一、 知らぬ間に種をまく

明治十一年、早春。
薫と剣心が出会ってからは数日が経ったある日のことだった。
東京は寒い日が続いていて、本格的な春の足音はまだ聞こえてきそうにない。
空だけは青く晴れているのだがいかんせん空気が冷たい。素足で過ごすのが相変わらずつらい時期。
居候として居付いた剣心はごく自然と家事を引き受けてしまい、薫がやることと言えば道場で稽古をすることしかなくなっていた。
朝起きると彼が洗った着物に着替え、彼が作った食事を食べて、夜になれば彼が沸かした風呂に入る。
どっちが男でどっちが女だかわからないような、不可思議な生活が始まっていた。
薫としては家事のほとんどを引き受けて貰えるのは願ってもないことだったし、
剣心も嫌な顔をせずに自ら動いていたので、その生活にはお互い何ら不満はなかった。
不満はなかったのだが、薫には一つだけもの足りないことがあった。
毎日毎日だだっ広い道場の真ん中で一人黙々と木刀を振っていると、寂しくなる瞬間がどうしてもやって来る。
かつてたくさんの門下生が稽古に励んでいた頃の活気を覚えているだけに、その時との落差が余計にそう感じさせるのだ。
それで薫はふと思いついたことを、特に深く考えずに行動に移した。

━━そうだちょうどいい相手が、つい最近転がりこんできたばかりじゃあないか。

たぶん少し浮かれていたのだと思う。
門下生が誰一人残らず、信頼していた喜兵衛にも裏切られ、失意のどん底に陥ってもおかしくなかった状況で、
ここに留まってくれた者があったことに。

道場を出て母屋の方へ向かうと、裏庭で薪割りをしている剣心が見えた。
襷がけをしていて、丸太を土台の木に置いては割り、置いては割り。
振り下ろされる斧の軌道は少しもブレず丸太を真っ二つに裂いていく。割った薪を几帳面に積み上げていくあたりに彼の性格がよく出ていた。

『剣心、あのね、ちょっとでいいから、稽古の相手してくれないかな?』

弾んだ気持ちで駆けて来た薫が口にした頼みごとに、しかし剣心は否と答えた。

『拙者の剣は活人剣とはほど遠い。だから……申し訳ないが』

『あ……うん、そっか。うん。それならいいの、ごめんね』

薫にとっては本当に、何の気なしにした頼みごとだった。深刻な事情があったわけでも切羽詰まっていたわけでもない。
ただあまりにも退屈で、一人きりで一日中竹刀を振ることに少し飽きてきていて、
剣心がちょっと付き合ってくれれば嬉しいな。その程度の軽い気持ちだった。
だから断られたからといってそれほどのショックがあるわけでもなかったのだが、少し意外ではあった。
まだ数日しか一緒に暮らしてはいないが、緋村剣心という男は人からの依頼や願いに対してはかなり寛容だと思っていたのだ。
だって『私は流浪人のあなたに居て欲しい』そう言っただけで、ここに留まってくれたではないか。
てっきり今回のささやかな頼みも二つ返事で『いいよ』と了承してくれるような気がしていた。
だから、すまなそうな顔をしながらそれでもきっぱりと断ってきた彼に、少し驚いたのだ。

何事もなかったように剣心は薪割りの続きをし始めた。その後ろ姿を見ながら、薫は竹刀を肩に担ぐ。

(━━確かに、一理あると言えば、あるわね)

彼が言う通り飛天御剣流と神谷活心流には大きな隔たりがある。
片や殺人剣、片や活人剣。見事に真逆だ。殺人剣を極めた彼が、正反対の剣術の者に指導するということに、消極的であってもおかしくはない。
何かを極めた者には、必ず何かしらのこだわりや矜持があるものだ。彼にもそういうものがあるのかもしれない。
もしかしたら軽々しく『稽古の相手をしてくれ』などと薫が口にしたことで、彼の持っている自負や誇りを傷つけた可能性もある。
そうならば、これ以上しつこくするのは危険だ。せっかく居付いてくれた彼の機嫌を損ねたくはなかった。

「今日、買い物行く?」

さり気なさを装って話題を変えると、剣心は全く険のないにこやかな顔で振り返った。

「そうでござるな。夕餉の材料も買いたいことだし」
「夕飯は何にする?」
「うーん……今日は一段と寒いから、鍋など良いのでは?」
「やった! 鍋大好き!」
「白菜とねぎはそろそろ旬も終わりでござろう。少し多めに買って、保存用の漬物も作ろうか」
「剣心たら漬物も漬けられるの?」
「一応は。そこまで手の込んだものでなければ」
「はー…何でも作れるのねぇ……」

何気ない会話をしながら、薫はほっと胸を撫で下ろした。
どうやら剣心は機嫌を損ねてもいないし怒ってもいないらしい。
これからもたった一人の稽古は続きそうだが仕方がない。
剣心ができないと言うものを無理にさせるわけにはいかないし、薫もそこまで駄々をこねるほど幼くはなかった。

━━でも少しぐらいいじゃない。

本当はちらりとそう思ってはいた。
確かに緋村剣心の剣術と自分の剣術とには色々な面で隔たりがあるが、だからといってそこまで潔癖に考える必要があるだろうか。
減るものでもなし、ちょっと家事の合間に打ち込みの相手をしてくれるくらい、どうってことはないじゃないか。
竹刀で打ち合ったぐらいで一体どれほどの深刻な影響が出るというのか。
そんな軟弱な流派なら、とっくの昔に消え失せている。

(……ま、いっか。そのうち気が変わったら相手をしてくれることもあるでしょう)

自分で落としどころを見つけて納得する。
今はまだ、知り合ってからいくらも経っていない。たったの数日だ。
当然信頼関係など築けていないし互いの性格すら完全には把握できていないのだ。
一緒の家で生活する時間が長くなれば、もっと何週間も、何カ月も経てば、きっと自分の稽古に付き合ってくれるようにもなるだろう。


淡い期待だった。






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