胎動 十六






実のところ緋村は、自分の年齢を正確には知らない。
少なくとも自我に芽生えてからは十数年が経っているのだが、それ以前のことは霧がかかったようにあやふやで、はっきりとはしなかった。

気が付いた時には一人だった。生まれ落ちてからいったい何年経っていたのか、どこで生まれたのか、親はどこにいるのか、それもわからない。
気が付いた時には、山を駆け回って獣を取り、それを食べ、腹が膨れれば眠り、そして起きたらまた獣を探すという毎日を送っていた。
はじめは言葉も知らなかった。だからだろうと思う。言語による思考ができなかったせいで、それまでの自分はいわばただの獣と同じだったから、自我もなく自分が何者かなどと考えることもなく、ただぼんやりと、ただ漫然と、生きていただけなのだろう。

「巴と出会ったのは、俺がそうやってただ山の中で喰って寝るだけの暮らしをしていた時だった。今からもう、十五年ほどは前になる」

「ともえ…さん?」

「そう。縁の姉だよ」

「縁さんのお姉さん!お姉さんがいるんだぁ!知らなかったぁ!」

足の間に座り、後頭部を預けて自分の胸元に寄りかかっている薫がはしゃぐ。緋村はそれがおさまるのを待って、続けた。

「巴はその時十五歳、縁は六歳だった。山の中で迷子になっていたんだ。二人で親戚の家に向かう道中で山に迷い込んだらしかった。俺は言葉も知らなかったし理性なんてものもほとんど無かったから、二人を見て、今日の晩飯を見つけたなと思って喜んだ」

「え…ばんめし…」

「山の中の猪や鹿と人間の区別なんて、ついていなかったんだよ、その時は…」

山に迷い込んだ巴と縁に遭遇した時のことを、緋村は今でもよく覚えている。
巴を見てまず、綺麗な生き物だなと思った。”きれい”などという言葉は知らなかったが、たぶんあの時頭に浮かんだのはそういう感情だったはずだ。彼女からは、辺りに生えている梅の木とよく似た香りがした。肌は雪のように白く、瞳は黒々と冷たく、それでもとっさに隣の縁を庇う様子には姉としての優しさと責任感が滲み出ていた。庇われた縁は、姉を押し退けて、突然現れた緋村を威嚇しようとしていた。まだこの時は、縁の髪は姉と同じく艶のある黒だった。

「二人をしとめようと飛びかかって、でもそこにちょうど冬眠明けの熊が出てきた」

「くま…!」

薫は目を輝かせている。熊なんて、絵本や瓦版でしか見たことがない。緋村が語り始めた昔話は、薫の中でまるで絵巻物のようにあざやかに展開していた。

「見たことも無い姿形の二人と熊を見比べて、俺は熊を選んだ。うまいかまずいかわからない生き物よりも、うまいとわかっている方が良かったから」

「くま…たべたことあるの…」

「あるよ。喰いでがあるし、しとめたらそれで何十日も腹を満たせる」

「そっかぁ…くまさん…大きいんだもんねぇ…」

二人を放置して熊に向かっていった緋村は、見事に熊をしとめた。そのころにはもう山の中で緋村がしとめられない獣など居なかったので、当然だった。

「でもすぐ近くに居る巴と縁に多少気が向いていたからか、しとめるときに一撃をもらってしまった」

大きく鋭い爪の熊の、死に際の一撃は、緋村の腹を深く裂いた。息絶えた熊の横で緋村もまた腹から夥しい血を流し、動けなくなってしまった。

「そ、それで…どうなったの…」

薫はハラハラした顔で続きを待っている。

「巴がね、手当をしてくれた。止める縁を宥めながら。縁も最終的には、動けない俺をしぶしぶ運んで介抱してくれたよ」

「そっかぁ!良かったねぇ!巴さんも縁さんも、いい人で良かったねぇ!」

うんうんと頷いて喜んでいる薫の頭を、緋村はゆるゆる撫でる。

「傷が治るまでの間、巴と縁は頻繁に山に通って俺の世話をした。言葉は通じなかったが、二人が助けてくれようとしていることはちゃんとわかった」

傷が治った後も、巴と縁との交流は続いた。巴がなぜ自分と関わりを持ち続けたのか、緋村にはよくわからない。たぶん、一人で山に居る自分を放っておけなかったのだろう。見た目の冷たさに反して、限りなく優しい人だった。縁はそんな姉を心配して、しぶしぶ緋村との交流に参加をしていた。

「言葉も文字も、巴が教えてくれたんだ。聞くことと話すことはわりと早くできるようになった。文字を読むことも時間はかかったがどうにか覚えた。書く方はなかなか身に付かなかったが。そして”緋村”という名は、縁が付けた」

