ひややかな情熱







「もしあなたが、他の誰かに心を移したら。わたし、あなたを殺すかもしれないわ」

 とろんとした、今にも眠ってしまいそうな顔で薫が囁くように言った。卓袱台に肘を置き、頬杖をついて、まるで明日の天気の話しをするような気軽さで。

「どうやって?」

 向かいに座る剣心が首を傾げて聞いた。彼の瞳はなぜかきらきらと輝いていて、お伽噺を聞かせてもらう前の子供のように期待に満ちている。 殺すと言われて浮かべる顔ではない。

 開け放した障子から冷たくも熱くもない夜の風が吹き込んでいた。
 薫は頬杖をついたままウトウトし始めていて、今にもカクリと手の平から顎を落としそうになっている。吹き込んでくる風は肌に心地良く、酔いの回った身体を否応なく眠りへと誘うのだ。

「どうやって?」

 急かすようにもう一度剣心が聞いた。このまま大人しく寝かせてくれるつもりはないらしい。薫は落ちかけていた意識を引き戻されて、くっつきそうになる瞼をパチパチと何度か瞬いてこじ開ける。
 ━━どうやって?
 どうやって。そう、それが問題なのだ。この男の息の根を止めてやると言ったって、果たして自分にはどんな手段があるだろう。
 首を絞める?
 自分の握力じゃ絞めきるのは無理だろう。
 毒を盛る?
 恵に頼めばちょうど良さそうなものをくれるだろうか。…くれないだろうな。
 じゃあ逆刃刀を盗み取ってぐさっと背中からやってみる?
 刺す前に気づかれて終わりだろう。

「どうやって?」

 剣心がまた聞いた。
 ちょっと黙ってて。いま考えてるんだから。口には出さずに半開きの目で睨みつけると、目の前の男はいっそう楽しげに目を細めた。

***

 はっきり言って、薫の酒グセは悪い。
 呑めないわけではない。むしろ好んでいる。ただし素面でいられる時間が極端に短い。
 ケタケタと笑い出すのは序の口で、もう少し進むと泣き上戸になる。更に進めば周りの人間に絡みだし、果てはモノにさえ説教をし始める。 以前剣術道場の会合に参加した時には、店にあった亀の置物にこんこんと”うさぎに勝つ方法”を説いていて、迎えに行った剣心を呆れさせた。
 だから剣心は普段から口を酸っぱくして『外では呑むな』と薫に言いつけている。正しくは『自分が居ない所では呑むな』だが。
 あまりに剣心がしつこく言うので、薫はしぶしぶながらその言いつけを守っている。ふしょうぶしょう、と言うやつだ。全く遺憾ながら。仕方なく。 本当は赤べこでの宴会にだって出たいけれど。がまんしている。
 その代わりということなのだろうか。家に居るときは時々こうして、剣心は夕餉の後に酒を出してくれるようになった。 もちろん手製の肴付きだ。

(いい旦那様よね。ほんと)
 妻を労い、酒と肴を用意する。普通なら逆だ。本当なら自分がすべきはずのことも、剣心は嫌な顔一つせずこなしている。 この家ではあべこべなことがとても多い。とても。とても。
 均等に切られたきゅうりのぬか漬けを指でつまんで口に放り込みながら、薫はつらつらとそんなことを考える。パリパリと音をさせながら噛み締めると、 よく染みた旨味が口の中に広がった。

「このぬか漬け、おいしいねぇ。すごいわ、ほんとに。なんでも作れちゃうのね。よっ、三国一の旦那さま」

 おべっか丸出しの大げさな賛辞を送っても、剣心は全く気にする様子もない。

「それはどうも。もう一合、持ってこようか?」
「うんうん。まだぜんぜん、飲みたりないわ」

 外では薫に厳しく禁じている飲酒を、剣心は家の中では快く許した。むしろどこか奨励しているフシがある。 いつも薫が酔い潰れて寝てしまうまで、請われるままに盃に注ぐのだ。
 絡まれて嫌じゃないの? 嫌なら、正直に言って。薫は何度かそう聞いたことがある。
 しかし剣心は毎回首を横に振った。全く嫌ではないらしい。それどころか『楽しいから良い』と言う。
 何が楽しいのかと尋ねても、それは教えてくれなかった。

(ま、いっか)
 追加で注がれた酒をくいと飲む。痺れるような酸味のある辛口だ。喉から食道を伝って胃の腑に落ちていくのがわかる。
 今日もすでに二人で五合ほどは空けただろうか。そろそろ思考がまとまらなくなり始めている。 考えていることがあっちへこっちへと飛んで行って、愚痴くさい言葉が意思とは無関係に口からこぼれていく。

