ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよい子だ ねんねしな
ぼうやのおもりは どこへいった
あの山越えて 里へいった
里のみやげに なにもろた
でんでん太鼓に 笙の笛
もし世界が小量の毒でしかなかったなら
とろとろ続くまどろみの、その緩慢な苦しさを愛している。
季節は夏を過ぎ、吹く風が少しずつ肌に寒さを感じさせるようになる頃。
戸を全て開け放った部屋の中には、外の風も匂いも温度も全てが入り込んでいる。
部屋の真ん中に腰を降ろし、剣心は眠る薫の顔を飽きることなく眺めていた。
膝の上に乗せた頭は意外なほど軽く、微かに耳に届く寝息は規則正しい。
ゆっくりと頭を撫でると、長い髪が指の間を逆らわずに流れた。そのまま指を引き抜けばパサリと音を立てて畳に落ちる。
弧を描いて落ちた髪に、覆われた顔の白さが際立った。
「薫殿」
呼んではみたが、この程度で起きるほど簡単ではないことは十分わきまえている。
一度深い眠りに入ってしまえばてこでも起きないのが常のことで、無理に起こせば機嫌はすこぶる悪くなる。
ひどい時は寝ぼけた薫の蹴りが飛んできて、起こすこちらが被害を受けることもしばしばだ。
機嫌が悪いというよりは、起きても意識が半分以上夢の中にあるようで、目が覚めてからしばらくの間はまともな会話が成り立たないこともよくあった。
しかしこのまま寝かせておくわけにもいかない。薫が剣心の膝に頭を預けて眠りだしてから、既に数時間が経過していた。
いい加減足は痺れきっているし、むしろ痺れすぎていて感覚もない気がする。
しばし考えた剣心は、畳に落ちた黒髪を一房つまんでつんと引いてみた。
「これ、薫殿」
一瞬だけ眉間に皺がよる。目を覚ますかと剣心が身構えていると、小さい呻き声をあげて身じろいだものの、薫はまた健やかな寝息を立て始めてしまった。
……いつも以上に寝穢い。
低血圧になっているのか、それとも単に疲れが溜まっているのか。
「さて困った。今日は薪割りも洗濯も終わっていないというのに」
呟きながら開け放った戸の向こうを見やる。太陽が西の空に傾いて、部屋の中に橙色の光を投げていた。
陽の光を受けて薫の頬にも赤みがさしているが、それは本人の体調とはまるで関係がない。
普段の状態から比べれば身体の具合は相当悪いはずで、実際は顔色も良くないはずだった。
そっと頬をなでると、ひんやりと冷たい感触が手に伝わる。戸を開けたまま何時間も眠っていたためか、下がり始めた外の気温が体温まで奪っているようだった。
「薫殿。そろそろ起きぬか。眠るのならきちんと布団で眠らねば」
呼びかけても答えは無い。薫は目を覚まさない。
「もう日が暮れてしまう」
嘆きの言葉を漏らしながら、剣心の表情はどこまでも穏やかだった。
最近の薫の稽古を見れば、恐らく誰しもが「無茶だ」と言っただろう。
彼女は朝起きると寝ぼけ半分で身支度をして、もそもそと朝餉を食べる。
食べ終わるとすぐに道着に着替え、言葉少なに道場へと向かう。弥彦の用意ができていれば連れて行き、できていなければ一人で黙々と素振りをしていた。
弥彦が道場へと姿を出せばすぐに打ち込みを始め、午前中はひたすら基礎に時間を費やす。
休憩は取るには取っているだろうが、それも水分補給のための申し訳程度の時間だろう。
昼餉の用意を終えた剣心が呼びに行くとようやく薫は身体を止める。
昼の時間が来ていることにはたと気づいたように手を止めて、大人しく剣心の後について母屋に戻り食事を取る。
食べ終わった後は剣心が差し出す熱いお茶を慌ただしく飲みほし、また道場へと向かって稽古を始めるのだ。
この時剣心や弥彦がもう少し休んではどうかといくら言っても、薫はそれを歯牙にもかけない。
午後からは基礎ではなく、より実践的な試合形式の稽古をしているようだった。試合と言っても特に重要な決まりごとがあるわけではない。
最初はお互いに向かい合って挨拶をするところから始まり、三歩進んで蹲踞をしてからどちらか一方が開始の合図を出す。
その瞬間に立ち上がり、あとはどちらかが一本を取るまで続けるだけだ。
