胎動 十四






薫には時が止まった、もしくはもの凄くゆっくり時間と空気が流れたように感じたのだけれども、実際にはそれはまばたきを一回する程度の時間でしかなかった。

扉を一撃で蹴り破った緋村は、次の瞬間には風のように小屋の中へ入り込んだ。
一足飛びで接近された白川はたたらを踏む。突然現れた侵入者の姿をまともに目に映す間もなかったが、その侵入者の色素の薄い瞳がは虫類のように細く自分を見据えていることだけはわかった。緋村は白川の襟首をむんずと掴むと、振り返った足で、そのまま扉に向かってぶん投げた。

「が…っ!!」

ぽっかりと空いたままの扉から、白川が勢い良く外に吹っ飛んでいく。外でドカンと何かにぶつかった派手な音がして、薫の視界からはその姿が消えた。

「あ…ひ…むら…さ…?」

かぼそい声は喉から音として出るか出ないかというほど小さいものだったが、ちゃんとその耳には届いたのだろう。緋村はぴくりと肩を揺らし、ちらと顔を向けてくれた。

「……」

だが薫の姿を見てすぐに顔を戻す。薫はいまだ両腕を縛られたまま床に転がっていて、着物の裾は大きく捲り上げられ、白く細い子供の足が乱暴に広げられた形のまま投げ出されていた。

おぞましいほどの怒りと嫌悪感がこみ上げてきて、緋村の長い髪がざわざわと逆立っていく。かつてこれほどの怒りを感じたことはこれまでに無かった。腹の底から何かが沸いてきて、意識が焼き切れそうな気がする。

━━よくも。よくもよくも、よくも。

「すぐに片づけて戻るから。待っていろ」

それだけをぽつりと言い残して、扉に向かって歩き出してしまった。

「え…」

薫は慌てて引き留めようとしたが、縛られた腕では重心が取れずうまく起きあがることができない。

「ま、待って、置いていかないで…!」

芋虫のようにどうにか床を這いずって声をかける。緋村は扉のところで立ち止まり、ビキビキと両手を鳴らした。長い爪が心なしか更に伸びた気がする。

「置いていかない。すぐに戻る」

「でも━━…」

その後は何も見えなくなった。緋村の姿は一瞬でかき消え、次の瞬間には甲高く汚い高音の男の悲鳴が木霊した。

「え…なに…」

何かが何かに打ちつけられる音がする。ゴキンという何かが折れる音と、グシャリと何かが潰れるような音も。汚い悲鳴はその度に汚く響いた。

薫はどうにか立ち上がり、よろよろと入口に向かう。辿りついた扉の残骸に寄りかかって外を見ると、少し離れた大きな岩のところに、緋村の後ろ姿が見えた。その手は足下から何かを掴み上げ、そのままゆっくりと持ち上げる。白川の首を片手で掴んだまま、緋村が高々とつり上げていた。

「お…まえ…は…なんだ…」

ごぼごぼと口から血液を吐き出しながら白川が聞いた。”誰だ”ではなく”なんだ”と聞いた。突然現れて自分を痛めつけ始めたこの生き物が、人間だとは到底思えなかったのでそう聞いたのだ。

「耳障りな声で喋るな。耳が腐る。俺が何者かなど関係ない。お前はもうすぐ死ぬのだから、知っても意味のないことだ」

「は…はは…わか…たぞ…さては…おまえ…が…かおるちゃんの…けそうの…あいてだな…」

思いついたように白川がニヤニヤと言うと、途端に首を絞め上げる力が増した。

「グ…ガ…」

「慣れ慣れしくあの子の名を呼ぶな。汚れる。それ以上喋るなら喉を潰す」

緋村の瞳が燃えるように沸き立ったのを見て、白川は苦しさに呻きながらさらに笑みを深くした。既にあちこちの骨は折られ、内蔵もいくつか潰されている。これほど力の差があればすぐに殺すことなどたやすいのに、目の前の男は気が済むまで痛ぶってから始末しようというつもりらしい。つまりそれだけお怒りということだ。なぜそんなにお怒りなのかなんて、すぐに思い至ることができた。
薫が最近よく山に通っていたこと。誰かに心を明け渡していたらしいこと。

