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胎動 十五 薫が目を覚ましたのは翌日の昼近くだった。 視界に見慣れた自分の部屋の天井が映り、次に心配そうにのぞき込む両親の顔が見えた。 「薫、大丈夫か」 父は眉間に皺を寄せ、母は隣で涙を目いっぱいに溜めている。 「とう…さま、かあさま…」 手を伸ばすと父が抱き起こしてくれる。眠りすぎたのか頭がくらくらした。 「あの…わたし…」 「昨日、もう日没という時間になって家の裏手にお前が倒れていると知らせが入った時は生きた心地がしなかったぞ。いったい、何があったんだ?」 「たおれて…たの…?」 「覚えていないのか? 裏の木戸のところに寄りかかって座り込んだまま、意識を失っていたんだ。それに、薫お前、この腕の痣…」 父にうながされて袖をめくると、くっきりと細長い内出血が幾重にも両腕についていた。 ━━思い出した。昨日何があったのか━━ 途端にぞわぞわと怖じ気が走る。思わずこみ上げるものがあって、薫はえずいた。母がとっさに横に置いていた盥をあてがってくれたので、なんとか布団に胃液をまき散らさずに済んだ。 「薫、なにがあったのか、ちゃんと話してほしいの。嫌なことかもしれないけれど、お母さんとお父さんがちゃんと知っておかないと、あなたを助けられないから」 背中をさする母の言葉は、最後のほうは涙で詰まっていた。母の泣くところなんて、薫はこれまで見たことがなかった。優しいけれど、精神の強さで言えば父より母の方が断然上なのに。これは下手に誤魔化すと、事態を悪化させかねない。えずいて胃液を盥に吐き出しながら、薫は短い時間でめまぐるしく思考を回転させた。 「あ…あのね…きのう…しらかわさんが…」 それだけで父と母の空気が凍り付いたのがわかる。 「あの、わたし、きのう、あそびに行こうとしたら、途中で、あの人につかまって。それで、なにかを口にあてられて、そしたら眠くなって」 両親は彫像のように身を固く息を潜め、覚悟を決めたように先を促している。 「目が覚めたらどこかの小屋の中だったの。目隠しされてて、口も塞がれて、腕も縛られてて。そしたら、あの人が入ってきて目隠しを取ったの。それで、それで、”綺麗な子供が好きなんだ”って言って、”何人もころした”って言って、それでわたしの足を触って━━」 父はぎゅうと拳を握りしめ、母はたまらず口元を手で覆っている。 「そしたら誰かが助けてくれたの」 「誰かが助けてくれた…のか…?」 父も母もどっと息を吐いた。途端に空気が少し緩む。 「うん、誰かはわからなかった。速くて…とっても速くて…わからなかったんだけど…あの人を投げ飛ばしてくれて…それで…わたしを抱っこして、小屋から連れて出てくれたの…わたし、泣いててぐちゃぐちゃで、その人の顔、よくみてなくて…気がついたら寝てて…父さま、母さま、心配かけてごめんなさい…」 よく聞けば粗も矛盾もあるとぎれとぎれの説明ではあったが、よほど父も母も混乱していたのだろう、細かいつじつまには物言いはつかなかった。薫がとっさに組み立てた説明としては大成功である。 「あの…それで…わたしを助けてくれたひとは…だれも見てない…のかな…」 恐る恐る尋ねると、父は安堵した顔で大きく頷いた。 「ああ、お前が家の裏で見つかった時には一人だったよ。他には誰も居なかったし、見た者も居ないようだ。ぜひお礼をしたいが、名乗り出てくれるかどうか…」 「そっか…うん、もし見つかったら、わたしもちゃんと、お礼言わなきゃ…あの、あとはね…あの人は…どうなったの…」 父はまたしぶい顔になった。 「あの男はまだ見つかっていない。白川という名前もニセモノだったそうだ。警察の人たちが界隈を捜索しているが、一向に見つからないらしい。あの男がここに居着いてしまったのは…全て父さんの落ち度だ。お前にはすまないことをした。お前が最初からかたくなに懐こうとしなかった時点で、おかしいと思うべきだったよ。経緯については落ち着いたらお前にもきちんと説明するつもりだが、とにかく…もう二度とお前と関わらせることはないから、今は休みなさい」 「…はい…」 薫が神妙に頷くと、母が目尻の涙を拭って颯爽と立ち上がった。 「お腹すいてるでしょう。ここに運ぶから、少しでもご飯、食べましょうね」 *** そこから薫が一人で外出できるようになるまでに、一月ほどの時間を要した。 季節はすでに初夏を迎えている。 薫が一月もの間家から出られなかったのは、身体や精神の傷などのせいではない。ひとえに、両親が過保護になってしまったからだった。 