一本を取るまで続ける、というのはつまり、薫が弥彦を打ち倒すまで続ける、ということと同じだ。
薫と弥彦が試合をしても、弥彦が一本を取れるということは十回に一回も無い。そのぐらい二人の実力にはまだ差があった。
したがって二人でする試合形式の稽古は、ほぼ弥彦のためのものだと言って良い。
着実に弥彦の腕が上がってきているとは言え、薫自身の腕を磨くには都合の良い相手とは言えなかった。
だからというわけではないだろうが、薫は弥彦を連れて三日に一度は出稽古へ行く。
懇意にしている前川道場へは最も通う頻度が高く、それ以外にも周辺の道場を渡り歩いていた。
他道場からの出向人という立場にも関わらず、どこの道場へ行っても薫が稽古相手に困ることはなかった。
あまり関わりがないような遠方の道場でさえ、向こうから立ち会いを望んでくる者は大勢居るのだ。
見目が良く、噂に名高い剣術小町。
普通は男ばかりのむさ苦しい剣術道場に若い女が紛れ込めば、嫌でも目立つことになる。
興味本位であったり、下心があったり。そういう不誠実な輩はこぞって薫と打ち合いをしたがった。
しかし薫はそんなことを気にもせずに、相手が誰であろうと試合の申し込みを片っ端から受ける。
勿論下心など微塵もない純粋な門下生も中には居るし、そうでない不純な動機を持つ者であっても、薫にとって大事な稽古相手であることには変わりがないからだ。
剣術をする動機が不純かどうかということと、実力があるかないかということは必ずしも関係ないということを、薫はよく知っている。
心根が腐っていようと確かに強い者は居るし、逆にどんなに立派な志を持っていても弱い者は弱い。
実に残念だとは思うが、それは事実として受け入れるべきことだ。
そんな風に頻繁に他道場に通いながら、出稽古が無い日は神谷道場で弥彦を相手に日がな一日竹刀を振るう。
弥彦には週に一度は休みを与えていたが、自分自身には休日をほとんど設けず━━そういう状態が一か月以上続いていた。
とうとう無理が出て、薫が倒れたのが今日の昼のことだ。
今朝もいつものように朝餉の用意を整えて剣心が部屋へと起こしに行くと、明らかに顔色が悪く、
だるそうな身体を引きずって布団から這い出ようとしている薫の姿があった。
布団に押し戻そうとする剣心の手を振り切って身支度をし、朝餉の席に着いた薫の顔色を見て、弥彦でさえ開口一番「休め」と言ったのだ。
しかし薫は聞き入れようとせず、今日は休みにするべきだという再三の二人の忠告を無視した。
午前中は何とか普段通りの基礎稽古をこなし、とりあえずは何事もなく過ぎていた。
昼の支度を終えた剣心がそろそろ呼びに行こうかと思っている頃、血相を変えた弥彦が「薫が倒れた!」と言いながら台所へと駈け込んで来るまでは。
道場で昏倒した薫はすぐに目を覚ましたが、どう見ても貧血をおこしていた。溜まった疲労のせいで無理がきたことは明白だった。
それでも稽古を続けると言い張る薫を今度ばかりは剣心も弥彦も許さず、半ばかつぐようにして母屋へと連れ戻した。
薫が無理をしていることは弥彦も分かっていたのだろう。心配はしたが驚きはせず、むしろこうなるべくしてなったのだという認識らしかった。
『おれも結構疲れが溜まっているからさ、今日はもう稽古はやめるよ。赤べこにでも行って飯食ってくるから、そいつのこと頼むな』
自室で布団に押し込められた薫を見ながら、弥彦はそう言った。
そして支度をして玄関を出ようとするのを剣心が見送りに出ると、少しの疲れと少しの不安を混ぜたような幼い表情で、小さく口を開いた。
『なぁ、剣心。あいつさぁ、大丈夫かな』
何かに駆り立てられるように稽古を続けていた薫を、一番近くで見ていたのは弥彦だった。
その様子に鬼気迫るものを感じたのだろう。珍しく不安そうな表情を見せたのを、剣心は哀れに思った。
いくら大人びているとは言え、まだ少年の域を出ないのだ。
喧嘩ばかりしていても薫は既に身内のような存在になっている。不安を感じるのも当然だろう。
『ああ、疲れが溜まっているだけだろうから、ゆっくり休めばすぐに良くなるでござろう。もしかしたら二、三日は寝込むかもしれぬが、良い機会だ。溜まったものは全部吐き出させてしまおう』
