晩夏の午後はじんわりと暑い。でも空気には秋の匂いが少しずつ漂い始めている。
外ではひぐらしが鳴いていて、昇りきった太陽の日射しは真夏ほど攻撃的ではないが確かな強さで降り注ぐ。

薫は自分の部屋の畳に寝転がり、先ほどから定期的に寝がえりを繰り返しては小さくうなり声をあげていた。

「う゛ー……」

額にはうっすら汗が滲んでいる。
ずっと止むことなく続く鈍痛に、眉間と肩には力が入りっぱなしだ。

「う゛ー……痛い……」

身体をくの字に折り曲げて下腹部を押さえる姿勢のままごろごろと畳の上を転がってみる。
なんとか気を紛らわせることはできないものかと、足を無意味にバタつかせてもみる。
それでも痛いものは痛かった。

「あ゛ーもー……苛々するぅ……予定より三日も早いじゃない……」

毎月毎月やってくる苦行は今月も休むことなく薫を苦しめていた。
運動はやりすぎるほどしているというのに、薫の生理痛はいつも重い。
おまけに周期も乱れがちで、思いがけず早かったり遅かったりするのだ。
体質なのかなんなのか。全くちっとも有難くない。

(弥彦大丈夫かしら、一人で出稽古行かせちゃったけど。まぁ大丈夫よねきっと。
 剣心は……遠くまで買い物に行くって言ってたっけ。帰ってくるのは夕方か…)

痛みに加えて、時折ぎゅうぎゅうと内臓を引っ張られるような不快感まで出てきた。 苦行も山場に差しかかったらしい。
吐き気が込み上げてきて、いよいよ気が遠くなる。

「あ゛ーー……きもちわる……」



カナカナカナカナと、ひぐらしが鳴いている。
ああ憎い。
ああ煩わしい。



身体を丸めたまま畳にうずくまる。

「うぅ……剣心が帰ってきたらお風呂沸かして貰おう……」

腹が痛いからといって別に死ぬわけでもないのだが、痛みに一人耐えるのは無性に寂しく人恋しくなるものだ。
剣心がいれば色々と気にかけてくれるし、八つ当たりしても笑って流してくれるのに。

(でもそういえば、最初の頃はあの人……面白いくらいあからさまに避けてたな……)

痛みと不快感で意識が薄れてきた。瞼が下がって行くのを自分では止めようがない。
眠りに落ちたのか気を失ったのかわからないまま、薫は諦めてだらりと手足を投げ出した。


━━ああそうだった……出会った頃は確かに、あの人は私を恐れていたのだ━━










赤 華











出会ってまだ間もない頃、一緒に暮らし始めたばかりの薫と剣心にとって何が一番の誤算だったかというと、 実は二人ともが全く相手を異性として正しく認識していなかったということだった。

そもそも年頃の娘が一人暮らす家に男を居候させるということが十分すぎるほど非常識なのであって、 その状態を易々と受け入れた時点で薫も剣心も、やはりどこか世間とはズレていたということになる。

もちろん薫の中では剣心に対する淡い恋心のようなものはあったし、剣心にしても庇護対象としての 少女という認識はあったのだが、言ってしまえばそれだけだった。
蓋を開けてみればどちらもが、お互いをきちんと“男”“女”とは認識できていなかったのである。


だから当然のように目が覚める日はやってきた。


剣心が家に住み着き始めてから暫く、弥彦が弟子になったばかりのある日のことである。






明治十一年、早春。
空気はまだ肌寒く、道場の床は冷たい。

正座をして弥彦の素振りを見ていた薫は、ピシリと手をかざして制止をかけた。

「そこまで。素振りはそのくらいでいいわ」
「……おう」

軽く息の上がった弟子は動きを止めて素直に頷いた。

「もう少し脇を締めて、竹刀の先がブレないように気をつけてね」
「わーってるよ、うるせぇな」

動きは素直でも口は一向に減らない。
とりあえず神谷道場に入ったとは言うものの、弥彦の態度は子生意気なクソガキそのものだ。
多感な時期の少年である以上ある程度仕方のないことではある。年の近い薫に教えを受けることをすんなりとは 受け入れられないこともわかる。わかるが、それとこれとは別だ。

