※さりげなく実写映画設定で。
ただ秘めよ
「ほら、行くよ?」
そう言って傘を差しかけられた時、剣心は「ああこの娘は少し頭が弱いのだろうか」と、ぼんやりとそんなことを考えた。
もちろん声には出さなかった。首をかしげて自分を覗きこむ目があまりに愛らしかったので、そんなことは言えるはずもなかった。
人斬りであったとわかった男にそれでも家に居ろと言うなんて、気が狂ってるとしか思えない。正気の沙汰じゃない。いかれてる。
どしゃ降りの雨が彼女の袴を濡らし、跳ねた泥が白い足袋を汚している。
もう一度名前を呼ばれた。手招きをされた。
(かわいそうに。父御を亡くして天涯孤独。すこしばかり、あたまがおかしくなってしまったのだろうか)
おいでと。自分を見て、その目が、おいでと。
とぼとぼと後をついて足が歩き出してしまったのを、自分ではもう止めることができなかったのだ。
それでものろのろとためらいながら歩くのに焦れたのか、薫は剣心の袖を引いて早足になった。
男の袖を引くということがどういうことなのか、わかっているのだろうか。
「帰ったらお風呂、入ろうね、剣心」
わかっていないのだろうな。
***
自分が思っていたよりも自律心のない人間だということに、齢二十八になってようやく気がつくことになるとは、
剣心自身、思っていなかった。
(あたまが弱いのは、このおれだ)
家に帰り着くと薫は、いそいそと風呂を沸かした。
呆然としている剣心を追い立てるように風呂場に押し込み、外から「着替えは用意しておくから、ゆっくり浸かって」などと声をかける。
風呂から出たら出たで、今度は母屋の中へと引っ張っていかれた。またも袖を握られて、剣心は腕を振り払いたくなった。
本当にもう、勘弁して欲しい。
袖を引くその手首を掴んで捻り上げたら、この人はどんな顔をするだろう。
部屋の中へと招き入れられて、唐突に薫の手が肩に触れた時、漏れそうになった呻き声をどうにか堪えた自分を誉めてやりたい。
「ねぇ剣心、あなた、身の丈は五尺五寸くらい?」
細いけど、肩に筋肉はついてるから、たぶん大丈夫ね。あとは色が気に入るといいんだけど、
まぁどうしても嫌だったら他のを探しましょ。
肩から腕を確かめるように辿られて、薫の話していることなんてちっとも耳には入ってこない。小さな丸い頭がすぐ顔の下で揺れている。
雨で湿ったままの彼女の髪からは、何か花のような香りがした。大きく息を吸い込んでみたら、もっと良い匂いがするのだろうか。
すんと息を吸おうとして、薫の手が腰に回ったので、剣心は今度こそ低く呻いた。
本当にもうやめて欲しい。手が腰回りを撫で回している。そんなことは、おいそれと男にしていいことじゃない。
思わず両腕を掴んで止めると、薫は目をぱちくりと開いて顔を上げた。
「あ、ごめんなさいくすぐったかった? 胴回りはどれくらいかしらと思って。んー、やっぱり細いわねぇ。うん、でもまぁ、なんとかなるでしょ」
ちょっと待っててね、あなたに着てもらいたいのがあるの、いま出すから。
そう言って見上げてくる猫のような大きな目を、剣心はまばたきもせず見つめた。瞳の中に自分の顔が映っている。それぐらい近いのだ。
「剣心?どうかした?」
掴んだままの腕がためらうように動いた。薫の白い手が視界に入る。
━━その細い指でおれの胸をなぞってくれないだろうか。
とんでもない言葉が喉から出かかって、剣心は慌てて息を飲み込んだ。
「いや、なんでも」
「そう?ならいいけど」
腕を離すと、薫はぱっと身を翻して箪笥に取りついた。引き出しを開けて中を漁り始める。
膝をついて背中を向けながら、ああでもないこうでもないと何かを楽しげに話している。
尻の丸さが袴ごしにもわかって、剣心は唇を歯で噛み締めた。
いまにも飛びかかりそうだった。距離なんて無いに等しい。彼女は逃げる暇も、声さえあげる間もないだろう。
湿った袴と着物をむしり取るのなんて簡単だ。
彼女だって悪いのだ。こんな扱いを受けて、期待しない男なんて居ない。
その薄い身体に背後から覆い被さって畳に押し付けたら、どんな心地がするだろう。
薫がようやく振り向いて、父のお古だと言って赤い着物を差し出すのがあと一瞬でも遅かったなら、剣心はたぶん実行に移していただろう。
(あたまが弱いのは、おれの方だ)
━━ちょっと派手すぎる?
申し訳なさそうに言い、伺うように笑んだ彼女の顔を見て、剣心は照れたフリをして俯くことしかできなかった。
この人を自分のものにできたなら、どんな心地がするだろう。
きっともう何もかも、もうこれで終わりで良いと。
そんな気持ちになるのだろうか。
そんな日は、いつか来るだろうか。
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