「か…おるちゃ…も…すきもの…だねぇ…こんな…ばけもの…に、けそう…するとは…おれと…かわらぬ…きぐるい…だ…グギャッ…」

そこまで切れ切れに喋ったところで、ゴキンという音がした。緋村が本当に喉を潰したのだろう。ゴボリと血液が白川の口から溢れ出る。ビクビクと痙攣する白川を冷たく見据えながら、緋村がもう片方の腕を振り上げた。

「もういい。死ね」

長い爪が白川の頸動脈めがけて振り下ろされる。しかしその爪が届く前に、緋村の腕を止めるものがあった。

「やめろ。あの子の前で、これ以上汚い現場を見せるナ」

止めたのは縁だった。一体いつの間にこの場に追いついていたのだろう。縁は緋村の腕を掴んだまま、小屋の方にクイと顎をしゃくった。

「あの子がぜんぶ、見ているゾ」

言われて緋村も小屋を見る。薫が扉に寄りかかったまま、こちらを驚愕の目で見ていた。
かわいそうに。丸い目がこぼれ落ちそうなほど見開かれている。
幾分気まずそうに視線を戻して、それでも緋村はぎりぎりと歯を鳴らした。

「…生かしてはおけない」

━━あの子に触った汚らしい手も、あの子の耳に入った気持ちの悪い声も、あの子の姿を見た濁った目も何もかも。この世から消してしまわなくてはならない。ちりじりに引き裂いて最後には燃やして、灰は固めて遠くの山にでも地中深く埋めてやる。この手の異常者は生かしておけば必ずまた誰かに害を成す。捕らえて罪を償わせるなどという概念ではどうにもできないこともあるのだ━━

「誰も生かしておけなんて言ってないだろう」

「…?」

ハハハと笑う縁に、緋村の力が少しだけ緩んだ。それに合わせて縁が白川の腹を蹴り上げる。

「ぎゃっ」

緩んだ緋村の手を離れて、白川の身体が飛んだ。そのまま地面に落ちた男の襟首を片手で大儀そうに掴んで持ち上げると、縁は丸メガネをくいと押した。

「俺が始末をつけてやろう。勘違いするなよ、お前のためじゃない」

そのままズルズルと引きずって。山の木々の中に向かいながら、縁はヒラヒラと手を振った。

「あの子に見せるには忍びないからナ。汚れ役は引き受けてやろう。お前は早くあの子を慰めて、せいぜい赦しを請うのに勤しめヨ━━」

そう言って縁は、ほとんど虫の息となった白川の身体をゴミのように引きずりながら木々の合間に消えた。

「……」

思いがけず獲物を取り上げられてしまって、緋村は少しの間ぼんやりと縁の消えた方向を眺めた。
縁が”始末をつける”と言うからには、本当に”始末をつける”だろう。そこには疑いの気持ちはない。もしかしたら緋村よりも更に惨いやり方かもしれない。
まだ青年期にさしかかったばかりの若い身空だというのに、縁は既に裏の世界では名をあげているようだった。詳しく日々の生活を聞いたことはないし、縁も自分がどんな暮らしをしているのかを語ったことはない。それでも、少ない会話の中にまじる不穏な気配から、どんな暮らしをしてどんな世界に身を置いているのかは薄々想像ができた。
緋村にはそれを咎める資格も意気込みもなかったので、何も言いはしなかったが。

「ひ…むらさ…わっ…」
「…!」

ぼんやりしているうちに、薫がよろよろと近づいてきていたらしい。両腕が不自由なので重心を崩し、転びかけている。
緋村は素早く駆け寄ってその身体を支えた。

「あ…ありが…とう」

小さな身体はひどく頼りなく、少し力を加えればパキリと折れそうな気がした。爪で素早く腕を縛っている縄を断ち切ってやる。薫はほっとしたように息を吐き、縄が食い込んでいたところを何度かさすると、緋村にぎゅうとしがみついた。

