夢を見た。

幸せな夢だった。
甘く脳を痺れさせる、都合の良い幸福で溢れんばかりの。

『例えば』と仮定しさえすれば、あり得ない今をいくらでも思い描くことができる。

例えば、もし




私たちが別の出会い方を、していたなら。









あるはなし










夕暮れ間近の町中を歩く。
肩に担いだ竹刀の先にひっかけた防具袋がぶらぶらと揺れて、足元に伸びた自分の影にも奇妙なコブを作っている。

「おい薫早くしろよー。腹減ってんだよ俺は。ちゃっちゃか歩けよなぁ」

自分の影をぼんやり見ながらとぼとぼ足を進めていた薫に、数歩先を歩いていた弥彦が呆れ気味に振り返った。
唯一の弟子は今日も元気だ。

「わかってるわよぉ。疲れてるんだからしょうがないじゃない。
 今日で出稽古5日連続だったのよ? 少しは師匠を労わりなさいよね」

追いついた薫がこぼす愚痴に、弥彦はフンと鼻を鳴らす。

「疲れてんのは俺だって同じだっつーの。もう年なんじゃねぇの?
 十代も終わりに近くなるともう立派なババァだし……っ痛ぇ!!」

問答無用で特大のゲンコツを落とす。ゴツンと重たい音がして、弥彦は涙目で頭を抱えた。

「その他大勢に混じって教わる側のアンタと一緒にしないでくれる?
 こっちはね、一人で何十人相手に指導してるんだから。疲労も心労も比じゃないのよ」

「だから何だよ暴力女!たんこぶできたらどうしてくれる!」

怒り心頭の弥彦が掴みかかろうとしたが、薫はひょいと一回り以上小さい弟子の頭を押さえこんだ。
まだまだ体格は薫の方が大きい。ぶんぶん振り回される腕も余裕でかわすことができる。

「あーら少しは賢くなるかもしれないじゃない。愛の鞭ってやつよ」

「ぬかせっ」

ぎゃんぎゃんと喚き合いながら往来の真ん中で小突き合う。
いつもの日常にいつものやり取り。取り立てて何も変わらない風景。

だからこそそれが目についたのかもしれない。
いつもの町中、いつもの帰り道。だからこそ。

「……ねぇ、あれ何かしら」
「あ?」

唐突に動きを止めた薫の目線を追って、弥彦もクイと道の先に顔を向ける。

そこには見慣れない一人の物売りが居て、地面に敷かれた布の上の何かを朗々と売り込んでいるところだった。

「さーあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。これなるは世にも珍しい珍品の中の珍品だ。
 どんな傷でも一塗りすればあら不思議。たちまち治っちまうガマの油とはこれのことさぁ。
 おっとそこのお兄さん、アンタ血の気が多そうだね、どうだい一つ買って行かねぃかぃ?
 興味ない?そんじゃあこれはどうだ?
 目当ての相手に飲ませりゃああっという間にアンタの虜、効果抜群の惚れ薬だ!
 他にも色々あるから見て行きなよ、これはな……」

