花が咲き零れるような━━━などと
そんないかにもありきたりな表現で済まされるような笑顔だったなら
少しは救いがあったのかもしれないと。
しかしそこまで世界は単純ではなかったが為に
また私が幼くもなかったが故に
ありとあらゆる意思疎通の方法の中で
一番明快で確実なはずなそれだけが
私にとっては一番、疑い深いものになりました。
なんと哀しいことでしょう。
なんと虚しいことでしょう。
もしそれが信じられたなら
それこそを、信じられたなら
君は言葉を信じない
私と彼が交わす会話の中の一体どれほどが、
彼の中での真実もしくは曇りない本音なのだろうと考えて、
きっと半分にも満たないんじゃないかという惨めな回答を導き出すことに、
いい加減私はうんざりし始めていました。
人は多かれ少なかれ嘘をつくものではありますが、
神谷薫の周囲に居る人間の中で誰が一番嘘つきかと問われれば
恐らく答えは緋村剣心ということになるでしょう。
勿論、「そんなことは無いはずだ」と、
彼を良く知る人ならば口を揃えて言うだろうことがわかりきっているだけに、
これは私が心の奥底だけでひっそりと思うだけの、
誰にも知られることのない思考だったはずなのです。
もしもあの、今は会津という遠い地で必死に医療に従事しているだろうかの女医に、
剣心に並々ならぬ思慕を寄せながらも「潔く」身を引いて去って行った彼女に、
「剣心は嘘つきだ」などと言ったなら、
有無を言わさず張り手が飛んできて散々に窘められるだろうことが、
私には容易に想像できました。
それはこの道場の一番弟子として日々剣の稽古に励む少年についても
多分同じような反応が返ってくるだろうと、私は思っています。
なんと言っても剣心は弥彦の憧れなのです。
「最強の剣客」への無条件の信頼が、弥彦の目を覆ってしまっていても、
それは仕方のないことでしょう。
自分の憧れの存在を侮辱するのかお前はと、
逆に私のほうが蔑まれることにもなりかねませんでした。
もしかしたら。
今はもう日本には居ない、あの悪一文字男ならば、
あるいは私の意見に賛同してくれたかもしれません。
傲慢不遜でささいなことにはいかにも無頓着そうな左之助が、
意外にも人の心の機微には敏感であることを、私は知っていました。
しかしいくら左之助ならばわかってくれるかもしれないと思っても、
それは少しも私の励ましにはならなかったのです。
所詮この国には居ない者です。
居ない者には何も期待などできないし、してもいけなかったのです。
はたして今のこの生活は、緋村剣心が心底望んでのものなのだろうかと、
私の懸念はその一つに尽きました。
来る日も来る日も食事をつくり、衣類を洗い、また食事をつくり、薪を割る。
平凡で平凡で、やはり平凡な生活です。
いいえ平凡なことが悪いなどとは、勿論考えてはいませんでした。
平凡なだけの生活だったわけでは無いことも、わかっています。
時には人助けのために足を伸ばし、自らの力を存分に発揮する機会が
少なからずあったことも事実です。
私が気がかりだったことは、「平凡」だったことではないのです。
決してそうではありません。
それはとても言い表し難く、伝えることは非常に困難なことに思えます。
うまく説明などできません。
あえて言葉にするのなら、
この場所に留まること、それ自体が、はたして緋村剣心の望みだったのだろうか、と。
もし「幸せか」と尋ねれば、間違いなく「幸せだ」という答えが返ってきたでしょう。
しかしそれは剣心の無意識の領域においても同様に望まれたものだと、
一体どうやって証明できたでしょう。
剣心自身が「望む」ことを放棄していたら?
もしくは「望む」ことを戒めているとしたら?
━━ご飯のおかわりは?
━━いや拙者はもうたくさん
━━お風呂先に入ってきたら?
━━薫殿が先にどうぞ。
━━何か、欲しいものは?
━━いや、何も。
恐らく彼自身が自らの望みに蓋をしてしまっているという仮定においては、
彼が彼の望みに気がつくことは無く、
真実はたとえ彼自身の口からであっても、聞くことは出来なかったに違いありません。
私は全てを疑い始めました。
ええ、愚かにも、疑うことをやめられなかったのです。
日常的に繰り返される会話の一つ一つに。
他愛もないおしゃべりの、そのふっと気が抜ける心地よさの直後でさえ、
私は卑しい疑心暗鬼の心を、常に隠し持っておりました。
ああ本当に、なんと愚かだったことでしょう。
緋村剣心という人間が、そのことに気がつかないわけなどないというのに。
一体いつから、私自身が私を偽りだしたのか、
今となってはもう思い出せません。
そしてそれに気づいた剣心が、
いつからあんなふうに笑うようになったのかも、
やはり思い出せないのです。
哀しくも優しい剣心は、
決して私を責めようとはしませんでした。
それどころかさらに労わるような慈しみでもって、
私に笑いかけようとさえするのです。
その労わりの心さえも、私が疑いの眼差しで見ていることを知っても、なお。
なんとか彼の本音を引き出そうと、私も随分と無茶なことをしたりしました。
時には本当に、本当に酷いことを、したこともあります。
およそ普通の人ならば耐え難い屈辱であったに違いないのに、
それでも彼は笑うのです。
私に笑いかけるのです。
哀しくも、心優しい剣心。
彼は嘘つきなわけではないのです。
ただ「嘘がつける」だけなのです。
誰かを気遣う結果であったり、誰かを慰めるためであったり、
誰かを守るためであったり。
例えば私が「これとこれではどちらが良いか」と尋ねれば、
剣心は「どちらも良いし、どちらでも良い」と答えるでしょう。
私と交わす会話において、どちらかを選択するのは常に私でなければならず、
決して剣心であってはならないのです。
彼の中で明確な希望や選択らしきものができていたとしても、
彼自身がそれを抹殺します。そこに躊躇いや虚しさは一切ないのでしょう。
何故ならそれこそが彼の人格そのものであって、
緋村剣心という人間を構成する全てだからです。
幼い頃。
私は言葉を手に入れました。
意思を伝えるための有用な手段として、
また紛れもない知能の発達の産物として。
そして言葉を手に入れるかわりに、
今この手に掴み取りたい真実の行方を、永遠に見失ったのです。
━━何も信じていないのは、剣心の方ではないか。
それはなんと傲慢で、自己憐憫に満ちた考えだったことでしょう。
しかし愚かな私はそうすることでしか、自分の気持ちに折り合いをつけることができませんでした。
だからこそ私は、言葉を信じないのです。
彼の言葉こそを、信じることができずにいるのです。
彼が「薫」と呼びかける、それさえも。
それこそを信じられたなら、どんなにか。
了
うわー…暗…。。
薫嬢がやっちゃった「酷いこと」が何なのかは聞かないでください。
このままじゃ緋村がMになっちゃう。。