落ち着いた剣心の言葉を聞いた弥彦はだいぶ安心した顔になって、玄関を駆け出て行った。
部屋へ戻ると、布団の中で丸まってうとうとし始めている薫が居た。剣心が来たことに気がつくと目を開けて、ばつが悪そうに「ごめんなさい」と呟いた。
『弥彦は出かけたの?』
『ああ、赤べこへ行くそうでござるよ』
『そう』
『薫殿はとにかく眠りなさい。それとも軽く昼餉を食べるかい?』
『ううん、いらない。迷惑かけてごめんね』
掛け布団を顔半分まで引き上げて謝罪する様子に、剣心は深く溜息をついた。
『倒れるまで無理をするというのは、いささか思慮に欠けることでござる。
拙者も弥彦も心配していたのに、それは薫殿もわかっていたはず。
薫殿には薫殿の考えがあってのことだとは思うが、それでも自分の健康管理をないがしろにして良い理由にはならぬよ』
『……はい。仰る通りです。反省してます』
『……まぁ、話は後にして、とにかく眠りなさい』
しゅんとした様子の薫に、剣心もそれ以上の小言は控えておくべきだと判断した。
聞きたいことは色々とあったが、それは今でなくても構わない。睡眠を取らせるのが何より先だった。
沈んだ顔で横たわる薫の肩を布団越しにぽんと叩き、剣心が立ち上がろうとした時。
薫が離れていく袖を掴んだ。
『あの、ね。少しの間でいいから、膝を貸してくれない?』
『……それは構わぬが……それではゆっくり眠れないのでは……』
『寝入るまでの間でいいの。眠ったら布団に戻してくれていいから。とても眠いのに、なかなか眠れないの。
部屋がしんとして自分以外に誰もいないと、色んな事が頭に浮かんできて、考えがぐるぐる回って眠れない』
切実そうな薫の様子に、剣心は断る理由を持っていなかった。胡坐をかいた膝を差し出すと、薫はのそのそと布団から出て、膝の上に頭を乗せた。
居心地の良い位置を探すのに何度か身体を動かしていたが、間もなく眠りに落ちたのか、静かな寝息が耳に届いた。
昼過ぎの暖かな日差しが、開けたままの障子の向こうから差し込んでいた。
それから数時間。まさかこんなに長い時間膝枕をしたままになるとは、剣心自身思っていなかった。
寝入るまでの間でいいとは言われたもののすぐに布団に戻したのでは目が覚めてしまうかもしれないと、
しばらくの間は薫を膝で寝かせておくことにしたのだが、その親切心がいけなかった。
人の居る気配が安心するのか、薫は順調に深い眠りに落ちていき。
寝息がゆっくりと規則正しい間隔で刻まれ始めても、もう少しこのままにしておこう、もう少し膝に乗せておこうと思っては動くことができず。
布団に移動させる機会をずるずると逃してしまっている。
それが半時、一刻と伸びていき、とうとう日が暮れる時間になってしまった。
「どうしたものかなぁ」
薫は一向に起きる気配がない。
その細い身体を持ち上げて布団へ移動させることなど剣心にとっては訳もないことだ。
これだけ深く眠っているのなら多少の振動で目を覚ますということもないだろう。
「しかしなぁ、昼餉も食べていないし、何か少しでも胃に入れさせるべきか…」
昼食にと用意した料理はそのまま台所に放置されている。冷めきってしまってはいるが、温めなおせばすぐに食べることができるだろう。
「薫殿、何か食べよう」
やはり起こそうと心に決めて、強く肩を揺さぶった。それでも目が覚める様子がなかったので、今度は首の下に腕を入れて強引に抱き起こす。
頬をぺちぺちと数回叩くと、薫はようやく目を開けた。
「んぅ…なに…?」
ぼんやりと剣心の顔を見てはいるが、どことなく焦点が合っていない。かなり無理矢理に覚醒させたので相当機嫌が悪いようだった。
「もう日暮れの時間だよ。一度起きて食事にしよう。それからまた眠ればいい。何も食べずにいると今度は胃を弱めてしまう」
「…いらない……寝る」
薫はぐずるように頭を振った。そのまま再度寝入ろうとするのを、抱き起した上半身を揺らして阻む。
「駄目だよ起きなさい。きちんと食事を摂るのも自己管理のうちだ」
少し強い口調で語りかけると、閉じようとしていた瞼がぱちりと開いた。
覗き込む剣心の顔に真剣さを見出したのか、柳眉をしかめて何かを考えるように数秒沈黙する。