二十歩ほど離れた道の端っこで、木箱に腰かけて編み傘を被ったままの男が、煙管片手に道行く人を呼びとめては売り込みをかけている。

「ただの物売りだろ、何だよお前ガマの油だの惚れ薬だのに興味あんのか?
 あんなのどうみても眉唾だぞ」

「いや別に興味はないけど。ここら辺であんなの見たことないから珍しいなと思っただけよ」

「ふーんどうだかな。さては剣心に一服盛ろうとか思ってるんじゃね……いってぇ!!」

再度大きなゲンコツを落とす。
今度こそタンコブができること間違いなしのそれをさすりながら、弥彦は憤懣やるかたない様子で薫を睨みあげた。

「剣心に言いつけるからな!俺はもう先に帰る!お前はせいぜいちんたら歩いてこい!」

「ええどうぞ。好きにすればぁ?」

肩を怒らせて走って行く弥彦の背中に、ひらひらと手を振る。

「夕飯は湯豆腐がいいって剣心に言っておいてね〜」

あっという間に見えなくなった弟子の姿に小さく溜息をつき、薫もまたのろのろと歩き出した。
細く伸びた影法師がゆらりゆらり、自分を先導していく。


(疲れたな。眠いなぁ。明日も出稽古。明後日はうちの道場で稽古。
 次の休みはいつだっけ。剣心は今日は何してたんだろう。
 退屈はしていなかったかしら。夕飯は湯豆腐にしてくれるかな。
 今日も一緒に寝たいって言うのかな。多分言うんだろうな。
 嬉しいけどでも眠いな。やっぱり暫くは別々の部屋で寝て貰おう。
 でも嫌われたくないな。でも眠いし。でも………)


気だるい身体に比例するように思考は散らばっていく。
とりとめもないことを考えながら物売りの前を通り過ぎようとした時、木箱に座ったままのその男が薫にも声をかけた。

「そこのお嬢さん、ちょっと見て行かないかい」

思わず足を止めたのは、別にガマの油に興味があったわけでも、惚れ薬に気を引かれたわけでもない。
振り向いた薫の顔を見て、煙管を吸おうとしていた男は「お」と声をあげた。
編み傘に隠れていて顔の上半分はこちらからは見えない。
顔の下半分に目立った皺もないことから、比較的若い年齢だろうということだけは推測できた。

「おやまぁえらい別嬪さんだ。こりゃあ失礼したね。あんたみたいな綺麗な人にゃあ惚れ薬なんか必要ないか」

「ええ、別に興味ないです」

「だろうねぇ。でも見たところ剣術でもやってるようだし、どうだいガマの油なんて。
 玉の肌についた傷も一発で治るぜ」

「いえそれもいりませんから」

苦笑しながら小さく手を振る。そのまま立ち去ろうとして、しかし布の上に置かれた一つの品が薫の目にとまった。

「……それは?」

ガマの油だの惚れ薬だの、諸々のいかにも怪しげな品々から弾かれるように隅っこに置いてあるそれは、 どうやら練り香のようだった。小さな壺と丸薬がひっそりと鎮座している。

煙管をぷかりと吹かした男が、ニンマリと口の端を上げた。

「おっと、それに目を止めるとは、なかなかにお目が高いねぇ」

男が手に取って壺の蓋を開ける。薫の方に差しだすと、ふわりと不思議な香りが鼻孔に届いた。

「いい香りですね、あまり嗅いだことがないけど」

「いやいやいやただの練り香と思ってもらっちゃあ困るねぇ」

男が顔を上げる。でも西日が反射して顔はよく見えなかった。


夕暮れ時は魔が差す時間帯だと言ったのは、誰だったか。
小さな黒い壺は鈍く光っていて。不思議な香りに目がくらむ。

男の声がどこか遠くで聞こえた。


「これはよぅ、見たい夢を見せてくれる、香なのさぁ」







***







「か…る…おき……い…」

誰かの声が聞こえる。

「薫……薫!起きなさい」

誰かが自分の肩を揺り動かしている。

「もう稽古を始める時間だぞ、今日は一緒にやるって約束しただろう。
 早く起きて朝餉を食べなさい」

何とか目をこじ開ける。薄らと開いた瞼の先に、見慣れた顔があった。

「うぅ…剣心…?」

「こら、お兄ちゃんに向かって呼び捨てとは何だ。生意気だぞ」

「うぇぇ…?」

腕を引かれて無理矢理に起き上がる。
なんだろう、いつもと違う。いつもより身体が軽い。
自分の手に目を落とすと、ギクリとするほど小さい手の平と指があった。
顔に手をあててみる。ぺたぺたと触り回すと、顔も頭も小さかった。

