ほのかにひとつ
あ、食べた。普通に。うわぁ。噛んでる。しかも飲み込んだ。ちょっと。ねぇ。ほんとに。この人だいじょうぶなの。
「あのさ剣心。別にね。まずけりゃまずいって、言っていいのよ」
自分でこんなことを言うのもなんだけども。これはちょっと。本気で土下座しないといけないかもしれないぐらいの物体だ。
自分の口に一口放り込んでよくわかった。二口めの箸は伸ばしたくない。
剣心はきょとんとした顔をしてこちらを見ている。
「いや、まずくはないが。個性的ではあるけれど」
そしてまた箸を動かしている。
演技でやっているなら賞賛に値するだろう。本心でそんなことを言っているなら間違いなく馬鹿舌だ。真剣に恵さんの診察を受けさせなければいけない。
味覚の回復には亜鉛が良いのだったか。確かそんなことを聞いたことがある気がする。頼めば処方してもらえるだろうか。
「もうおしまい」
おぞましい味のする物体にまた箸を伸ばそうとしたので、慌てて止めた。皿を取り上げると、剣心は「あ」と声を上げて皿を取り戻そうとする。
なんなのその残念そうな声は。本当に未練があるように聞こえるではないか。
「これはもういいから」
「いやそんなもったいない」
「他のおかず食べて」
「それはどうするのでござる」
「……廃棄」
また取り返そうと手を伸ばしてきたので、さっさと立ち上がって台所に逃げ込んだ。わたしにだって人並みの良心はあるのだ。
自分でさえ口を付けたくないものを、人に食べさせるのは憚られると思うぐらいの良心は。
食材を無駄にしたことを心の中で侘びながら、皿の中の物体を生ゴミ入れの中に放り込む。
せめて庭の小さな畑の肥料にでもなれば……いや、それもやめておいた方が良いだろうか。大事に育てている野菜が死んだら困る。
食卓に戻ると剣心は心なしかしょげていた。もそもそと他の品――彼が作り置きしていた正真正銘『まとも』なおかず――と米を咀嚼しながら、
ちらちらとこちらを見て不貞腐れたような顔をしている。
「拙者はべつにまずいなんて言っていないのに」
「はいはい。お気づかいありがとう」
「ほんとに食べられたのに」
「もういいって」
***
「あらー薫ちゃん、それは剣心はんがかわいそうやわぁ」
くふふと笑いをこらえて口元を押さえながら、妙さんがもう片方の手でこちらの肩を叩く。もともと開いているのかわからない細い目が、更に細くなっている。
赤べこでの夕食は、月に一度の恒例になりつつあった。ちょっとした息抜きのようなものだ。
「どうしてかわいそうなの? だって、我ながら兵器みたいな味だったのよ。そんなの、食べないほうが絶対いいじゃない」
空になった器を厨房入口の棚に置く。仮にも客なので本来は食器の上げ下げなんてしないはずだけど、
ほぼ身内のお店という認識なので、食事しながら自分たちの客席の配膳ぐらいは手伝うようにしていた。
暖簾の向こうの客席では弥彦と剣心が牛鍋をつついていた。
「うーん。あんな薫ちゃん、気づいてはる?」
「なにを?」
「剣心はんな、あのお人、かなりの偏屈もんですえ」
偏屈。それは彼を形容するには少しばかり違和感のある言葉だ。剣心が偏屈もの。……どのへんが?