「………わかった。起きる」
「よろしい」
居間に移動してからも薫はまだ半分夢の世界に居るような状態だった。
卓袱台の上に並べられた料理━━剣心が急いで温め直したもの━━をもそもそと箸で摘まみながら、あくびを何度もかみ殺している。
口を動かしてはいるが、本当に中の物を咀嚼できているかはあやしい。気を抜くと意識が飛びそうになるのか、時々頭を振って必死に睡魔と闘っているようだった。
「薫殿、ちゃんと噛んで、飲み込みなさい」
「ん、大丈夫」
「飯粒が顎に付いているよ」
「ん、大丈夫」
「そのほうれん草は妙殿から頂いたものでござる」
「ん、大丈夫」
「…………」
全く会話が成立しない。剣心は話しかけるのを諦めて、自分も朝以来の食事に専念した。
味がわかったのかどうかも疑問な食事を終えると、剣心は素早く食器類を片付け、熱いお茶を薫の前に置いた。
ありがとうと言ってそれを受け取った薫は湯呑の中に息を吹きかけてから、ゆっくりとお茶を啜った。
熱い液体が喉を通ることでいくらか気分がすっきりしたのか、ほっと息を吐く。向かいに座った剣心も同じようにお茶を飲んだ。
立ち上がる湯気が顔を覆い、お互いの顔が霞んで見える。
「ずっと膝枕してくれていたの? 布団に戻してくれて良かったのに」
薫が申し訳なさそうに口を開いた。
「足、痺れたでしょう。ごめんね」
「いや、拙者が好きでしたことでござる。人の気配があった方が眠れるのなら、その方が良いかと」
「……ありがとう」
「ところで、最近の無茶な稽古ぶりについて、理由を話す気はないでござるか」
聞かれることを予想していたのか、薫は目を伏せて視線を外した。核心を突こうとする剣心の目を、真っ直ぐには見なかった。
「理由というほどのことではないの。ただ、強くなりたかっただけ」
「なぜ急に強くなりたいと?」
「急に思いだした訳じゃないわ。強くなろうとするのはおかしいことではないでしょ? 剣術をやっている人は皆、多かれ少なかれ強くなろうと努力するものだもの。
私だって竹刀を握った小さな頃から、ずっと強くなりたいと思って稽古をしてきたのよ」
「確かにそれはそうだ。だがそれならこれまでの稽古のやり方のままでも良いでござろう。そのやり方で薫殿は強くなってきたのだから」
「……私は弱いわ」
「そんなことはない。薫殿は十分に強い。現に他の道場へ出稽古に行ったとて、薫殿が負ける相手がどれほど居る?」
「それって、遠回しな嫌味?」
伏せられていた目が上へ向き、剣心を強く睨んだ。何がそこまで薫の気に障ったのか、剣心には皆目見当がつかなかった。
「なぜそうなる。拙者は嫌味など言っていない。この界隈で剣術を学ぶ者たちの中で、薫殿が強いということは事実でござろう」
「でも私は負けたじゃない」
強い口調が居間に響いた。訴えるように悲しい声が夜の空気を切り裂く。卓袱台に乱暴に置かれた湯呑が、派手な音を立てた。
「……一体誰に、負けたと言うのか」
眉をひそめて問い返すと、薫は苦虫を噛み潰したように唇を噛んだ。握りしめた拳に力が入り、ぎりぎりと音が聞こえてきそうなほどだった。
「……比留間伍兵衛の一件にしろ、鵜堂刃衛の時にしろ、私は何もできなかった。
ニセ抜刀斎をこの手で倒すと息巻いていながら比留間には一撃さえ当てることはできなかったし、
鵜堂に至っては不甲斐なく攫われて、漫然と貴方の助けを待つことしかできなかった」
その言葉は剣心にとってまさに寝耳に水だった。薫がそんなことを気に病んでいたなどとは露ほども思わず、すぐには返す言葉が見つからない。
「志々雄真実討伐のために京都に向かった時だってそう」
「しかし薫殿は十本刀の一人と対峙して、勝ったのでござろう」
「辛勝だったのよ。実力がどうのというより、精神力で私の方が少し勝っていただけ。
でもそんなのどうだっていい。問題はあの葵屋の戦いで、比古さんが来てくれなければあの場に居た全員が死んでいただろうってことだわ。
不二に弥彦が潰されそうになった時、私は助けに入ることもできなかった。唯一の弟子を救うこともできなくて何が師匠よ。