もともとはどちらかと言えば放任主義だったはずなのに、父も母もあれ以降、ピリピリと薫の挙動に目を光らせるようになってしまった。家や道場の人の出入りは厳しく管理され、薫はこの一月の間、稽古に参加することも許されなかった。一人で外出したいなどとはとても言い出せる空気でも無く、薫はただひたすら家の中でじりじりと過ごした。 (わたしはだいじょうぶ。わたしはだいじょうぶ。だいじょうぶだって、早く会って伝えたいのに) あれから緋村の顔を一度も見ていない。もちろん縁にも、会えていない。 (ああはやく父さまも母さまも、もうだいじょうぶだって、わかってくれればいいのに) このまま外出禁止が解けなければ、山に行くことなどできるはずもない。向こうから会いに来てくれるとも思えないし、会いに来られても困るだけだ。二人とも目立つ容姿をしているのだから、そんな者が薫を訪ねてきたとなっては、父も母も更に警戒してしまう。 ようやく外出許可が出たのは、白川に関する警察の捜索が一通り終了し、正式に”容疑者行方不明、東京に潜伏している可能性は限りなく低い”という結論が出された後だった。 父の元に警察の使いが来てそんな会話をしているのを盗み聞いた薫は、すぐに母のところへ飛んでいって、できるだけおずおずと見えるようにこう頼みこんだものである。 「あのね、母さま、そろそろ外に、遊びにでかけてもいいかなぁ。わたし、もうだいじょうぶだし。警察の人も父さまにそう言ってたし。もう一月も家の中にばかり居て、ちょっときゅうくつなの。お友達に会いにいきたいな…」 母は困った顔をしたものの、”きゅうくつだ”という薫の懇願が響いたのか、外出することを許してくれた。母を懐柔できさえすれば、あとはたやすい。父は母が許したことを覆して禁止するほどの野暮ではないことを、薫はよくわかっていた。 ついでに”薄い水色の着物を箪笥から出して着ても良いか”と尋ねてみると、それもすんなりと許された。母は、薫の精神に忌々しい傷などがついていないこと━━自らの装いに気をくばりたいという年頃の可愛らしい心持ちを持ち続けていること━━に、安堵したようだった。 *** 外出許可を得た翌日、薫はさっそく山へと向かった。 箪笥から出したばかりの水色の着物は前の日に慌てて虫干しをしたので、まだどことなく箪笥の匂いが漂っている気がしたが、そんなことはとりあえずどうでも良かった。 (もうすぐ夏になるから、草も背が高いし、虫もたくさんいるな…) 山の中も初夏の空気に満ちていた。木々は青青と枝葉を伸ばし、あちこちで小さな虫が飛び交う気配がする。 群がってくる蚊を時々手で払いながら山道を登っていると、途中で縁がひょっこりと顔を出した。 「薫ちゃん。来たんだね」 「縁さん!」 思わず駆け寄って飛びついてしまう。よろめきもせずに受け止めると、縁はぎゅっと薫を抱きしめてヨシヨシと頭を撫でた。 ひとしきり再会を喜ぶと、手を繋いで歩き出す。薫ははずむ気持ちが抑えられず、ぶんぶんと繋いだ手を揺らした。 「今日わたしが来るって、わかってたの?」 薫が尋ねると、縁は少しだけ考えて「そうだよ」と言った。 「俺はね、この一月の間、薫ちゃんの家の様子を見ていたんだ。遠くからだけどね」 「そうなんだ」 「これでも人脈は広くてね。警察の捜査状況もある程度把握していたから、そろそろ薫ちゃんの外出禁止も解かれるころだろうと思って」 「そうなんだぁ! 縁さんすごいねぇ!」 なぜ外出禁止にされていたことを知っているのかなど、薫はもはやそんなことを気にしていない。縁がどんな方法でそんな情報を手に入れたかなんてどうでも良かったし、それで縁が自分や自分の家族に害をなすことなどありはしないと、ちゃんとわかっている。 鼻歌でも歌い出しそうな様子で隣を歩く薫を見下ろして、縁はふふと笑った。 「それでこそ俺が見込んだ子だよ。ああもったいない。あいつじゃなくて、俺の方がたぶん君を幸せにできるのにねぇ」 「もったいないってなにがぁ?」 「ん━? なんだろうねぇ」 目的の場所まで登りきると、縁は薫の手を離してその背を押した。 「さ、俺はちょっと用事があるから、今日はこれで失礼するよ。あいつはいつもの木の上できっと狸寝入りでもしているだろう。今日も自分で迎えに行けばいいのに、俺に任せたりして、全く不届きなやつだ」 「縁さんはもう帰るの?」 「うん、今日はね。二人でちゃんと、話しをしてごらん」 そう言ってもう一度背中を押されたので、薫はしぶしぶ一人で歩きだした。 もうすぐそこに、大きな木が迫っている。緑の葉をたくさんつけて、昨年の秋に最初に見たときよりも、二周りほどは大きく見えた。