彼女の胸に長刀が突き立てられてその黒い瞳が完全に光を失っているのを見た時、
彼の胸に真っ先に湧いて来たのは理不尽な失望だった。
理不尽としか言いようがないし彼女は失望される謂れなどこれっぽっちもない。
彼にはそう思う資格さえなかったはずなのだけれども、それでも彼は思ってしまった。









━━ああもうこれで彼女をこの手に抱くことは未来永劫できなくなった━━














幕 間
















神谷薫の無残な遺体が恵らの手で清められた頃には緋村剣心は既に姿を消していた訳ではあるが、 彼は彼なりに考えてその場から立ち去ったのであって、尻尾を巻いて逃げたのとは少し違った。
考えて、という表現もおかしいかもしれない。論理立てた思考などできる状態ではなかったし感情を吐露できるほど元気でもなかった。
だから彼はただただ衝動だけで動いた。


もの言わぬ骸となり果てた美しいだけのその死体にはもはや薫の魂の一かけらでさえ残っているとは思えず、 ならばその骸から抜け出てしまった『本当の薫』がきっとどこかに居るはずと、その『本当の薫』を探しに行かなくてはいかぬと、 わけのわからない衝動に突き動かされて、気がつけば剣心はふらふらと道場を抜け出していた。


どこに居るのだろう。
きっとどこかには居るはず。
居ないわけがない。
探せば見つかるに決まっている。


最初に向かったのは薫とよく連れ立って買い物に行った商店が並ぶ大通りだった。
血みどろの剣心がふらつきながら歩いていると擦れ違う者がみなぎょっとして振り返ったが、 誰も声をかけてくることはなかった。


馴染みの味噌屋の中を覗いてみる。薫はいつも味噌だの醤油だのといった調味料を一度に買い込む癖があって、 それを持たされるのは毎回剣心だった。『だって重いし剣心が一緒の時に買った方が楽なんだもの』と言って ケラケラと笑う彼女の声が聞こえた気がした。


次に向かったのは薫のお気に入りの小間物屋だった。ここには彼女好みのリボンやら布やらが揃っている。 定期的に通っているせいか店の女主人と薫は顔見知りになってしまっていて、何度か付き合わされて店に来た時には、 姦しい女同士の会話に置いてけぼりを食らうのが常だった。さんざん自分を放置してあれやこれやと物色した後で、彼女は決まって こちらを振り向いてこう聞くのだ。『ねぇ剣心。これどう思う? 似合うかな?』







夜が来て、陽が昇って、次の夜が来て。
そしてまた朝が来て、彼女が串刺しにされてから何回目かの夜が訪れる。






食べもせず飲みもせず、眠りもせずに探し回ったのに、結局彼は“本当の彼女”などというものを見つけることはできなかった。
時々連れ立って行った甘味処。一緒に歩いた小道。よく二人で眺めた川の、草が生い茂る河川敷。記憶にあるありとあらゆる場所を巡ったのに、どこにも薫の姿は見えなかった。


━━そんなはずない。そんなはずはない。


剣心にとっては薫はまさに「生」の象徴だった。
人が生きるということを彼女以上に体現しているものを、剣心は他に知らない。 薫という人間と死というものが結びつくなんてあり得ないことだった。だって彼女はあんなにも生きていた。


『神谷の娘の葬儀が執り行われた』という誰かの噂話が遠くに聞こえたのは、剣心がふらふらと夜の裏路地を徘徊していた時だった。
神谷の娘という言葉に反応して声の聞こえた先に顔を向けると、喪服姿の町人が何人か、暗い通りの向こうに消えて行くところだった。


━━葬儀。


元は薫であったはずのあの骸が、弔われたということだろうか。
弔われてしまったら、薫の入れ物であったものにさえ二度と触れられなくなるのだと気がついて、剣心は何かに引っ張られるようにヨタヨタと寺へ向かった。






墓はすぐに見つかった。
墓地の中でも一番供え物が新しく、埋めた土が一番湿っている場所。
墓石には神谷家の墓と彫られていて、夜の暗がりでも剣心にはよく見えた。


手を合わせようなんてことすら考えなかった。 膝をついて地面に手の平を当ててみる。この下に、あの美しいだけの骸が、美しかった薫の成れの果てが、埋まっているのだ。


━━こんなことならさっさと抱いてしまえば良かった


何かに安心してはいなかったか。
どこかで自惚れてはいなかったか。
黙っていても流れが二人を添い遂げさせるなどと、根拠のない予感に縋ってはいなかったか。


冷たく暗い棺桶の中で、彼女は一人少女のまま朽ちていく。
恋人も持たず、結婚もせず、子の一人も産まず、その肌の匂いすら自分に残さないまま。


そう思ったら手が動き出していた。
埋められたばかりの土は素手だけでもどうにか抉れるほどには柔らかく。
しかし途中から手だけでは足りなくなり、その辺に転がっていた木の枝を何本か使い捨て、一心不乱に数時間をかけて掘り続けると、 ようやく棺桶の蓋が見えた。