「あの…あの…ありがとう…助けてくれて…」

薫の丸い頭が胸元にある。肩が震えているので、たぶん泣いているのだろう。懐にじんわりと染みてくる暖かい湿った感覚に、緋村も泣きたい気持ちになった。

「もとはと言えば悪いのは俺だ」

ピクリと薫の肩が揺れる。もとはと言えば。そうだった。梅の小枝を差し出した手をこっぴどく振り払われて、メソメソと泣いて逃げ出したのが始まりだ。
緋村は助けには来てくれたが、まだ何かを怒っているかもしれない。何に怒っていたのか皆目検討もつかない。今この瞬間も、また手を振り払われたらどうしよう。そうしたら今度こそ薫の心は折れてしまう。振り払われる前に、自分から離れるべきなのだろうか。でも、今は到底しがみついた手を離すことなどできそうにない。どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。

「ぅ…ぅう…ふぇ…」

混乱する薫がついに涙だけでなく嗚咽を漏らし始めると、緋村は慌ててその小さな身体をぎゅうと抱いた。力加減が難しいが、迷っている場合ではない。

「すまなかった。俺が悪かった」
「う゛〜〜〜〜おごっでな゛い゛の゛〜〜〜」
「怒ってない。なにも怒ってない」
「なんで…なんっ…で〜〜っうぐっひっく」
「あとでちゃんと話すから…今はとにかく家に帰ろう」

薄い背中を必死にさする。抱き上げてあやし続けると、どうにか薫の嗚咽は小さくなった。首元ではまだぐずぐずズビズビと水音がするが、緋村はゆっくり歩きだした。
できるだけ慎重に、振動は最小限に。大きな動きは極力おさえて、素早く山を下る。陽が傾きはじめているので急がねばならない。

山を下りきるころには、薫は泣き疲れて眠ってしまったようだった。



***



━━東京湾に面したとある埠頭。その一角。
太陽は既に西の空に沈み、辺りは漆黒の闇である。
今夜は月も出ていない。小さな手持ちの明かりを掲げ、白髪の男━━雪代縁は機嫌よくささやいた。

「僥倖ぎょうこウ。今夜は船の出入りが無い。人払いの手間が省けて助かることダ」

縁の周りには影のように黒い中華風の装束に身を包んだ男たちが数人、大きな樽のようなものを転がしている。埠頭の端ギリギリまでそれを転がすと、男のうちの一人が丸く平べったい木のフタを縁に手渡した。

フタを受け取った縁は、手持ちの明かりを樽に向かって差し向ける。ぼんやりと浮かび上がった樽の中には、かすかにヒュ━ヒュ━と呼吸だけを繰り返す男が居た。顔は既に原型をとどめていない。元は整っていたのだろう造形は見る影もない。腫れ上がった鼻と口からかすかに漏れる呼吸がなければ、既に死んでいるだろうと思われる有様だ。
樽の中は灰色の物体で満たされ、固められていた。虫の息の男は首から上だけが出ている状態で、目は見えているのかどうか、耳も聞こえているのかどうか怪しかった。

「オイ、感謝しろよ。お前の身を固めているのは”セメント”と言ってな。この国じゃあ時代を先取りする最新の技術なんダ。海の中でも50年はもつ代物サ。間違っても浮かび上がったりしない。お前みたいなクズは魚の餌にするのも忍びないという、俺のココロヅカイだヨ」

縁がしみじみ説明すると、男は首を少しだけ揺らした。どうやら耳はまだ聞こえているらしい。

「……あ゛…お゛…ぅ」

潰れた男の喉から絞り出される声は言葉をなしていなかったが、縁はとたんに不機嫌そうに顔を歪めた。

「チッ…この後に及んでまだあの子のことを考えているのか。つくづく吐き気のする野郎だナ。耳が腐るからもういい」

カパリとフタを樽に乗せる。すると心得たとばかりに周りの黒装束たちが釘を素早く打ちつけた。

「……あ゛…お゛…ぅぅ」

樽の中で男はまだ何かを言っている。くぐもってただの呻きにしか聞こえないが、縁にはそれがなんなのか理解できていた。

「あの子が誰のものかはもう決まってるんだ。お前のようなゴミが頭に思い描くことすらおこがましい。せいぜい悔しさに悶えながら死ネ」

ガツン。

縁は躊躇いなく樽を蹴った。

ボチャンという音がして、樽はすぐに暗い海へと消えた。





モドル。 ススム。