そして木の中腹から根本にかけて、赤い髪が垂れ下がってそよそよと揺れているのが見える。 木の根本から見上げると、縁の言った通り、緋村がいつものように枝に寄り添って眠っていた。 「こんにちは」 小さく声をかける。こんな音量でも聞こえるはずだ。 ゆっくり開かれた美しい茶色の瞳に、自分の輝く顔が映ったのが薫にも見えた。 緋村はすとんと木から飛び降りた。長い髪が中に舞う。着地するとその髪が、薫の頭上から降りかかるようだった。 「来たのか」 「…うん」 来たことなんてとっくにわかっていたくせに、どうしてそんなに困ったような顔をしているのだろう。いつになく緋村は心細そうだった。 「もう来ないかと、思ったのだが」 「来るよ。だって」 「だって…?」 「だって…だって…会いたかったもの」 薫は無性に恥ずかしくなって俯いた。再会して早々、自分は何を言っているのだろう。話したいことは他にもっとあるはずだったのに。聞きたいこともたくさんあるのに。 ふいに身体を覆われて、薫は「えっ」と声を上げた。気づけば緋村が自分を覆い隠すように抱き込んでいる。決して強い力ではなかったが、ぎゅうと音がするぐらいには、しっかりと腕が巻き付いて、すっぽり自分を包んでしまっている。 「俺もだよ」 「え…?」 「薫に…会いたかったよ」 *** これは一体どういう風の吹き回しだろうか。 薫は先ほどからそんなことをぐるぐると考えている。 再会直後に自分を抱き込んだ緋村は、その後もしばらく離れようとしなかった。 立ったままぎゅうぎゅうと締め付けが強くなってくる気がして、とうとう薫が苦しさに音を上げるまで、ずっと。 今は木の根本に座り込んで、足の間に座らせた薫をやはり後ろから抱き込んでいる。 (ど、ど、ど、どうしたんだろう…今までこんなこと、なかったのに。それにちゃんと名前で呼ばれたのも、初めてな気がする…) 薫はばくばく鳴る心臓を誤魔化すように必死にこの一月の間の出来事を喋りまくっているのだが、正直自分の口から出ている言葉をきちんと把握できていない。現に、同じ話しを二度三度と繰り返してしまっている。 緋村は後ろでうんうんと相槌を打っては、しきりに薫の手をさすったり頭を撫でたりしていた。━━どうやら髪の匂いを嗅がれているのではないかと気が付いて、それにはさすがに薫も閉口した。 これまでの付かず離れずのそっけない逢瀬とは、百八十度逆である。もしや別人が化けているのではないかと薫は少し疑いもした。それぐらい今日の緋村は様子がおかしい。 「あの、あの、あのね、それでね、聞こうと思ってたことが、あるんだけど」 意を決したように薫が声を張り上げると、薫の後頭部に自分の額をすり寄せていた緋村がぴくりと肩を揺らした。 「聞きたいこと」 「うん、あの、あの日さ…あの人…あの後どうなったの…?」 縁に引きずられて木々の中に消えた気持ちの悪い男のことを、薫は聞いておかなければならないと思った。警察の捜査では見つからないのだから、本当に東京を出ているのならばいいが。もしそうでないのなら、どこに居るのかの見当ぐらいはつけておかねば、自分だけでなく父と母の身も危うくなるのではと、幼いながらに警戒していた。 「あ、ああ…そのことか…」 緋村は張りつめていた息をふうと吐いて、”それなら心配ない”と言った。 「縁が…遠くに連れて行ったから」 「そうなの?」 薫は思わず振り返る。茶色の瞳が優しげに自分を見ていて、どうにもこそばゆい。 「二度と、薫の前には現れないよ。何があっても、二度と」 「そうなんだ…縁さんに、お礼言わなきゃ」 「はは、そうだな。薫がお礼を言ったら、きっと喜ぶだろうな」 緋村が笑い声を上げるところなんて初めて見たので、薫は本当にびっくりしてしまった。何か、ふわふわと浮き立つような気持ちが沸いてくる。笑うとその口元から、少し尖った犬歯がちらと見えた。 (笑ったり…するんだ…この方がずっといい) 緋村の口元は柔らかく笑みの形に弧を描いたまま、今度は振り返った薫の目だの鼻だのをなぞりはじめている。息がかかるぐらい顔が近くにあって、薫は目をパチパチ瞬かせながら、再度口を開いた。 「あのね、あともう一つ、聞きたいことがあって」 「なんだ」 「…梅の花が、嫌いなの…?」 今度こそ緋村はピタリと動きを止めた。見る間に顔が陰っていく。 「ちゃんと話してくれるって…言ってたから…聞いてもいいのかなって…思って…」 しどろもどろで薫が伺うと、緋村は細く長く息を吐いて観念したように天を仰いだ。 「ああ…話すよ…ちゃんと」 モドル。 ススム。 |