薫の指示にいちいち反抗的な態度で返す弥彦に、 薫は目を細めて釘を刺した。

「弥彦あなたね、剣の道を志すと決めたなら、最低限の礼儀は弁えなきゃ駄目よ。
 『礼に始まり礼に終わる』と心得なさい。
 それが出来ずに恥をかくのはあなたなんだから。士族の出ならわかるでしょう。
 ここ(神谷道場内)ではいいけど、仮にも師匠である私に余所(他道場)でそんな口を聞くのは、許さないからね」

ピリリとした空気を感じ取ったのか、またも減らず口を叩こうとしていた弥彦はむぐむぐと口を噤み、コクリと小さく頷いた。
弥彦とて士族のはしくれだという自尊心はある。礼節の大事さは十分に知っている。
他の道場に行ってまで薫に対して不遜な態度を取れば、それが自分にも薫にも良くない評価を産むということはわかっていた。

「よし、じゃあ乱取りでもしましょうか」

空気を変えるように薫がパシンと手を打つ。

「おう!」

弥彦もまた気合十分の顔で元気良く応じた。

「じゃあ道場の端から打ち込み始めて、端に着いたら交代ね。最初は弥彦からでいいわよ……っ痛っ…!」

竹刀を取って立ち上がろうとしたところで、下腹に走ったツンとした痛みに薫が小さく呻く。 そのまましゃがみこむと、覚えのある感覚が太腿を伝った。

「…あ……ちゃー……」
「……? どうしたんだよ? 早く乱取りやろうぜ」

首を傾げている弟子に向かって薫は苦笑いを浮かべた。

「ごめん弥彦、今日の稽古はここまでにしよう」
「はぁ? まだ始めたばっかりじゃん。何だよ急に腹でも下ったのか?」
「うーん…下ったというか何というか…」

しゃがみこんだまま微妙な顔をしている薫に、弥彦は数秒考えてから「ああ」と頷いた。

「なんだ、お馬か」
「…!…あんた、よくわかったわね…」
「けっ、俺の母親が居たのは女だらけの遊郭なんだぞ、そのぐらいわからぁ」

照れるでも顔を赤らめるでもなくしれっと言ってのける弥彦に、薫はほっと胸を撫で下ろす。
妙に達観している所のあるこの弟子は、普通ならばおおっぴらに話題にできないはずのことも、 変に隠さずに明かせる相手であるらしい。それは性別の違う師弟関係においてはとてもありがたいことだ。

「わかった今日の稽古は中止な。早く厠行ってこいよ」
「うん、ごめんね」
「いいから早く行けって。んで痛みが酷いんだったら、大人しく寝てろ」



***



手当てを済ませて厠から出ると、薫はようやくほぅと息を吐いた。
相変わらず腹はチクチクと痛んでいて、身体はいつもの何倍も重たい。

(ここ何カ月か色々あって来てなかったから久しぶりだなぁ……
 そのせいかしら、なんかいつもより重い気がする……)

恐らく今の状態は序の口も序の口で、これから更に痛みもダルさも増してくるはずだ。
元々重たい部類に入る自分の生理痛のことを考えて、薫はげんなりと肩を落とした。

一体何だってこんなものがあるのだろう。まったく厄介なことこの上ない。
きっと二・三日は動くのも億劫に違いないし、山場の痛みと吐き気を想像しただけで憂鬱になる。
あの痛みに耐えている時は世の中全てが憎くて憎くて、手当たり次第に呪いの言葉を撒き散らしたくなるほどなのだ。

沸々と増してくるイライラと痛みに、どんどん眉間に皺が寄った。



廊下の角を曲がったところで、もう一人の居候に出くわしたことは良かったのか、悪かったのか。 出会いがしらにぶつかりそうになって、薫と剣心はお互いに「うわ」と声をあげた。