手早く布団を畳んだ彼は、まだ焦点の合わない薫を見て呆れたように溜息をつく。

「本当にお前は寝起きが悪い。そんなんじゃあいつまでたっても強くなれないんだからな」

何故か道着を着ている剣心は、いつもよりだいぶ若く見えた。まるで少年のようだ。
それに、それに。

「け、剣心…なんで十字傷がないの…?」

ぽかんと口を開けたまま尋ねると、彼は更に渋面を作った。

「はぁ?何言ってるんだお前。まだ寝ぼけてるのか?
 それに呼び捨てはやめなさいって言ってるだろう。
 今度呼び捨てにしたらお仕置きだからな」

「早く着替えな」と言って部屋を出て行った剣心の、長い尻尾のような赤毛がひらりと揺れた。

おずおずと立ち上がり、障子を開けて廊下に出る。
縁側に面した庭で剣心が木刀を振り始めていた。

「お……お兄…ちゃん……?」

柱に寄りかかりながら呼んでみる。
すると木刀を振っていた剣心は動きを止めて、薫を振り返った。

「お…おにい…きゃあっ」

ふらふらと進もうとして足を踏み外した。
縁側から転げ落ちそうになって、でも固い地面に打ち付けられるより前に、飛んできた剣心が支えてくれる。

「…っとに…何をしてるんだ薫…」

「おに、おにいちゃ…?…え…なんで…」

何が何だかわからない。薫にはわからない。
混乱し過ぎて目じりに涙が浮かんできた。
お兄ちゃん?

そうだっけ?

………

……そうだ、この人は自分の兄だった。なぜわからなかったんだろう。

「ああもう泣くな。大丈夫だよ、お兄ちゃんがいつだって、お前を守ってあげるんだから」

屈託なく、優しく笑う剣心が薫の頭を撫でて抱きしめる。
その暖かさに気が遠くなった。
心地良い。安心する。

自分を包む道着の袖をぎゅうと握り締めた。

そうだ、ここには駆け引きも色も恋もない。

こんな安全地帯、他にはきっとありはしない━━━




***




「………うわー……」

布団の上でパチリと目を開けた薫は、天井を真っすぐ見上げたまま茫然と呻いた。居たたまれなさに顔を覆う。
外ではチュンチュンと雀がさえずっている。紛れもないいつもの朝だった。
掛け布団は盛大に跳ねのけられていて、緩く編んで寝たはずの髪もぐちゃぐちゃにほつれていた。

顔を覆ったままむくりと起き上がる。
指の隙間から枕元をちらりと確認すると、そこには黒く小さな壺が、かすかに燻ぶっていた。

「………」

もう一度顔を手で覆い直して、はぁと深く息を吐く。

うららかな朝陽が差し込む室内に、甘く不思議な香りがたちこめていた。




***




剣心が薫のいつもとは違う匂いに気が付いたのは、ふらふらと起き出して来た彼女が 大きなあくびをかみ殺しながら居間に入って来た時だった。

「おはよう薫殿」
「おはよー剣心。今日の朝ご飯はなあにー?」
「焼き魚とほうれん草のお浸しだよ」
「そっか〜」

まだ眠いのか、ふにゃふにゃと会話をしながら席についた薫から、嗅いだことのない甘い匂いが漂った。

「おや、匂い袋を変えたのでござるか?」
「……え?……ああうん。そうなの。変えたの。変な匂いかな?」
「いや、そんなことはないでござるよ」

剣術の稽古をしている時以外、薫は身だしなみに非常に気を使う。
匂い袋もいくつかの種類を揃えていて、気分によって持つものを変えているようだった。
だからこの時も、特に不思議には思わなかった。
ああまた新しい匂い袋をどこぞで買って来たのだろう、そう思うくらいだった。

「あー腹減った!剣心メシ!」

ドタドタと足音を鳴らして居間に入って来た弥彦が卓袱台の定位置に腰を下ろす。

「これ弥彦、おはようぐらい言いなさい」

剣心が形ばかり窘めると、「あーはいはいおはよう」とおざなりな挨拶が返った。
さっさと白米に手を付けようとしていた弥彦は、箸を握ったところでピクリと動きを止めて鼻に皺を寄せる。

「…ん…? うわ、なんかくっせ」
「おろ?飯が匂うか?おかしいな、そんなに古い米ではないが…」
「いやちげぇよ。そうじゃなくて……薫、お前だ、お前くっせぇぞ。何だよこの匂い」