「えっ、そうなの!? 縁さんが付けたの」

━━アンタ、名前も無いのか、本当にただの獣と同じじゃないか。呼び名が無いのも面倒だから、そうだな、”緋村”でいいんじゃないか。髪の色が緋色だし、芋臭い野生児なんだから適当に”村”でもくっつけとけよ━━

そんな風にめんどくさそうに付けられた呼び名ではあったが、緋村は大いにそれを気に入った。自分が自分以外の他の生き物から与えられた、それは初めてのものだった。

「一時期は人里に下りて、人の子に交じって暮らしてみたこともあった」

巴と縁との交流を持ちはじめてから、2年ほどが経過したころのことだった。
言葉も覚え、人間のこともある程度理解したその頃になって、巴から人里で暮らしてはどうかとすすめられたのだ。いつまでも山の中で一人で暮らしているのでは寂しいだろうし、侘びしいだろう、近くで暮らせば自分たちも安心だから。そう言って優しく笑う巴の言葉に、緋村は素直に頷いてしまった。隣で縁は難しい顔をしていた。何かを心配しているように眉音を寄せ、”姉さん、それはちょっとやめた方がいいんじゃ、まだ無理だよ”と言っていたのに、緋村は二人の近くで暮らすことに夢を見てしまって、縁の心配顔を無視してしまった。

それを緋村は、今でも死にたいほど悔いている。
”二人の近くに居たい”などと、そんな夢を見なければ。あの時縁の苦言に耳を貸していれば。身の程をわきまえるという謙虚さが、その時の自分にあったなら。

「雪代家が持っていた町外れの小さな空家に住ませてもらった。巴と縁は早くに母親を亡くしていたから、家族は父親だけだった。二人が突然連れてきた得体の知れない俺を深くは追求せずに空家に住まわせてくれるほど、その人も優しい人だった。人の世界で暮らすのはなかなか大変で、それでも巴と縁はなにくれとなく手助けをしてくれた」

長すぎる赤い髪は切り落とし、爪も短く整えた。すぐに伸びてしまうそれらを毎日夜明け前に切り落とすのが日課だった。日々の動作にも気を付けた。気を抜くととんでもない速さで走ったりとんでもない高さまで飛んだりしてしまうので、極力静かに、目立たず暮らした。

巴と縁には、”お前はいったい何者なのか”と聞かれたことは一度もなかった。聞かれたとて緋村自身もよくわからなかったので、きっと答えられはしなかっただろう。それでも、”人の子とは違う何か”なのだろうということは、三人ともがわかっていたことだった。

「幸せだった。ずっとそうやって暮らしていけたらいいと思った」

「ともえさんのことが…好きだったの…?」

それまで目を輝かせながら話しを聞いていた薫が、はじめて少し眉を寄せて尋ねた。

「好きだったよ。ずっと一緒に居たかった」

「そう…」

しょげたように俯く薫の頭を撫でて、緋村は笑う。

「同じように、縁のことも好いていたよ。二人は俺にとって親鳥のようなものだった。それに巴には、許嫁が居たんだ。相思相愛の幼なじみがね」

「えっ」

驚いて振り返った丸い目に、自分が映っているのが見える。それはかつて緋村が巴と縁の瞳の中に見た自分の姿と、とてもよく似ている気がした。

「巴が十八になったら二人は晴れて夫婦になるはずだった。俺はそれを何のつかえもなく喜んでいたよ。”好きだった”というのはそういう意味だ。二人が夫婦になって、縁と一緒に祝福する。俺は好いた人たちのそばでいつまでも暮らす。そういう幸せな夢を見ていた」

「夫婦には…ならなかったの? ともえさんと、いいなずけの人」

青々した木々と草が揺れる。そこここで虫の気配がする。たくさんの音が溢れているのに、薫の小さな声は染み入るように響いた。

「ならなかった。二人とも、死んだから」

巴と幼なじみの許嫁━━名を清里と言った━━の祝言が間近に迫った、冬のことだった。

「俺がヘマをしたんだ」

涙ぐましい日々の日課をこなしても、緋村の人間に似せた装いには綻びがあった。ふとした時に髪も爪も伸びてしまうし、とんでもない速さで走ったり跳んだりすることを、完全には隠せなかった。突然空き家に住み始めた素性もよく知れない者が、普通の人間ならざる気配を漂わせていれば。周囲に暮らす者たちが不審な気持ちを持ち始めるのは当然だった。

「折り悪くその頃付近では、子供の拐かしが頻繁に起きていた。結局それは気の狂ったどこぞの男のしわざだったのだけれども、それがわかったのはずっと後のことだ。子供が消えて、帰ってこない。そんなことが続いて、得体の知れない俺に目が向くのにあまり時間はかからなかった」