「あなたねぇ。ちょっと。ちょっと顔がいいからって、調子に乗ったら痛いめにあうわよ」
「痛いめ、とは。はて、どのような」

 据わった目をしながらぴしっと指を指してくる薫に、剣心は穏やかに答えた。

「あそこ、ほらあの、川向こうの味噌屋の娘さん。あの子、あのこね、きっとあなたに、ぞっこんよ」
「はぁ。ぞっこん、でござるか」
「そ。今日だってさ、わたしが通りかかったらわざわざ寄ってきてこう言うのよ。 『お味噌とお醤油、まだおありですか? 無くなりそうなら仰って頂ければすぐに用意致しますと、お伝えくださいな、旦那様に』って。 まったく、いやになっちゃう。『旦那様に』ですって」
「はぁ」
「けんしん、あなたね。あまりほいほい良い顔しちゃだめよ。いろんな人に。そうでなくたって、目を引くんだから」
「心外な。ほいほいなど、しておらぬ」
「うそおっしゃい。わたし、知ってるのよ」
「何を知っていると」
「知ってるのよ。知ってるんだから」

 わたしと祝言を挙げたあとも、何回か恋文をもらったことがあるでしょう。それもぜんぶちがう人から。わたし、知ってるんだから。

 呟くように言うと、剣心は少しだけ驚いたような顔をした。バレていないとでも思っていたのだろう。

「かべにみみありってやつよ。剣術小町なんておだてられてりゃ、わたしだってそれなりに顔がひろいのよ。いろんな人が、いろんなこと、教えてくれるんだから」

 それは薫への良心であったり、もしくは悪意であったり。見聞きしたことをいちいち伝えてくる者はたくさんいる。どれもこれも余計なお世話にはかわりなかったが、 だからと言って全てを無視できるわけではない。やれどこどこでアンタの旦那が言い寄られてるのを見ただの、聞いただの。
 神谷薫も緋村剣心も、どちらもそれなりに目立つのだ。この町では。

「もらった恋文、どうしたの」

 カツンと盃を卓袱台に置いて、薫はそっぽを向いて尋ねた。できれば『突き返した』と言って欲しい。そんなものは受け取りもしなかったと。
 しかし剣心は『ああそれなら』と言って頷くと、なんでもないという顔をして答えた。

「ちぎって芋を焼くのに使ったよ」
「は?」
「よく燃えて助かった。芋もよく焼けた」
「ちょっと。芋って。この前おやつだって言ってわたしに食べさせたやつじゃないでしょうね」
「いかにも。それでござるが」

 とんでもない。なんという無神経な。

 美味かったでござろう? と言って首を傾ける夫を見て、薫は勢いを無くしてしまった。言い寄る娘たちに抱いていた嫉妬心が急速に萎んでいく。 むしろ哀れでならない。切ない想いを込めて書いたであろう文を、芋を焼くのに使われて、おまけにその芋は懸想相手の奥方の腹に納まってしまった。あんまりではないか。

 何が楽しいのか知らないが、剣心は相変わらずにこにこと笑っていた。空になった薫の盃に酒を注いで『ぬか漬けももう少し持ってこようか』などと言っている。
 薫はがくりと項垂れた。力が身体から抜けていくようだ。まったく。ばかばかしい。

 この人が薫以外の者になびくことなど、これから先、あるのだろうか?

(われながら不遜なかんがえね)

 盃を持ち上げて注がれた酒を一気に飲むと、腹の中が焼けるように熱くなった。頭がくらくらする。いよいよ酔いが回ってきた。 脳の中に浮かんでくる言葉さえ、呂律がまわらなくなりつつある。

 卓袱台に肘をついて手のひらに顎を乗せる。ふぅと息を吐くと、じわりと視界が滲んだ。
 瞼がだんだん落ちてくる。剣心の顔はかすみ始めている。

 じぶん以外の者に、この男がなびくことが、このさき、あるだろうか。
 たぶんないだろう。
 もし、そんなことがあったなら。

「もしあなたが、他の誰かに心を移したら。わたし、あなたを殺すかもしれないわ」

***

「薫殿。薫殿。もう寝るのか。答えをまだ聞いておらぬ」

 控えめに肩をつついても、薫はまったく起きる気配が無い。頬杖をついたままの器用な姿勢で目を閉じた彼女は、もう深い眠りに落ちてしまったようだった。 こうなってはもはや、ちょっとやそっとでは起きないだろう。

「どうやって」

 答えを聞きそこねた。

「あなたはどうやって、おれを」

 ぜひ聞きたかったのに。もったいないことをした。呑ませる量を間違えたのだ。もう少し加減すれば良かった。
 剣心にとって、薫に酒を呑ませることは一つの遊びのようなものだった。
 自分のためだけの趣向と言っていい。
 薫は酒を呑むと、酔って眠り込むまでの道程の、ある一定の地点で、普段は絶対に口にしないことを口にする。 いつもの彼女なら絶対に言わないこと。絶対に明かさないこと。教えないこと。
 ぽろぽろとこぼれ落ちてくるようなその言葉たちは、剣心にとっては何よりの楽しみだった。 他の者からいくらたくさん恋文などもらったところで、酔った薫の口から出る言葉一つの足元にも及ばない。

 殺してやると言われて嬉しかった。嬉しかったのだ。

 わかっている。自分は阿呆だ。こんな愚か者、他には居ない。

 抱き抱えて寝室へと運ぶ間も、薫は目を覚まさなかった。この分だと、明日は二日酔いになるかもしれぬ。

「次はかならず聞かせてもらおう」

 薫は嫉妬に狂ったら、本当に自分を殺すだろうか。
 ――どうやって?

 知りたい。とても知りたかった。