横で座っていた薫からこころもち身体を離すようにして、弥彦が顔を顰める。

「失礼ね、匂い袋を変えただけよ。いい匂いじゃない、ねぇ剣心?」
「ああ、拙者は特に気にならぬが…」

剣心がうんと頷く。弥彦はげんなりした表情で手をパタパタと顔の前で振った。

「けっ、これのどこがいい匂いなんだか。大人の趣味ってやつはよくわかんねぇな」






***






「薫さん、駄目ですよ寝ちゃ」

突然呼びかけられて、薫はビクリと肩を揺らした。
どうやら正座をしたまま居眠りをしていたようだ。道場の床が足に固い感触を伝えていて、 長い間同じ姿勢でいたせいか、身体中がギシギシと固まっていた。

慌てて顔を上げる。すると正面で同じように向かい合って正座をしている彼と目が合った。
上下とも紺色の道着と袴に身を包んだ剣心。いつもより少し老けて見える。
何故か彼は眼鏡をかけていて、そして左頬の十字傷はいつもより薄く古くなっていた。

穏やかさと硬質な厳しさが混在する佇まいが、新鮮と言えば新鮮だ。
彼は普段こんな咎めるような顔を薫に見せることはほとんどない。

「困りますねぇ、黙祷中に寝ちゃったら黙祷じゃなくなっちゃいますよ。
 どうしたんですか貴女らしくもない」

「あ…え…?…あ…すみませ、ん……?」

「なんで疑問形なんですか。まぁ疲れているのもわかりますけど。
 ここのところ出稽古続きでしたからね」

横に置いていた木刀を持ってよいしょと立ち上がった彼は、パシンと一回袴を払うと道場の扉の方へと向かった。
薫も立ち上がって後を追う。剣心の髪はうしろで一つに結わえられてはいるものの、その長さは記憶にあるよりもずっと短い。

剣心が扉を開け放つと、眩しい太陽光が目に飛び込んできた。

「今日の稽古はやめにしましょう。ゆっくり休んで、また頑張ってもらわないと。
 うちで師範代を務められるのは薫さんだけですから」

肩越しに振り返った彼の顔が、光に反射してぼやける。

「なんたって薫さんは私の一番弟子ですからねぇ。期待してますよ」

にこりと笑った剣心の、その信頼に満ちた顔と声。

弟子?

そうだっけ?

………

……そうだった、この人は私の師だ。なぜわからなかったんだろう。

光を手で遮りながら、薫の口からは自然と返事が漏れて出た。

「はい先生、私、頑張ります」


信頼と尊敬と、厳しさと励まし。
ここには駆け引きも色も恋もない。

こんなにも美しい関係など、他にはきっとありはしない━━





***





「……どの……かおるどの!」

強めに肩を揺すられて、薫はハッと目を覚ました。

「危ないでござるよ、針を持ったまま…眠いなら昼寝をした方がいい。布団を敷こうか?」

少し心配そうに覗きこむ剣心の顔がすぐ上から見下ろしている。
膝の上には反物が乗っていて、右手には糸の通った針を摘んだままだ。
繕い物の途中で眠りこんでしまっていたらしい薫は、渦巻く思考をすぐには整理できなかった。

「ぇ…と…せんせ…」
「は?」
「ああ違う…ぇと……剣心!」
「はぁ、なんでござろう?」
「ああううん、なんでもないの。昼寝はしないから大丈夫。
 溜まってる繕い物しなきゃいけないし」
「しかし…そんな風に船を漕いでいるようではいつ針を突き刺すか…」
「だーいじょうぶ!少し寝てもうすっきりしたから」
「……そうでござるか…? ならいいが…」

しぶしぶ引き下がった剣心が、何かを探るような目で薫を観察している。
それに気が付かないフリで、薫はいそいそと縫い物を再開した。





***





「なー剣心、薫の奴、最近タルんでねぇ?
 あいつここんとこずっと、暇がありゃあ居眠りしてんだぜ。
 今日だってまだ八時だってのにもう部屋に引っ込んだし」

風呂上がりの弥彦が髪を拭きながら愚痴をこぼす。
卓袱台の上に広げた本を読んでいた剣心は、壁際に置かれた時計をチラと眺めて時間を確認した。 確かにまだ八時だ。薫が寝るには随分と早い時間である。

