夜の匂いが濃い。
まるで夏のように夜の気配が濃く、風に乗ってほのかに鼻に届く花の香りだけが、
かろうじて春だということを示しているようだ。
左之助は重苦しい気分を抱えながら、神谷道場の門をくぐった。
「嫌な感じだ」とは思いながら、それでも自分はここに、来なくてはいけなかっただろうと思う。
縁側に剣心は居た。
暗い中から現れた左之助に驚きもせず、柱に寄りかかって座っている。
ぼんやりと自分の方を眺めている剣心を見て、左之助は軽く舌打ちをした。
恐らくこの男は、自分がここに来ることも、その理由も、わかっていたに違いない。
「よう。無用心だな。門、開いてたぞ」
「お主が、来るだろうと思って」
ああそうかい、とぼそりと言って、左之助はガリガリと頭を掻いた。
もう何を言うのも嫌だった。出来れば知らぬふりで、このまま来た道を引き返したい。
自分が何を言ったとて、何も変わりはしないだろう。
今更。それでも。
「嬢ちゃんたちは、もう寝たのか」
大きく溜息をつきながら、左之助はそっけなく聞いた。
この家の何処にも灯がともっている様子は無く、物音一つしない。
月も出ていることには出ていたが、生憎と雲がその光をほとんど覆っていた。
「ああ、もう寝たよ。ここのところ出稽古続きで疲れが溜まっているらしい」
「出稽古、ね」
弥彦の言葉が頭をよぎった。『アイツの稽古、前より数段、荒いんだ』。
「嬢ちゃんはますます男っぷりに拍車がかかってるそうじゃねぇか。
さすがの弥彦もビビるぐれぇにな。嘆いてたぞー?『怖い』って」
カラカラと笑いながら、左之助は言った。茶化すには、正しくない話題だとは知りながら。
剣心は首を傾げて、さも何のことかわからないという様子でいる。
「さあ・・。拙者は出稽古のことについてはよく知らぬから。
薫殿がどのような稽古をしようとも、拙者にはあずかり知らぬことだからね。
弥彦が『怖い』と言うのなら、さぞ、身の縮むような稽古なので御座ろうなぁ」
軽く肩を竦めながら、剣心は笑う。
ぽやぽやと話題を交わすのは、この男の得意技だ。
左之助はいよいよ挫けそうになった。
(ああヤダヤダ。だからコイツは嫌なんだ)
そもそも。言って通じる相手でもないだろうに。
どうして自分はこんな厄介な男を相手に、厄介な話しをしようとしているのか。
それでも言わなくてはいけないだろう。形だけでもの忠告とやらを。しなければ。
「嬢ちゃん、絡まれたらしいな。酔っ払いに」
それまであくまで穏やかだった剣心の空気は、一気に冷めたようだった。
それみたことか、と、左之助は思う。
核心を突く話題をするには、それなりの勢いというものが要るわけで。
それもこんなデタラメな男を相手にこれから自分は説教まがいのことをしようとしているのだ。
この道場の家主のこととなると少しも融通がきかなくなることは嫌というほど知っているのに。
何処を見ているのかは相変わらずわからない剣心の視線が、
夜の空気をじぐざぐに縫って自分を威圧しているのがわかる。
ぞわぞわと背筋が粟立った。
「そのようで御座るな」
だから何だ?というような剣心の声が、左之助には途方も無く憎らしく思えた。
「叩きのめしたらしいじゃねぇか。やるねぇ、嬢ちゃんも。
相手の刀がかわしきれなかったとかなんとかブツブツ文句言ってたぜ。
いっぱしの剣客らしいじゃねぇか」
「ああ。幸いほんのかすり傷で良かった。今後はあまり無理をせぬようにと言っておいたで御座るよ」
まったくお転婆で困るで御座るなぁ、と、目の前に居る赤毛の男は緩く笑っている。
