『目を瞑っていても泣けば涙が零れるでしょう?
 私にとって世界とは総じてそういうものだったの。
 例えば手の平で水を掬ってもいつのまにか全部が無くなっているような。
 少なくとも私にとって世界とはそういうものだったの。
 それでも私は水がこぼれないようにいつも必死になっていた。
 両の手をきつくくっつけて、できるだけたくさん水を汲んで。
 泣きながら「こぼれないで」と呟きながら。
 それが叶えられることは、結局一度もなかったのだけれど』






やわらかな傷口







陽射しの強い、夏の日だった。
空からは本当に「突き刺さる」という表現がぴったりなほどの日光が降り注いでいて、
せっかく風が吹いてもまるで熱風を浴びているようだ。ちっとも涼しくなんかない。
暑い夏の日には、稽古は午前中に集中して行ったほうがいい。
朝早くなら、それほど暑さも厳しくはないから。
どんなに精神統一を心がけていても、「心頭滅却」とはそう上手くいかないものだ。
弥彦にも常に厳しい鍛錬を積ませているし、自分自身、恥かしくないほどの
修行をしてはいるけれども。
やはり真夏の午後ともなれば、多少なりとも頭がぼやける。
ぼやけた頭でだらだらと稽古を続けるよりは、
短い時間でもきっちりと中身の濃い稽古をして、後はしっかり身体を休めた方がいい。
ちょうど今日は弥彦も午後から赤べこでの仕事が入っていると言うので、
正午を迎える前には稽古を切り上げて、昼食はあちらでとるという弥彦を送り出した。

誰もいなくなった道場を清めて戸を全て開け放つと、外からの風が入り込んでくる。

夏の日に独特の、じんわりと脳が溶けるような熱い空気。
額を伝う汗の感覚がとてもはっきりとしていて、
まだ落ち着かない自分の呼吸音と、ばくばくと鳴っている心臓の音だけが耳から聞こえて頭を満たした。
気だるさが心地良い。暑いし汗だくだしベタつく肌の感触は限りなく不快なのに、その気だるさは心地良い。
目を閉じるとそのまま後方に倒れ込みそうになって、クラリと傾いた身体を戸を掴んで支えた。

ふいに全ての音が遠くなる。
自分の心臓の音さえもが、限りなく遠くなっていく。
意識を全部、熱風が攫っていくように感じるその瞬間。

私は今、真実に一人なのだと思う。

決して孤独感に苛まれているのでは無く。
寂しいとか、悲しいとか思っているのでも無く。
この身体に、私だけが確かに存在しているのだという、実感のようなものだ。

寂しいと感じるのは、むしろその後の方だった。
広い道場を振り返ると、ガランとした空間がそっけなく広がっていて、
無性に人恋しくなる。



外に出て井戸に向かうと、陽射しが容赦なく肌をじりじりと焼いた。
つるべを引き上げてばしゃばしゃと威勢良く顔を洗う。
手や顔に感じる水の冷たさが本当に気持ちいい。
用意しておいた手拭いで顔を拭くと、吹いてきた風は相変わらず熱風ではあったけれど、それでも大分爽快だった。
自分の中に溜まっていたいろいろな不純物が一緒に流れていくような気がする。

「薫殿」

手拭いを片手に振り向くと、剣心がお盆に湯飲みを二つ乗せて、縁側に立っていた。
長い髪がそよそよと風に揺れている。
暑い陽射しなど少しも気にしていないように、彼は穏やかに微笑んでいた。

「今日の稽古は終わりで御座ろう。冷たい砂糖水はいかが?」
「砂糖水? 作ってくれたの?」

小走りで駆け寄ると、剣心が少し屈んで湯飲みの中を見せてくれた。

無色透明の液体がきらきらと、夏の陽射しを反射して輝いている。
ただの水と同じように透明なのに、でもきっと何かが溶かされているのだろうということが 分かるだけの微かな動きの重さ。緩慢さ。
明治になって庶民にも手が届くようになった砂糖は、それでもまだまだ高級品だ。
砂糖水なんて普段から常飲するには贅沢すぎるけれど、私がどうにもこの甘い水を 好んでいるということを、剣心は覚えていてくれる。

「ありがとう剣心。ちょうど飲みたいなって思ってたの。剣心の湯飲みに入ってるのは 何? 麦茶?
……にしては何かちょっと色が濃いみたい」

砂糖水が入った私の湯飲みの隣には、茶色の液体が入った剣心の湯飲みが置かれている。

「いや、これはドクダミ茶で御座るよ。薫殿もあとで飲むといい」
「ああ、剣心がこの前取って来て乾燥させてたやつね。うん、私もあとで貰うわ」

自分の湯飲みを受け取って縁側に座ると、剣心も同じように隣に腰を降ろした。
一気に半分まで飲み干すと、剣心はそれを見てにこにこ笑いながら、自分も 湯呑に口をつけている。
甘い味が、溜まった疲れを解してくれるような気がした。

喉を下っていく冷たい液体の感覚と、肌に感じるむせかえるような空気の熱さが 対照的だった。
気だるい疲労が広がる身体全体に、水が浸透していくのがわかる。
でもその心地よさに深呼吸しようと深く息を吸い込むと、肺一杯に入り込んでくるのは焼けるような熱い空気なのだ。
身体の中と外が別次元のようにすれ違っていた。
顔を洗った時の水滴が、蒸発してうっすら湯気を立てている。

