顔のすぐ横に見えた刀の影を、後ろに身を引いてかわした。
誰かが死んで、誰かが泣いた。
喉の前を切っ先がかすめていく。紙一重の距離なのに、全く危なかったという気がしない。
目標を外れて空を切った刀は持ち主の体勢を大きく崩し、
自分の目の前には隙だらけの身体だけが残された。
抜刀したそのままの勢いで切り付けたというのに、
私が知っている抜刀術とのこの速度の違いは何だろう。
ふざけてるのかしら?とちらっと思って、
でも攻撃をかわされてカッっとしている相手を見てそうでもないんだと思い直す。
可笑しくてつい笑ってしまう。そんなに身体は大きいくせに、刀に振り回されてどうするの。
ガラ空きの顔に、挑発するように持っていた荷物を軽くぶつけてやった。
「・・・っの、アマぁ!」
ますます頭に血がのぼったらしい相手は、刀を両手で持ち直して振りかぶった。
だから、そんな大降りは子供だってかわせるっていうのに。
頭上から振り下ろされる剣線を、今度は左に避けてかわす。
またも勢い余って前に傾いた相手の身体が、自分のすぐ右側にあった。
すぐ横に、あったから。
咄嗟に沸いてきた苛立ちを、抑える間もなく。
左に持っていた竹刀を右手で抜いて、その男の首に思い切り打ち込んでしまった。
ドサリ。と、男が派手な音を立てて地面に倒れる。
どうやら気絶したらしく、地面に蛙のように倒れたまま、男は静かになってしまった。
思いのほか綺麗に決まってしまった自分の一撃に驚いて、暫し倒れた男を見下ろす。
「まさか死んじゃいないわよね・・・」
竹刀で後ろ首を打たれたところで、簡単に人は死ぬわけじゃない。
まぁ、いいか、とふんぎりをつけて、くるりと背を向けて歩き出した。
そうよ。私は家に帰る途中だったのよ。
とんだ道草を食ってしまったじゃない。
沸々と沸いてきた怒りでブツブツと文句を言いながら、
家路を急ぐ。
ふと、自分の右手を見て思った。
いつからこんなに、私は容赦が無くなってしまったのだろう。
*********
「あ?なんだそれ。その首。どうしたんだ?」
いつものように食事をたかりに来ていた悪一文字男は、
帰ってきた薫の姿を見とめると、サッっと顔色を変えた。
見慣れた剣道着姿の剣術小町の首筋には、細く赤い血の筋が一本出来ている。
「ぇえ?首?」
怪訝そうに自分の首に手をやった薫は、微かに手についた赤い色に、「ああ」と苦笑した。
「帰ってくる途中でね。ちょっと絡まれたのよ。酔っ払いに。
女ごときが剣術ごっこか、とか何とか言うから、
おたくの腰に挿してあるものよりは私の竹刀の方がよほど役に立ちますよって言ったら怒って切り掛かってきて」
まるで事も無げに薫が話すと、左乃助は少し呆れたようだった。
「上手く避けたと思ったんだけどなぁ。掠ってたみたいね」
首の皮一枚が薄く切れただけの傷は、だからといってどうという訳でもない。
たいした痛みも無く、薫は無造作に擦って血を拭い去った。
てっきりかわしきれたと思っていた一撃がちゃっかり自分の首に傷をつけていたのだと思うと、
それだけが悔しい。
あの時の自分の奢りにも似た余裕が、滑稽だと感じた。
例え酒が入っていなくてもたいした腕でも無いだろうと今でも容易に想像がつくのに、
そんな何でもないような相手から、小さいとは言え、傷を付けられたことが嫌だった。
いつも自分は、ツメが甘い。
それは自分がまだ若いからとか、
女だからとかいう理由で世間一般には片付けられるのだろうと思うと、
腸が煮えくり返るようだった。
「私もまだまだ、なんだなぁ」
ボソッと口をついて出た言葉は、傍らに立つ悪一文字男にも聞こえたらしく。
怪訝そうな顔をして、左之助は薫を見下ろした。
自分よりも頭一つ分低いその少女は、ブツブツと何かを言いながら、
不機嫌そうに首を擦っている。
「んで?その酔っ払いはどうしたんだ?」
左之助は話しを戻して、ふと気になったことを尋ねた。
一番肝心なことなんじゃないかと思う。
酔っ払いに絡まれて、それで?