━━あの家には鬼が棲んでいる。子供をつかまえて、殺して喰っている━━

「そんなの…ひどい」

薫は蒼白になって緋村の袖を握りしめた。その時のことを想像するだけで胸が痛い。

「疑念はどんどん膨らんで、ある日破裂した。近所に住んでいた一家の父親がね、その男には小さな子供が二人居たのだが、子供をいつ拐かされるかという不安と恐怖に耐えかねて、俺のところに乗り込んできた。近所の男たちをたくさん連れて。手には鎌だの斧だのを持っていて、俺を見つけると、それを思い切り投げた」

「うそ…!」

「俺はもちろんそれを避けた。でも少しばかり加減を間違ってしまった。虚を突かれて投げ込まれた鎌や斧を避けようと、うっかり屋根まで飛び上がってしまったんだ。勢い余って、髪も爪も一瞬で伸びてしまった」

さながら酒呑童子のように。一瞬で獣のような姿に変貌した緋村を見て、乗り込んできた男たちはそれみたことかと気色ばんだ。

━━やっぱりコイツがやったんだ。おれたちの子供をさらって、喰ってやがった━━

「俺はなぜそんな風に襲われたかよくわかっていなかった。すぐに一目散に逃げれば良かったものを、話せばわかってもらえるのではないかなんて、思ってしまったからいけなかった」

混乱と恐怖に駆られたたくさんの男たちに、言葉など通じるはずはなかった。あっと言う間に取り囲まれて、殴る蹴るの暴行が始まった。緋村は決してやり返すことはしなかった。それをやったら自分に愛情をかけてくれた巴と縁を裏切ることになると、わかっていた。

「もうこのまま殺されるのも仕方がないなと心を決めた時になって、駆けつけた巴が割って入った。ちょうど男たちの誰かが振り上げた刃物が俺の胸に刺さろうとしていた、その間に。俺は頭から流れる血が目に入っていて、割り込んできた巴に気づくのが遅れた。視界よりも先に白梅香の匂いに気づいた。目を開けると、刃物は巴の背中から胸を貫いていた。巴の口と胸から真っ赤な血が噴き出して、その鉄臭さは優しい梅の香りと一瞬で交じり合ってしまった」

「……っ」

薫は絶句している。目からこぼれ落ちそうなほど涙が溜まっていた。

「追ってきた清里が男たちを止めようとしたけれど、もう駄目だった。一度走り出した混乱は簡単には収まらなかった。もみ合いと乱闘が始まって、気づけば清里が巴に折り重なるようにして事切れていた。そのもみ合いでいつのまにか俺の頬には傷が付いていた。誰が付けたのかなんてわからないし、そんなことはどうでも良かった」

その時の景色が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。

「俺は反狂乱になって、男たちを殴り倒した。爪で裂いて、投げ飛ばして、骨を砕いて引きちぎった。何人も、何人も」

最後に残ったのは、長く赤い髪ごと全身を血で染めた、正真正銘の鬼が一匹。

「遅れて駆けつけた縁は、巴の亡骸に縋りながら俺を見て振り絞るように叫んだ」

━━だから言ったんだ。オマエが人のそばで暮らすなんて無理だって。こういうことになるんじゃないかと、だから俺は止めたのに━━

薫は泣いていた。大きな滴が大きな瞳からボタボタと滴っている。

「俺はすぐに山に逃げた。恥と後悔と自分の浅はかさを呪いすぎて、自分で死ぬこともできなかった。ただ逃げて、ぐるぐるぐるぐる巴と縁のことを考えることしかできなかった。ただ二人と一緒に居たかっただけなのに、全部壊したのはこの俺だ」

縁は追ってはこなかった。
縁がまた緋村の前に現れたのは、それから数年が経ってからのことだ。山でただ息をしているだけのように暮らす緋村を見つけると、彼は蔑みと哀れみと懐かしさの交じったような不思議な目で緋村を眺めた。
姉と同じように黒く美しかった髪は見る影もなく真っ白になっていて、異国の着物を着ていた。

「大陸に渡っていたらしい。なぜこの国を離れたのかは詳しく聞いていない。巴の父親も出奔したと言うから、雪代家は一家離散したようなものだったんだろう。言葉も通じない国で過酷な暮らしをして、それで日本語の発音はあやふやになってしまったと言っていた。俺は縁が俺を殺しに来たのだろうと思っていた。そうならいいと思っていた。でも未だに縁は、俺を殺さずに生かしている」

肩を震わせて泣き続けている薫の涙を両手で拭って、緋村はほっとしたように息をついた。話したかったことはこれで終わりだ。誰かに自分の口で昔語りをしたことなんて初めてだった。疲労で身体が地の底に沈んでいきそうな、それと同時にわけもわからない解放感でどこかにふわふわと浮いていきそうな、あべこべな感覚がうずまいている。

「そんなに泣いたら目が取れるぞ」



もうすぐ夏が来る。夏が来れば、彼岸が近い。





モドル。 ススム。