もしかしてもしかすると、この蓋を開けたらいつもの彼女が『遅いわよ剣心、待ちくたびれたじゃない』と言って頬を膨らませながら、 それでもどこか嬉しそうに自分に笑いかけてくれる気がした。


閉じられている蓋を開ける。軋む木の音がして、差し込む月の光に中のモノが少しずつ照らされた。




「薫殿…?」




飲まず食わずで乾ききっていた剣心の喉からは、掠れた小さな囁きのような呼び声しか出てこなかった。
そして蓋を開けきって姿を現した薫は、期待に反してピクリとも笑いかけてはこない。




「薫殿…?」




足を折り曲げた体勢で丸い桶の中に詰め込まれた彼女は、一見生前となんら変わらない様子で眠っているように見えた。 耳をすませば健やかな寝息までが聞こえてきそうだった。いつもと違うことと言えば、月明かりだけとは言え血色が悪すぎる顔色と、 左頬に貼られた四角い薄布の存在だけだ。




「薫殿……怒ってる……?」




弔いもせずに側を離れた自分に、彼女はきっと腹を立てているに違いない。地面に頭を擦りつけて謝れば許してくれるだろうか。


許してくれる? それはおかしい。だってこの骸はもはやただの肉塊で、本当の彼女はここには居ないのに?


「でも単なる入れ物にすら俺は名残りを惜しんだのだよと、少しは貴女への言い訳ができるだろうか」


口に出してその言葉の場違いさに自分でも吐き気がした。詭弁もいいところだ。言い訳になるなんて思っちゃいなかった。 彼女に弁解するつもりも資格もない。ただ自分がそうしたいだけのくせに、この期に及んで“彼女のために”だなんて大義を探そうとする。


「俺が貴女に触りたいんだ。それだけだよ。だから怒らないで。馬鹿な男が最後の最後にやっぱり馬鹿なことをするって、 呆れてくれていいから」


骸だけでもいい。せめて最後に身体を繋げてみれば、彼女の肌の匂いと感触だけは携えて自分も死ねるだろう。






棺桶の蓋をその辺に放り投げる。
地面に這い蹲って上半身を桶の上に投げ出すと、彼女の細い腕を掴み上げた。
予想に反した固い感触に一瞬怯む。柔らかかったはずの薫の二の腕は当然のように固く冷たくなっていて、 それでも剣心は彼女の身体を強引に引き上げた。


どこかの骨が軋む音がした。関節なんてその役目を果たさなくなっているのだから当たり前だ。
脇の下に手を入れて上半身を引き寄せると、静かに目を閉じる薫の顔がすぐ目の前まで来た。


「薫殿」


いつかそうしたように彼女の身体を抱え込む。
彼女が好んで身につけていた匂い袋の香りと一緒に、きっとその肌の香りがするのだろうと思っていた剣心は、 鼻孔に届いた明らかな死臭に思わず目を見開いた。


「かおるどの…?」


血のめぐりが止まって心の蔵が動きを止めた身体は固く冷たく静かに腐敗の一途を辿り、肉が腐っていく時の 独特の香りを撒き散らしている。


死の匂い。
人が朽ちていく匂い。


「……っ」


何もかもが遅かった。
入れ物は入れ物としての役目すらもう果たしていないのだ。
最後の名残りを惜しむことができるだけの残り香さえ欠片もない。



「これじゃあ抱いたって意味がない……何の意味もない……」


せめて記憶に留めたかった香りも感触もこれでは何一つ残らない。
それどころか剣心に残るのは、固く冷たい骸の感触と朽ちかけた彼女の死臭だけ。


━━罰が当たったのだ━━


もたもたしていた自分への、これは最後の駄目押しだ。
彼女の記憶すら持たずに地獄へ行けということなのだ。


静かに薫の身体を元のように棺桶に納める。
蓋を閉めて封をすると、剣心は淡々と掘り返した土を被せた。












朝陽が登り、夜が来て、次の朝が来て。
そしてまた陽が沈んで、彼女が死んで何回目かの朝が訪れる。
















落人群というゴミ溜めのような場所に彼が腰を下ろした時には、
彼の中での彼女の記憶はもう取り戻せないほど濃い死の匂いに覆い隠されてしまっていた。

























モドル。