく覚えてたな」

忘れるはずもない。一年が経っても、薫の目には、はじめて見た時の緋村の姿が焼き付いている。

「きょうは何かあるの? いちねんまえと、おんなじなんて」

薫が不思議そうに尋ねても、緋村も縁も”なにもないよ、ただ薫に見せたくて、薫の藍色の着物を見たかっただけ”と言って笑った。

いつものように楽しく会話をして━━最近では緋村はちゃんと受け答えしてくれるし、なんなら薫を膝の上に乗せたまま座り込んで時間を過ごすことも多くなっていた━━あっと言う間に陽が陰る。

「今日はアンタが送っていくんだろう」

縁がそう言うと、緋村は頷いて薫を抱えたまま立ち上がった。

「今日は縁さんじゃないの?」

「そうだよ。今日は緋村が送っていくから」

「え…でも…」

最初の拷問紛いの急速下山が思い起こされて、薫は少し及び腰になった。

「大丈夫だ、今日は走らないから」

「なら、いいけど…」

言った通り緋村は走らなかった。薫を大事そうに抱えたまま、薫は自分で歩くと言ったのに、頑として降ろさず山を下った。
町中に入ったところでようやく薫を降ろすと、それから緋村は懐から取り出した細い藍色の布切れで髪を括り、更に頭巾を取り出してそれをすっぽりと被ってしまった。括った髪はうまく頭巾の中に納めたようで、そうすると周りを歩く町の人たちとあまり遜色がない。
薫は一瞬だけ見えた藍色の布切れに目を留めて、緋村の袖をつんつんと引いた。

「ねぇ、今のって、わたしがあげたやつ?」

いつだったか。木の枝の上で。
薫のリボンとお揃いなのだと言って、編んだ赤い髪に結んだもの。

「ああ、そうだよ」

「ちゃんと持ってたんだぁ」

無性に感激した薫が手を握ると、緋村もそれを握り返す。
二人で夕暮れ間近の家路を手を繋いで歩いた。二つの影が長く地面に伸びていて、薫はそれを見て”自分の身長が緋村につり合うようになるまであとどれくらいかかるだろう”と思った。たくさん食べて、早く大きくならねばならない。隣を歩いてもおかしくないくらいに。

家の裏手まで来ると、緋村はそっと手を離して薫の背を押した。

「誰かに見られないうちに、早く家の中へ」

「うん、あの、また、来週行くからね」

「ああ」

「次はどの色の着物を着ていこうか?」

「…どの色のでも、薫が好きなのを着たらいい」

「わかったぁ、じゃあね!」

手を振って裏の木戸を開ける。扉を潜るときに振り返ると、もう緋村は居なかった。

そしてそれを限りに。

薫が山で緋村と縁に会えることは、二度となかった。



***



「薫はどうしたんだ。まだ部屋にこもって泣いているのか」

越路郎は妻の淹れた茶を一口飲むと、湯呑みをちゃぶ台に置いてため息を吐いた。愛娘はここ数日道場での稽古にも参加せず、ひたすら自分の部屋にこもってメソメソと泣いているようだった。

「ええ…そのようです」

「一体何があったんだ? 聞いても何も答えないが」

「どうやら新しく知り合ったお友達と会えなくなったようで、寂しくて落ち込んでいるみたい」

「はぁ。どこかに引っ越したのか?」

「だと思いますよ。私にもあの子、あまり詳しくは言わないの。どうにかご飯だけは食べさせているけれど、それも宥めたり叱ったりしてようやくお茶碗半分食べるのがやっとで。こんなことは初めてだから私もどうしたらいいのか…」

「そうか。薫くらいの歳では、友人が世界の全てみたいなものか。時間が経てば落ち着くだろうから、様子をみるしかないな」

「ええ…そうですね」



***



緋村が家まで送り届けてくれた日の翌週、いつものように薫は山に入ったが、縁は待ってはいなかった。いつもならば山の入り口で薫が来るのを待っているというのに、どこにもいない。用事ができて来られなくなったのだろうかと思いながら一人で山を登り、いつもの木の場所まで辿り着いたけれど、緋村もまたそこに居なかった。

おかしいなと首を傾げて緋村のねぐらになっているはずのお堂に向かったが、そこももぬけの殻だった。
あったはずの調度品も、衣紋掛けも、何着かの着物も、白い狐の毛皮も、なにもかも。
全てもとから何も無かったかのように、綺麗さっぱり消えていた。

それを見た時の衝撃を思い出すと、いまだに薫の胸はシクシクと痛む。

次の日も、その次の日も薫は山を登った。
きっと何かの悪い冗談に違いない。そのうちいたずらっ子のような顔をした縁と緋村がひょっこり出てくるはずだ。そう思って木の根本に座り込み、陽が傾き始めるまで何時間も待った。

三日めの夕暮れ間近になってようやく、薫は理解した。
二人は自分のもとを去ってしまって、ここには戻るつもりがないのだと。

とぼとぼと家に帰り、その日は食事も取らずに部屋で泣いた。以来、父と母を心配させつつも泣きやむことができずにいる。

なぜ、何も言わずに。
なぜ、こんなに急に。

思えば最後の逢瀬の時点で様子が変だった。藍色の着物とリボンを身に付けてこいと言ったり、自分たちも特別な装いをしていたり、縁ではなく緋村が家まで送り届けたり。
きっと二人はそれが最後と知っていて、何か記念のような意味合いでそういうことをしたのだ。だからこの仕打ちも不慮の事故などではなく、前もって計画されていた離別なのだろう。それがわかってしまって、薫はさらに泣いた。

薫が泣きやんで自分の部屋から出ることができたのは、二人との別れから結局一週間が経過したころだった。
その日は朝からやけに寒くて、朝起きてノロノロと手洗いを済ませた薫がまた自分の部屋に戻って布団に潜り込もうとすると、部屋の襖に何か白いものが挟まっているのに気がついた。さっきまではそんなものは無かったのに変だなと思って抜き取ると、それは長方形の和紙が折り畳まれた文だった。
開いてみると、みみずが這ったような下手くそな文字が見えて、薫は目を擦った。泣きすぎて腫れた目のせいではなく、それはやはりただの下手くそな文字だった。全てひらがなばかり。ところどころ震えたように線がブレているのは、書いたものが手習いの初心者だからなのか、他の理由なのかわからなかったが、どうにか薫にも読みとることはできた。



「とつぜん きえて すまなかった
 いつか また あいにいく
 かおるが まっていても いなくても」



文の一番最後には、赤い髪が一房くくり付けられていた。

それだけで薫には、十分だった。







モドル。 ススム。