弥彦だけじゃない。葵屋の人や、そして私自身も、本来ならある筈のなかった比古清十郎という加勢のおかげで運良く助かったに過ぎないの」
「それは」
「剣心は私を強いと言うわね。ええ確かにそこいらの生半可な剣術家たちよりは強いかもしれない。
でもそんなの何の自慢にもならないわ。私は貴方と出会ってから、常識の通用しない強者たちをたくさん見てきたのだもの。
そして自分が井の中の蛙だと知ってしまった。おかしいくらいに、自分の弱さが惨めになった」
握りしめた拳の上に、数滴の涙が落ちた。薫からはただただ悔しさともどかしさだけが伝わってくる。
「薫殿」
「触らないで」
無意識に伸ばした手は、届く前にピシャリと跳ね返された。落ちた涙が飛び散って剣心の手をも濡らす。
「無駄な事をしているとわかっているの。稽古の時間を増やしたって、出稽古の数をこなしたって、
私が私の持っている能力以上のものは得られないって。それでも何かせずには居られなかった。
京都から帰ってきて一回りも二回りも強くなった左之助や、国を左右する戦いを終えて戻った貴方を見ていると」
それは一種の恐怖心のようなものに近かった。薫にとって幼い頃からたゆまず続けてきた剣術はもはや自分の人生の一部であり、
生きる上での拠り所だ。毎日の稽古を欠かさず続け、門下生を増やし、道場を存続させる。
少しずつ腕を上げて師範代から師範になり、強くなる。これまではそういう目標を、妥当なものだと信じて疑いもしなかった。
しかし緋村剣心と出会い、幕末の人斬りの強さを間近で見て、その思いは揺らぎ始めている。
「もっと強くならなきゃ、もっと上を目指さなきゃって、そう思ったらいてもたっても居られなくなった。
女とか関係ないの。そんなの関係ない。世の中には自分が想像もできないくらい強い人たちが居るんだから、
自分はこんな現状の実力に甘んじていてはいけないって。剣心、貴方の傍にいると私は、どんどん欲が深くなる。
自分がちっぽけな人間であることに気付いてしまう。もっと近づかなきゃ、近くに行かなきゃって思ってしまう」
そう言って薫は泣きながら笑った。
剣心がもう一度手を伸ばすと、今度は跳ね返されずに受け入れられた。
頬を伝い落ちる涙を指で拭い、頭を引き寄せる。素直に腕の中に納まった華奢な背中をぽんぽんと叩くと、しがみつくように着物を薫の手が掴んだ。
「拙者が此処に居るせいで、薫殿にはいらぬ気苦労をかけているな」
「そんなんじゃないわ。剣心が悪いとかじゃない。ただ私の気持ちの問題なの」
顔を剣心の胸に押しつけたまま、薫がくぐもった声で答えた。
「いや、やはり拙者のせいだろう。もし此処に拙者が居なければ、
薫殿はこれまでの自分を信じて生きていけたし、『弱い』という惨めな感情を抱くこともなかったのだから」
自嘲するように剣心が言ったが、それには薫は答えなかった。
あやすように背中を叩き続けていると、だんだんと胸にかかる重みが増してきた。
薫が体重を全て預け始めていて、着物を掴んでいた手も力が緩んできている。
「また眠くなってきたかい」
「……うん、ちょっと」
絞り出された声は掠れていて、辛うじて聞き取れるぐらいだ。やはり昼間に数時間寝たぐらいでは溜まった疲れは取れないのだろう。
食事をして満腹になったせいでよけいに身体が睡眠を要求したのかもしれなかった。
「部屋に行こう、薫殿。今度こそ布団で寝なくてはね」
「……うん」
***
ガラガラと玄関を開けた弥彦は、居間や廊下に明かりが点いていないのを不思議に思った。戸を閉めて草履を脱いでも誰の姿も出てこない。
「なんだぁ? もう寝たのか?」
時刻はまだ戌の刻(夜八時)を過ぎたばかりだから、いつもなら居間で団欒をしているか、薫が風呂に入っている頃だ。
持っていた荷物を自分の部屋に放り投げて廊下を進むと、薫の部屋に明かりが点いているのが見えた。
障子が明け放されていて、部屋に居る者の影が廊下まで長く伸びている。
「なんだ、剣心ここに居たのか━━っと……何やってんだ?」
見慣れた赤毛が目に入ったので声をかけたのだが、部屋を覗き込んだ弥彦は中の光景を見て呆れた声を出した。
「おお弥彦、おかえり。夕餉も赤べこで済ませてきたのか?」