「薫殿、稽古は休憩でござるか?」
「ああ剣心、びっくりした。うん、今日の稽古は終わりにしたの」
「おろ、もう?」
「うん、そう、もう今日は終わりなの」

どことなくつっけんどんな態度になってしまうのは、ひとえに痛みと不快感で苛立っているせいだ。 もう今は、誰にも何もかまわれたくない。とにかく布団に倒れ込んで休みたい。
不機嫌な顔でそっぽを向いている薫に、剣心は不思議そうに首を傾げた。

「はぁ…そうでござるか…ではお茶でも入れようか」
「ううん、いらない。ちょっと部屋で休むから」

チクチクチクチク。痛みは続く。

「おろ、でも、妙殿に貰った茶菓子があるのだが…」
「いいの、あとで食べるから」

キリキリキリキリ。臓腑が軋む。

「でも…」
「いいから!今は何もいらないの!」

とうとう大声を出した薫が、ずんずんと歩き出す。面喰ったようにぽかんと口を開けていた剣心は、 しかし薫が横を擦り抜けようとした時にピクリと肩を揺らした。

「薫殿……どこか怪我を……?」
「は……?」

咄嗟に掴まれた腕と剣心の顔を交互に見て、今度は薫が訝しげな顔をした。

「どこも怪我なんてしてないけど……?」
「いやでも……」
「……?」



お互いに首を傾げながら見合うこと数秒。
最初に気が付いたのは剣心だった。唐突に目を見開き、パッと掴んでいた薫の腕を放す。
あっけに取られたような顔で後ずさりながら、彼は取り繕うように手で口を覆った。

「あ、いやその、すまぬ何でもない。拙者、買い物がまだであったからちと出かけてくるでござる」
「……うん…? そう、いってらっしゃい…?」


そそくさと離れていく剣心の背を見送りながら、薫の頭の中には疑問符がいくつも浮かぶ。
はて、あの奇妙な態度は何だろうか。
縁側から吹き込んで来る風が頬を撫でて、そこでようやく薫も気が付いた。
剣心が立っていたのは風下、自分が立っていたのは風上だ。

「あー…そういうことか…匂いでバレたんだわ…」

常人より目も耳も良い剣心が、鼻も良かったとしても不思議はない。
かすかに鼻孔に届いた血の匂いに反応したのだろう。

「やだもう……」

途端に羞恥の感情が襲ってきた。別に恥ずべきことではないことなのだが、 それでも気まずいのはどうしようもない。

それにしても、と、薫は考える。

あんな風に逃げるように立ち去らなくても良いのではないだろうか。

(あ、もしかして、血の匂いが嫌だったのかしら)

元人斬りが血の匂いを厭うなど今更すぎておかしな話だが、多分そうなのだろうと薫は思った。

(元人斬りだからこそ、嫌なのかもしれないわね……ようやく来た平穏な時代だもの。
 剣心の人柄を考えても、血生臭いのをあえて避けるのは当然だわね)

誰だって普段の生活の中でそんな匂いを嗅ぎたくはない。
まして過去に浴びるほど誰かの血を被ってきた彼が、今それを嫌っても仕方のないことだ。

(これからは気をつけなきゃ……)

はぁと大きく溜息を吐く。
痛む腹を抱えながら、薫はとぼとぼと自室へ歩いた。



***



太陽を背に、剣心は町への道を早足で進む。
自分でもどこに向かっているのかわからない。別に買うものなんてありはしなかった。

「困った…困ったぞ…」

ぶつぶつと独り言を漏らしながら歩く彼を、すれ違う人が不振な目でちらりと振り返る。

「…なぜ最初から…」

青白い顔で今にもフラリと倒れ込みそうな先ほどの薫の顔が頭をよぎった。
そして白い顔には全く似つかわしくない血潮の気配も。

ぞわりと背筋が粟立って、思わず立ち止まる。
ぐるりと世界が回った気がした。



「こんなはずじゃあ」



茫然としたまま呟いた声は、雑踏の中に小さく響いて消えた。









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