き-ちゅう【忌中】
人の死後、近親者が喪に服する期間(「日本語大辞典」)
春が来て季節が夏へと移り変わる頃、桜が散る。
風邪にふかれてひらひらと地に落ちていく様も美しいと、それもまた風流だと、
散り際が潔いから良いのだと、思う者もいるだろう。
暗い部屋の布団に横たわっていた薫は、いつまでも訪れない眠りに少し苛々しながら寝返りをうった。
眠れないから苛々するのか、苛々するから眠れないのか、原因と結果ははっきりしなかったが、
何故か昼間の事がぐるぐると頭をまわって、眠ろうとする意識を許さなかった。
出稽古からの帰り道、絡んできた男を竹刀で打った。
(私は何も、間違ってない。)
最初に刀を抜いたのは向こうだった。
(私は竹刀しか持ってなかった。)
相手はたいした腕じゃなかった。
(刀を抜くっていうことは、それだけの覚悟があるってことでしょ?)
隙が出来た相手の首を、力いっぱい打った。
(あの場合ああするのが一番手っ取り早かったのよ。)
瞬間的に湧いた怒りに任せて。
(絡まれたんだもの。怒って当然よ。)
絡まれたからではなく。
(いいえ、絡まれたから。)
あの男があまりにも、
(私は自分の身を守っただけだわ)
あまりにも軽々しく、
「違う。私は間違ってなんか、いなかった」
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一体それ以上左之助に何が言えただろう。
目の前の縁側に腰をおろしている剣心は、もう全てを決めてしまっているようだった。
今更後悔することも、何かを言うことも、十分身勝手なのだとわかっていてそれでも敢えて左之助が悔いる言葉を口にしたのは、
剣心自身が感じるであろう良心の呵責が、最後の砦になるのではないかと、かすかな希望を持っていたからだ。
それももう、望めないだろう。
「おめぇは馬鹿だ。嬢ちゃんもおかしい。俺たちはもっと馬鹿だった。
でもここまで来たならもう、好きにやったらいい。もともと俺が、どうこう言えることじゃねぇんだ。
これからおめぇら二人がどうなるのか、何年先何十年先にどんな風になるのか、誰にもわからねぇから。
幸せだっていうなら、それが幸せなんだろう。」
最後にもう一度大きく息を吐いて、左之助はくるりと背を向けた。
門に向かって歩きながら、帰りは桜の咲いている道を歩こうと思う。
散る桜を見ていこう。
そして酒でも飲んで、悼むのだ。
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襖をゆっくりと開けると、雲間から差し込む月明かりが部屋の中に細長い光の線を描いた。
薫はまだ起きていて、布団の上に足を投げ出したまま座っている。
先程まで横になって何度も寝返りをうっていたせいか、おろした髪はぐしゃぐしゃに絡んでいた。
するりと剣心が部屋の中に入り込むと、薫はぼんやりしたまま顔を上げた。
「剣心。私は、持っていたのがもし真剣だったら、それでも迷わず刀を振り抜いていたと思う?」
近づく剣心には視線を向けることなく、薫は空を見つめたまま問いかけた。
すぐ横に両膝をついて座り込んだ剣心は、静かに薫のもつれた髪を梳かす。
「それはわからないよ、薫殿。
刀なんて抜きもしないかもしれないし、有無を言わさず首を刎ね落とすかもしれない。
薫殿自身にしかわからないことだ。そして薫殿自身にしか決められないことだ」
諭すような声は、ひっそりと部屋の暗闇の中に落ちていった。
薫が顔を動かすと、髪を梳かし続けていた剣心と視線が合う。
黒々とした目と少し色素の薄い目がかち合うと、数秒の沈黙が流れた。
「私はもしかして変わった?もしかして、少し、駄目になった?
そして剣心はそのことをわかってた?」
言いながら薫は両腕で剣心の着物の袖を掴み、拳が白くなるほど握り締めた。
みるみるうちに目には涙が溢れ、両頬を伝っていく。
「私は最近少しおかしいって、自分でわかってる。凄くいらいらするの。
道場で竹刀を振ってても、出稽古に行っても、いつも何かに腹を立ててる。
ねえ剣心、剣術って何だろう?人を斬るつもりもないのに、竹刀を振るって、何だろう?
人を斬るってことを知らないのに剣を持ってた私って、一体何だろう?」
何かに追い立てられるような問いかけは、剣心の眉を一瞬だけ歪ませた。
荒い息をつきながら涙を流して凝視している薫の目には、混乱の中に少しの絶望が見え隠れした。
剣心は袖を薫に握り締められたまま、静かに口を開いた。
「こんな風に、薫殿が迷う時がくるかもしれないということは、もうずっと前からわかっていたよ。
俺が此処に居れば、そうならない方がおかしいんだ。
俺がどんなに、周りがどんなに、活人剣は素晴らしいと言っても、
それに水を差すだけのことを、俺はしてきてしまったから。
『人を活かす剣だなんて甘っちょろい』と、思ったのも本当だ。
ひたすら明るく前を向いている薫殿を、少しだけ鼻白んだのも、本当だ。
それでも俺は、此処に居ることを選んだよ。そして薫殿も、選んだ」
目を見開いて聞いている薫の目からは、流れる涙は止まっていた。
剣心は緩んだ薫の手をゆっくり外すと、また手の指で薫の髪を梳かし始めた。
「なんと利己的な男かと笑うかい?
それでも別にかまわない。俺はもう決めてしまったんだ。もう決めてしまった。
今更俺をどう思っても、それは詮無いことだ。今更なんだ。
俺を遠ざけようと思うなら、いくらでもその機会はあったはずだ。
でも薫殿は、俺を選んでしまった。
たとえ何が起ころうと、俺のせいで薫殿自身が少しずつ息絶えていくことになろうと、
そんなことは知ったことじゃぁ無い。そんなことを気に病む時期はとっくに過ぎてしまった。
薫殿が死んでしまおうとも、俺はあなたの視界から消えることは無いだろう」
それは酷く観念的な問題で、かつ意識の上での話しだったけれども。
薫には悲しい宣告であると同時に、この上ない告白でもあった。
剣心は紛れも無く、自分の意思で選んだのだと言っている。
そしてそれを悔やむ時期は過ぎてしまったと。
ならばどうして薫自身が、悔いることができるだろう。
どんなにこれまでの自分を消していくことになっても、
それでもこの剣客を手放すことはできないのに。
再生と死を、繰り返す。
これからも何度も。
薫は静かに目を閉じた。
死んでしまった自分自身を思いやると、ほんの少しの喪失感が胸をかすめる。
今はまだ、偲ぶ気持ちが大きいけれども。やがてはそれも無くなるだろう。
桜の花が散り終わる頃、
この忌中を抜けたら。
きっと。
振り返ることもせずに、生きていく。
誰かが消えて誰かが泣いた。
剣心は笑いそして。
薫は薫自身の死を悼んだ。
了
忌中