“たったひとつ”であることが、悪いことだとは思わない。
ましてそれが悲しいなどとは露ほども。
ただ、ひとつしかない故に、一度きりであるがために、
自分が盲目になったというのなら、それは少しだけ虚しいことかもしれないと、薫は思う。
わが恋はひとつにして寂し
厳密にはただひとつなどではないのかもしれないが、
幼い頃の淡い初恋などものの数にも入らないというのなら、
身動きできないほど好いてしまったという点で、
やはり剣心は薫にとって“ただひとつ”に違いなかった。
後にも先にも、恋と呼べるものはこれだけになるだろう。
そのこと自体に何ら不満はなかったが、別のことでは多少の不満があった。
不満というほど大げさではないかもしれない。
誰に非があるわけでもなかったし、解決されるようなものでもなかった。
だからこそ、あからさまに吐き出すことが出来ない分、
それはシトシトと降り続く長雨のように胸に淀みを作っていくような気がした。
前の晩から降り続いた雨は止む気配もみせず、雨音を響かせている。
いっそ嵐のように勢いよく降っていれば、余計な物思いに沈むこともないだろうが、
風がほとんど無いせいか、静かに立ち込める雨音がよけいに静寂を強調した。
こんな日は訳もなく気が滅入る。
誰も居ない茶の間から外を見つめながら、薫は細く溜息をついた。
愛息子はここのところ他道場での稽古に忙しく、昼間家に居ることの方が珍しい。
稽古ならばここですれば良いのにと思うのだが、他所に飛び出して行きたい年頃なのだろう。
あれやこれやと理由をつけては、周辺の道場を渡り歩いている。
社交的と言えば社交的、息子に受け継がれてしまった性格に心当たりのある薫には、
特別たしなめることも出来なかった。
まあ、人見知りの激しかった幼い頃を考えれば、自分から外に出て行けるようになったのは喜ぶべきことなのだろう。
普段ならこの神谷道場でも賑やかな稽古が行われているはずだったが、
あいにくと今日に限って師範代たちが私用でおらず、それならばいっそと、
稽古自体を休みにしてしまっていた。
そして夫である剣心も、今日は朝から出かけている。
何でも少し離れた市場まで、薬草を買いにいくらしい。
剣路が生まれるのと同時期に剣心が始めた薬の調合は、始めこそ趣味の域を出ないものだったが、
数年もすれば日常的にかかる疾病への薬ならば、朝飯前で作れるようになってしまった。
もともと薬剤についての知識が多少はあったのだろう、
本格的に勉強を始めてからはそれこそ水のように知識を吸収し、
会津から遊びに来た恵が太鼓判を押すのにも、それほど時間はかからなかった。
それまで暇つぶし程度に薬を作っていた剣心も、
要望があれば徐々に外からの注文を受けるようになった。
大仰に薬の卸売りなどをしているわけではない。
近所の人が熱を出したと言われれば解熱の薬を作り、
風邪で咳が止まらないと言われれば咳止めの薬を作る、その程度である。
時には神谷家のかかりつけのようにもなっている老医師に頼まれて、
常用しておくための簡単な薬剤を調合することもあった。
今回もそんな依頼のための材料を買いに行くのだろう。
薬の材料といえばどこにでも売っているわけではないから、
買いに行く時は毎回遠出をして結局一日がかりになることがよくあった。
だからこの家に薫は今、全くの一人である。
鬱々とした思考に一人で浸りきっていても、咎めるものも居なかった。
幸せかと問われれば、間違いなく幸せだと答える。
満たされているかと聞かれれば、自信を持ってそうだと言ってきた。
そうでないはずがなかった。
夫が居て、息子が居て、弟子が居て、家がある。
紛れもなく自分が望んで手に入れた。
それこそ必至で手に入れたのだ。
剣心が髪を切ったとき、何故か悲しかったのを覚えている。
ある日稽古を終えて戻ってみると、長かった髪は跡形も無く消えていた。
切り落とされた赤毛は無造作に、縁側の床に散らばっていた。
ちょうど片付けようとしていたところだったのだろう、
呆然と自分を見つめる薫にばつが悪そうな苦笑を向けながら、
「けじめをつけたんだ」と、剣心は言った。
その時の鈍い心の痛みを、薫は今でも忘れていない。
切り落とされた髪はまだ、薫の手元に残っている。
片付けるのは自分でやるからと遠慮する剣心を追いたてて、
誰も居なくなった縁側で、散らばる髪を一つ残らず拾い集めた。
懐紙にくるんだそれは、今も薫の箪笥の引き出し奥深くに、
丁寧に保管されている。
剣心は恐らく知らないだろう。
「けじめをつけた」と、言われたあの時。
短くなった髪を確認するように触れながら、苦笑を浮かべた剣心の目に。
境界線を引かれたのだと思った自分は、あまりにもひねくれているだろうか。
決別しなければならなかった過去とそれに付随する記憶に。
「触れてくれるな」と言われたように感じた自分は、
ただの被害妄想だろうか。
単なる憶測にすぎないが、きっと剣心自身の中では、
人生が2つに区分されているのだろうと思う。
幕末と、それ以降に。
そのどちらもが、ひっそりと心の中で息づいている。
そして薫には、決別しなくてはならない過去などは無かった。
これまで生きてきた道は紛れも無く一本の線で繋がっており、
全てが一つだけだ。
悪いことだとは思わない。悲しいなどとも思わない。本当に。
それでも時折、自分にとって剣心が「ただ一つ」であるが故に、
他の何処にも気持ちのやり場が無くなってしまったのだと、
そう考えてしまうこともある。
箪笥にしまわれた髪の束。
何度も捨ててしまわなければと思いながら、
どうしても捨てられなかったもの。
決して手の届かない記憶。
ああ寂しいのだ、と、薫は思う。
憤っているのでも、悲しいのでもなく。
ただそこにある事実がやりきれなくて、そして自分はとにかく寂しいのだと。
そろそろ剣路が帰ってくるだろう。
どうせ傘など持って行かなかっただろうから、
きっと濡れ鼠になって駆けてくるに違いない。
物思いは打ち切る頃合だ。風呂を沸かしてやらなくては。
その前に温かいお茶を入れてやるべきだろうか。
卓袱台に手を突いて立ち上がろうとすると、
手の上に冷たい滴が落ちた。
それは続けてパタパタと2滴ほど落ちたけれども、
薫は気にせず立ち上がった。
了