左之助はまた大きく溜息をついて頭をガシガシと掻いた。
━━━埒があかない。
「・・・なあっ、おめぇわかってんだろ」
苛々と声を荒げる左之助を、剣心はゆっくりと見上げた。
「嬢ちゃんは変わってきてる。おめぇに影響され過ぎてる」
剣心は何も言わない。ただ左之助を瞬きもせず見ているだけだ。
「嬢ちゃんを殺したのは、殺すのは、おめぇだろうが」
「薫殿は、生きている」
「とぼけんな。あの、嬢ちゃんの顔を、見ただろう」
『後ろ首に竹刀で一発叩き込んだら簡単にのびちゃったから。
そのままほったらかして帰ってきちゃったけど?』
そう言った時の薫の顔を思い出して、左之助はゾッとした。
あれが。あんなものが。
17歳の少女の顔でなどあるものか。
もし。薫がその時握っていたのが竹刀でなく。
もし。その時薫の左手にあるものが竹刀でなく。
真剣、だったなら。
それでも薫は、迷いなくその刀を抜いて相手の首を切り落としていたに違いない。
「なあ剣心。『神谷薫』はこれからもどんどん死んでいくぞ。
『緋村剣心』と自分の生き方の違いに無意識に苦悩しながら、じわじわと腐っていく。
お前にそのつもりがなくても、嬢ちゃんにそのつもりがなくても、だ。
『そんなことはあり得ねぇ』と言い切れるか?嬢ちゃんはそこまで強く、清冽な人間か?
それこそあり得ねえことだ。
お前はそれが、もっとずっと前からわかっていたんじゃねえのか。
わかっていながら此処に留まった。俺たちにも非はあったさ。それは否定しねぇさ。
今となっては俺は後悔するほかねぇ。いや、後悔することが正しいのかもわからねぇ。
お前を此処に、引き止めるべきじゃなかった」
それは左之助の、精一杯の独白であり、懺悔でもあった。
肩で息をしながら、ああ言ってしまった、これで良かったのかどうかと、左之助は眉を寄せる。
『神谷薫』と『緋村剣心』は、自分たちにとって、弥彦や、恵にとって、何か途方も無く美しいものの象徴のようだった。
緋村剣心が流浪を止めて、ここを終の棲家と決めて、そして薫と一緒に生きる。
数え切れない苦難と逆境があって、それでもそれを乗り越えて、最後には幸せになる。
そんな夢のような話が、あったかもしれないことは事実だった。可能性の、一つとしては。
しかし自分たちは大きな、大きな間違いに目を瞑ってしまっていた。
緋村剣心も神谷薫も、生々しいただの人間だった。
美化したり、偶像化したり、そんなことが許されるわけではなかった。
ああ。それなのに。
「今更、だよ左之。今更、だ」
静かに口を開いた剣心の言葉は、左之助にとって、最後の砦ともなる希望を真っ二つに砕くものだった。
「薫殿は確かに、これまでのただただ前向きで吐き気がするほど明るい娘ではなくなっただろう。
竹刀を握るときには、人を斬るとはどういうものかを常に考えるだろう。
機会が機会なら、人を殺すこともあるかもしれない。しかしそれがどうした。
それは彼女が選んだ選択の結果だ。
彼女がどうなろうと、それは俺が彼女から離れる理由には、もうならないんだよ」
嗚呼。と。呻いて左之助は頭を抱えた。
世の中には、取り返しのつかないことが、確かにある。
「おめえはそれが、それで、幸せなのか」
左之助は最後の抵抗を試みた。返ってくる答えを、半ば予測しながら。
今まで見たこともない笑顔を見せる剣心の口から、微かに声が漏れた。「言わずもがな」と。
左之助はまたもガシガシと髪を掻き毟り、苛立ち、そして諦めた。
「おめぇら本当に、馬鹿なんじゃねぇの?」
誰かが死んで誰かが泣いた。
彼は笑いそして。
誰かが誰かの死を悼んだ。