振り向いた剣心は弥彦を見上げてほほ笑んだ。どことなく声を抑えているのは、部屋に居るもう一人を起こさないように配慮してのことだろう。
「うん、食ってきたから大丈夫だ。それより、それ、薫の奴、寝てんのか?」
「ああ、さっき寝ついたところだ。疲れが溜まりすぎて神経が高ぶっているのか。一人になると眠れないらしくてな。まぁ、誘民剤代わりみたいなものでござるよ」
「だからってなぁ……人の膝借りて寝るって、呑気な奴だな」
布団は敷いてあるものの、薫の体は半分以上が畳にはみ出ていた。
頭は剣心の膝に乗せているが上半身は畳の上で、下半身だけ布団の中……という非常に中途半端な状態で眠っている。
「俺は風呂入って寝るから。剣心も寝ろよ。まさかずっとその体勢でいるつもりじゃないだろうな?」
「ああ勿論。もう少ししたら薫殿を布団に入れて、拙者も休むでござるよ」
「そうか。んじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
廊下を遠ざかっていく弥彦の足音が消えると、外で鳴く虫の声が聞こえてきた。秋になったことを告げる音は絶え間なく夜の間中聞こえるのだろう。
「ねんねんころりよ、おころりよ」
眠る薫の頭を撫でながら、剣心はいつか幼い頃に自分にも与えられたはずの唄を口ずさむ。
「ぼうやは良い子だ、ねんねしな」
薫が強くなりたいと望むのは、確かに自分が此処に居るのが原因なのだと剣心は思う。
夏に京都から戻ってからというもの何事もなく暮らしてはいるが、
平穏を装ってはいても意思とは無関係に争いごとを呼び寄せるのが自分の星まわりだと、よく知っていた。
此処に居ついてからもいくつもの戦いがあったし、それは薫にとっては少なからず平凡とはかけ離れたでき事であったのだろう。
『強くなりたいの』
その気持ちは剣心にも覚えがある。強くなること。幼い頃の剣心にとっては家族を守れなかった己の非力さを嘆いた結果の望みだったし、
十本刀の中で最強と言われていた瀬田宗次郎などは、虐げられた生活の果てに見出した救いとしてそれを望んだ。
強くなりたい。
それは一種の麻薬のようなものだ。望むことで生きる糧にする者もいれば、囚われ過ぎるが故に自滅する者もいる。
そしてそれは自分にとって絶対的な影響力を持つ者との出会いで助長されることが多い。剣心にとっての比古しかり、宗次郎にとっての志々雄しかり。
はたして自分は薫にとって良薬になるのだろうか、それとも単なる毒で終わるだろうか。
「拙者にとってもまた、そうだ。あなたが薬になるのか毒になるのか、わからないんだよ、薫殿」
起こしてしまうかもしれないとか、親切心だとか。そんなこと以前に。
ただ離れるのが名残惜しいからいつまでも膝を差し出したままでいるのだと、気づいて剣心は自分を笑った。
自戒の念を持ちながら十年も流れてきたというのに、たった数か月留まっただけのこの家に、執着を持ってしまっている。
薫に手を差しのべられて、暖かい寝床を与えられて。もしかしたら自分も畳の上で死ねるのかもしれないと、そんな都合のいい夢を見ている。
それが良い事か悪い事なのか今はまだ判断がつかなかった。
「ぼうやのおもりは、どこへいった。あの山越えて、里へいった」
もしも互いが互いにとって毒にしかならないなら、その時はいっそ相殺されて消えてしまえばいいのだ。それもまた都合の良い夢の一つだった。
「疲れたら眠っていいんだ、薫殿。自分がどうあるべきかに悩んで、それに疲れたら、いくらでも眠ればいいんだ。
いつか答えが出る時は来るし、それまでは拙者も結論を出せるだろう。だから今はゆっくりおやすみ」
薫の身体を抱き上げて、静かに布団の中へと横たえる。掛け布団をしっかりとかけてやると少し身じろいだが、目を覚ましはしなかった。
行燈の火を吹き消すと、部屋の中は真っ暗になった。横に添い寝して肩に手を置くと、ひんやりとした布地の感触が伝わる。
「ねんねんころりよ、おころりよ」
いつか自分も、聞いたはずの唄。薫が深い眠りで疲れを癒せるようにと、願いながら歌った。
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