憧れが、強かった。
刀を持つ剣心の、依って立つ生き方に。
そして同じくらいに嫌いだった。
「他」を捨ててしまえる、儚さが。











逃亡
















それは微かな反抗だった。上手くいきもしないような。そうとわかってはいても。


真っ暗な中を、ひたすらに走る。何も履いていない足が地面を蹴って、鈍い痛みが意識を繋いだ。
胸に抱えた刀がカチャカチャと音を立てる。ああもう。なんて五月蝿い。
このまま走っていって。一体私はどこに行こうというのだろう。どこへも行けはしないのに。
裸足のまま髪を乱して、息を切らして、子供のように、この刀を抱えたままで。

一歩踏み出すごとに、刀は鳴る。
まるで持ち主のところへ自分を帰せと、激しく抵抗しているようだった。
そんなことまでが悲しい。

失くしてしまおうと。ただそれだけが頭を一杯にしたので。それだけで一杯になってしまったので。
そんなことをしても無駄だとか。意味がないとか。考えることが出来なかった。
ただ、こんなものが無くなってしまえばいいんだと。そればっかりを考えて。


朧げな月の光を反射して、腕の中の逆刃刀が、気高く光った。










剣心が、こまめに愛刀を手入れしていることは、知っていた。
日常の手入れとして打ち粉をふるい、三月に一度は油を塗る。
なんら珍しいことではない。
刀を錆びさせないためには当然必要な作業で、
刀を常に万全な状態にしておきたいならやって然るべきのことだった。

だから今日も、縁側で月の明かりを頼りに剣心が刀を手入れしているのを見たときも、
ああまた刀を手入れしているのだなと、そう思った。
部屋の中から刀を見つめるその横顔を見ていた。
剣心は必要な道具を綺麗に床に並べると、口に懐紙を銜えて、静かに刀を鞘から抜く。
どうしてそんなことをするのかと訊いたら、刀身を見るときに息がかからないようにするためだと、
前に笑いながら言っていた。


真剣に、大事そうに刀を扱う様子を眺めて、沸々と焦燥が湧いてきたのは、
手入れもようやく終わりに差し掛かった頃だろう。
全ての作業を終えると一度ずつ刃の両側を確認し、剣心は静かに刀を鞘に納めた。
納刀するときには鍔鳴りをさせてはいけないという。
目釘を痛めるだけでなく鯉口を害す原因にもなる、何より礼儀作法上、決して良いこととは言えない、と。
礼儀作法。そんなものがあるのだ。
所詮人を殺すための、道具なのに。

「一度に斬れるのはせいぜい五人か六人」と。
聞いたのは誰からだったか。
何人もの骨を切れば刃が欠けるから、一つの戦いが終ればその度ごとに、刀を砥ぎに出すのだ、と。
剣心も以前は、頻繁に刀を砥ぎに出していたのだろうか。
一つの斬り合いが終っては、刀を磨き、また斬り合いに臨んでは、また刀を砥ぎ。
再び人を、斬れるように。
何度でも人を斬るために。













世のほとんどの人が深い眠りに入る頃、気がつくと刀を持って家を飛び出していた。
隣で眠る剣心の深く眠っている様子を確認し、枕元に置いてあった逆刃刀を掴んで。
どこでもいいからこの刀を捨ててしまおうと、そう思って。
走って走って走った。
両手で抱えた刀は、走るには予想以上に重かった。

時代が変わってもなお、彼は刀は捨てなかった。
人を斬ることは止めても、剣の道は捨てなかった。
これからの人生を人を救うことに費やすと決めても、志は変わらなかった。
きっとそのためなら、他の何をも捨ててしまえるだろう。
剣に依って立ち、剣に依って生きる。
その儚さがもどかしい。
私たちの側に留まることを選んだけれど、それは絶対に彼の「一番」にはなれないだろう。
わかっていても悔しかった。



肺が悲鳴をあげて、走る速度が落ちた。
段々と小走りになって、最後には早足になる。
息を切らしながら目からはぼろぼろと涙が落ちた。
こんなことをしても意味なんてないことは十分すぎるほどわかっているのに。
剣心が気がつかないわけはないのに。
それでもどうしても剣心の潔白さを肯定出来なかった私を、どうか許して欲しかった。
今にも後ろから、追いかけてくる足音が聞こえてきそうな気がする。
もしかしたら私の行く手には、既に剣心が待っているかもしれない。
刀を抱えて走る私を見て、それでも彼は優しく微笑むのだろうか。











「薫殿。拙者の愛刀を返しておくれ」と。























モドル。