「ここでの食事な、もう何回もしてはるけど。あのお人、実は薫ちゃんにすすめられたものしか、口にしてないんよ」
「…は?」
「わかりにくくはあるんやけどね。よーく見てたら、どう考えてもそうなんよ。ほら、見てみ」
店のざわめきに溶け込みそうな声で妙さんが囁やいた。指を指された先に目を向ける。
一心不乱に食事をかきこむ弥彦は、牛鍋をつつきながら他の器に盛られた品にもまんべんなく手を伸ばしている。
一方剣心は、ゆっくりと自分の取り皿に取り分けられたものだけを口に運んでいた。
「あれは薫ちゃんが剣心はんに取り分けてあげたもんやんな?」
「ええ、まぁ。剣心は遠慮がちな人だし。ほっとくと弥彦に食べ尽くされちゃってほとんど口に入れられないから、無くなる前に取り分けておいたの。お節介だとは思うんだけど」
「お節介、ねぇ…」
妙さんがまたくふふと笑った。
「物を食べるということは、命を繋げるということやね?」
「うーん、まぁそうね。凄く極論な気もするけれど」
「きっとな。剣心はんはもともと、食に興味なんてほとんどないお人や。無かったら無かったでいいし、飢えて死んだって別にいいぐらいに思ってはる」
「ああうん、それはそうかも」
「だからつまりな、口に入るものを委ねるということは、あのお人にとっては命を委ねることと同じなんよ」
「えー随分飛躍したわね妙さん。それは大げさ」
「そうやろか?大げさ?本当に?」
妙さんの細く弧を描く目は、笑っているようにも悲しんでいるようにも見える。
「ほのかにひとつ」
「…え?」
「残ったものなんやろうねぇ」
ほのかにひとつ。
淡くぼんやりと光るそれは、この世界への。
「あんな、あの大きな黒い皿の煮物、席に出したのはもう随分前やね?」
「ああ、そうね、あれ凄く美味しい。わたし好き。京風なのかしら? 上品な味付けだったわ」
「そ、うちの店の新しい品どす。でもな、剣心はん、目の前にあるのにあの皿にはまだ一回も、手をつけてないんよ」
「え、そう?」
「そう。薫ちゃん、席に戻ったら真っ先に、あの皿の煮物をすすめてみたらええよ。そしたらうちの言ってること、よくわかると思うし」
「はぁ…」
席に戻ると、剣心の取り皿にあったものはほとんど無くなっていた。自分の分の椀の汁物をすすっている彼に、さりげなく聞いてみる。
「ねぇ剣心、この煮物、食べてみた?」
「いや、まだでござる」
「これね、赤べこの新しい品なんですって。凄く美味しいのよ」
「左様か」
「食べてみる?」
「うん」
すぐに頷いた剣心は、にこにこと笑ったまま動く様子がない。そのまま変な間があきそうだったので、仕方なく彼の取り皿を手に取った。
するとどうだろう。剣心はすぐさまあれこれと注文を出し始めたではないか。
「里芋がうまそうでござるな」
「ああ、里芋ね」
煮崩れもせずつやつやと光る里芋を更に入れる。
「こんにゃくもよく沁みていそうだ」
「こんにゃくね」
「あと昆布締め…」
「はいはい」
言われるがままに盛ると、取り皿にはこんもりと煮物の山ができあがった。手渡すと剣心は嬉しそうにそれを受け取る。
「ありがとう、薫殿」
「どういたしまして」
そこからはあっと言う間だった。剣心が取り皿の煮物をたいらげるのに、恐らく一分もかからなかった。
まるで本当は食べたくて仕方がなかったという様子だ。それともそんなにお腹がすいていたのだろうか? 食事が始まってからもう随分経つのに?
「あ、あの…美味しい?」
ほとんど呆気に取られた状態で尋ねると、剣心はすぐさま首を縦に振った。
「うん」
「じゃあ、こっちのお漬物も、食べる?」
「うん」
横の方に置いてあった漬物にも、まだ誰も手を付けた形跡がない。弥彦は若いからかそれほど漬物に興味を示さないが、剣心は好物のはずだ。
また取り分けてやると、これもすぐさま彼の胃に消えてしまった。
「はいこれ、店からのおまけ」
妙さんが、運んできた豆腐の揚げ出しを剣心の目の前に置いた。
「いつもかたじけない、妙殿」
そう言って会釈したまま、剣心は箸をつけようとしない。しかし取り分けてやると、間を置かずに食べ始めた。
『な、言った通りですやろ?』
去り際に小さな声で囁やいた妙さんが、肩を揺らしながら厨房へと消えていった。
了
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