「暑いで御座るなぁ……」
「うん。まるで蒸されているお饅頭の気分ね…」
「お饅頭、食べたいので御座るか?」
「……うん」
「じゃあ、この後の買い物のときに買って来よう」
「ありがと」



暑い暑い、夏の日だった。
こんな風に、じんわりと脳が溶けるような、熱い空気に包まれて。
頬を流れるのが、汗なのか涙なのかもわからなかった。




「薫殿。何を考えている?」

全てを見透かすような剣心の問いかけがあったからなのか、暑さのせいで頭がぼやけていた からなのか。
考えていた事を、思わず口に出してしまった。


「こんな風な、暑い日だったの。母が亡くなったのは」

どこもかしこも本当に暑くて。
道場も、居間も、縁側も、どこも全部暑くて。
なのに母の部屋だけは、ひんやりとしていた。そして母の手も、冷たかった。

「それまでずっと、長い間病気で、こんなふうな暑い日に、眠るように逝ったの」

恐らく安らかな最期だったとは思う。
布団に横たわる母の顔が生きているのと変わらずに美しかったことも覚えている。
握っていた手が段々と固さを増していき、真っ白な頬に触れると、
期待外れのその冷たさにビックリして、思わず手を引っ込めたことも。

「動かなくなった母の身体にかじりついて、随分と駄々をこねたんだけど、
 ほら、真夏だったでしょう。だから遺体をそんなに長い間、そのままにはしておけなかったのね。
 引き剥がされて、母の身体に死に装束が着せられていくのを、泣きながら見てた」

つらつらと喋りつづける私の話を、剣心は黙って聞いている。

「いよいよ棺に入れられるという時に、私、何を思ったか、
 必死に両手で母の口を塞ぎ始めたのよ。変でしょう?
 そんなことしたって、生き返るわけはないのに」

ただ何かを、塞ぎ止めたかった。
母の身体から零れ落ちようとしている、もしくは零れ落ちてしまった何か。
人が、魂とか、霊魂とか、そういう風に呼んでいるもの。生きていくための、それが無くては生きている ということにならない、大事な何か。
自分の小さな手では塞ぎきれないような気がして、もどかしかった。

「剣心、流れていくものは、流れていくのが摂理となっているものは、どうやっても止められないのね。
 私が母の死の道程を止められなかったように。父が戦地に赴くのを、父が戦場で死ぬのを、
 私が一人取り残されるのを、私が止められなかったように。
 目を瞑っていても、泣けば涙が零れるでしょう?
 私にとって世界とは総じてそういうものだったの。
 例えば手の平で水を掬っても、いつのまにか全部が無くなっているような。
 少なくとも私にとって世界とはそういうものだったの。
 自分に出来ることはたかが知れていて、現実はただ無情に過ぎて行くものばかりだった。
 それでも私は、水が零れないようにいつも必死になっていた。
 いつも、足掻いていたかった。
 泣きながら『こぼれないで』と呟きながら。
 それが叶えられることは、結局一度もなかったのだけれど」

半分残った砂糖水を、左手の掌に流すと、ぽたぽたと隙間から滴り落ちて、やがては無くなった。

「そして拙者も、零れ落ちてしまうものの一つだと、そう思っている?」

黙って聞いていた剣心が暫くぶりに口を開くと、その口からは今まで聞いた中で一番 優しい声が、発せられた。
あまりの優しげな声音と言葉に、一気に涙腺が緩む。
凄い速さで目に涙が盛り上がってきて、あっという間にぼろぼろと流れ落ちた。

「ううん、ううん、剣心。貴方だけは違うと思ってる。そうであって欲しい。
 そうでなきゃ駄目なの。私は貴方だけは、この手で掬い損ねたくない」

涙に咽ながらそれだけ言うと、あとはもう喉が詰まって言葉にならなかった。
やんわりとした力で袖を引っ張られると、ぼすっという音がして、私はすっぽり剣心の腕の中に収まった。
男の人にしては華奢な身体なのに、それでも自分を覆う胸板と腕には確かな厚みがある。

「大丈夫。拙者は消えてなくなりはしないよ」

懐に私の頭を抱えながら、私の背中を緩やかに擦りながら、子供をあやすように剣心が言った。

「大丈夫。貴女は手に入れたんだから」

そうだ。私はようやく手に入れたのだ。
無くすばかりが人生ではないはずだ。

家も庭も道場も、何一つ子供の頃から変わりが無い。
母が死に、父が死に、私だけが変わらない風景にとり残された。

私は家族が欲しかったのだ。
血なんて繋がってなくていい。赤の他人で構わない。
流れていくばかりの現実の中で、何か一つでもいいから手元に留まるものが欲しかった。

ぽんぽんと一定のリズムで背中に伝わる振動が、かつて自分をあやした父のそれと似ていた。
日向でよく乾かされたお陰でふんわりと着物から香るお日様の匂いが、かつて自分を抱きしめた母のそれと似ていた。

泣くと、熱が上がるような気がする。
私の涙と嗚咽で剣心の着物はぐちゃぐちゃで、私の頭もますます熱く滲んでしまった。
熱すぎて、熱が上がりすぎて、意識が段々遠のいていくのがわかる。
このまま眠ってしまいたい。


剣心。
どうか、私の父になってください。
どうか、私の母になってください。
どうか、私の伴侶であってください。


どうか、私の家族でいてください。










モドル。