まさか走って逃げてきたわけでも無いだろうが、今、薫は此処に居る。
え?と振り返った薫は、ああ、と頷いて、さらりと答えた。
「後ろ首に竹刀で一発叩き込んだら簡単にのびちゃったから。
そのままほったらかして帰ってきちゃったけど?」
***********
台所では、剣心がいそいそと夕餉の準備を整えていた。
襷がけをした着物の袖からは二の腕がのぞき、
野菜でも洗っていたのだろうか、その手と腕には、水滴がいくつもついている。
手際よく動き回る背中では長く赤い髪がゆらゆらと揺れ、
大きく屈むと時折前に垂れてくるその髪を、邪魔そうに払っている。
「ただいまー。剣心、ご苦労様」
竹刀と防具を持ったまま台所に顔をだした薫は、剣心の背に向かって帰宅の挨拶をした。
「おかえり。薫殿」
剣心はちらりと振り返って、にこやかに返事を返すと、すぐまた作業に戻った。
薫が帰ってきたことにはとっくに気がついていたのだろう。
それよりも今は夕餉の準備が優先だと言わんばかりの剣心に、薫は苦笑を漏らした。
手の込んだ料理に集中しだすと、薫はあまりかまって貰えない。
特に不満はなかったが、何もそんなに料理一つに意気込まなくても良いのに、と、
薫は常々思っている。
そのおかげで日々味の良い食事にあやかっている自分が、言えた義理ではないけれども。
「左之は、どうしたので御座る」
黙々と手を動かしながら、剣心がそういえばという風に、薫に訊いた。
「さっきまで『飯はまだか』とうるさくしていたのだが、帰ってしまったので御座るか?」
「帰った」ということを断定的に言う剣心に、薫はまたも苦笑した。
この家の中に居る人間の気配ならば、この男が感じ取れないはずはない。
剣心の感覚の中から左之助の気配が消えたなら、それはもう、この家には居ないということだ。
剣心が薫に訊いているのは、帰ったのか帰っていないのかということではなく、
どうして帰ったのかという、理由の部分である。
(わかりにくいんだから)
最初から「どうして左之助は帰ったのか」と訊けば良いのに、と、
薫は苦笑しながら答えた。
「うん。なんだか、私と玄関で会って少し話したら、
急にビックリしたような顔をして、出て行っちゃった」
え?という顔で振り返った剣心に、薫も首を傾げて目を合わせた。
「なんだろうね。ま、居ないなら居ないでいいんだけどね」
タダ飯食らいが居ないなら、それに越したことはないだろうと、
薫は笑いながら言う。
その薫の顔をじっと見ていた剣心は、手にしていた包丁をコトリと置いて、
するすると薫に近づいてきた。
一体何事かと身を引きかけた薫の側にあっという間に距離を詰めると、
剣心の右手が、薫の首に伸びた。
「・・っ」
水を扱っていた手は、ひんやりと冷たく、薫は小さく呻く。
「この傷は?」
薫の首筋にうっすらと残る一筋の傷に触れるか触れないかの所を、
剣心の指が辿った。
塗れた手から水滴が伝って、薫の首を落ち、流れていく。
薫は先刻の左之助との問答をまた繰り返すのかと思うとうんざりしたが、
特に隠すことでもないし、隠してもどうせこの男にはバレてしまうだろうと、
ため息を一つ吐く。
出来れば話したくないことだとは、思いながら。
「帰ってくる時に、酔っ払いに絡まれて、ね。」
その先を促す剣心の目が、探るように薫を見た。
そういう剣心の目は、薫は少し苦手だった。
目に見えないものを見ようとしている、その目が。
薫が気がついていないことまでも、知り得てしまうだろう、その、目が。
彼は笑いそして。
私は私自身の死を悼んだ。