「疲れが溜まっているのかもしれぬな」
「でもよー、具合が悪そうってわけでもねぇじゃん。むしろ元気だし。
 昨日なんかな、出稽古の最中に変な思い出し笑いとかしてたんだぜ。気持ちわる」

弥彦の言うことに、思い当たるフシは剣心にもあった。

薫はもともと、良く眠る娘ではあった。
睡眠時間は普通の人よりはよほど長い。ほとんど毎日剣心よりも早く寝て、遅く起きる。おまけに寝起きは悪く、 朝になってもぐずぐずと二度寝三度寝は当たり前だ。
それでも一度起きてしまえばあとはキビキビと生活するし、日中に昼寝をすることも滅多になかったのだが。

ここ最近は陽の高いうちから居眠りをしているのを見かけることが多くなっていた。

「剣心も大変だな。ここ最近はお預け喰らってるんだろ」
「は……?」
「知ってるぞ、お前らがようやく懇ろになったことくらい。俺も出来るだけ早く左之助の長屋に移るようにするからさ」
「………」

わずか十歳の弥彦に気を使われて、どう反応すれば良いものか。剣心は微妙な顔のまま答えに窮した。


「確かにここんとこ忙しいけどさ、それにしたって薫の奴寝過ぎだよな。
 おまけにあのくっせぇ匂いまだするし」

「いや…それはお主の好みの問題だろうに。拙者はくさいとは思わぬよ。
 少し甘ったるくはあるが」

剣心が苦笑して言うと、弥彦はうぇとえずく真似をして立ち上がった。

「俺ももう寝る。明日は朝早くから赤べこの手伝いすることになってるから。
 俺の分の朝飯はいらないからな」

「そうか、わかった。おやすみ」





***






翌日の朝。
台所で朝餉の支度を終えた剣心は、いつまで経っても起きてこない薫に、やれやれまたかと肩を落とした。
弥彦はとっくに出かけてしまい時刻はすでに十時をすぎている。薫は昨晩八時前に床に入ったのだから、 少なくとも十四時間は寝ているわけだ。

「いくらなんでももう起こした方がいいな」

寝起きの悪い薫を起こすのは非常にめんどくさい。
すんなり目を覚ましてくれればいいが、たいていは難儀するのが常だった。 寝ぼけた薫の手や足が飛んで来て痛い目にあったことも何度かある。

「水も用意していくか…」

起き抜けに喉が渇いているだろうからと、大きめの湯呑に水を汲んでお盆に乗せた。



「薫殿、そろそろ起きた方がいい」

片手に湯呑を乗せたお盆を持ったまま、彼女の部屋の襖を開ける。途端にむわっと鼻に届いた香りに、剣心は思わず口元を手で覆った。

「なんだこれは…どうしてこんなに匂いが…」

部屋の中に敷かれた布団では薫が気持ちよさそうに眠り続けている。
剣心は急いで布団の横に膝をつくと、彼女の肩をポンポンと叩いて呼びかけた。

「薫殿、もう起きなさい。薫殿、薫殿」

何度か呼んでも薫は一向に目を覚まさない。

「薫殿? か……」

ふいに彼女の枕元の畳に置いてあるものが目に入った。黒く小さな壺。その壺から薄らと煙が立ち上がっている。 この甘い匂いの元は間違いなくそれだった。

ざわざわと背筋が泡立つ。これはいくらなんでもおかしい。

「薫殿!」

形振り構わずその白い頬を叩く。パシンパシンと何度か繰り返すと、彼女はようやく目を開けた。

「ぅう…痛…なに…?」

ほっと胸を撫で下ろす。剣心が顔を覗き込むと、薫は彼の姿を見つけて笑った。


「あー、お兄ちゃんおはよう」
「寝ぼけている場合ではござらん薫殿、これは一体」
「あれぇ、お兄ちゃんじゃなかった?あれ、じゃあ先生?」
「この黒い壺は一体」
「んん?それとも幼馴染の心太くんだっけ?」
「……薫殿…? なにを言って……」


話が全く噛み合わない。
どこか焦点の合わない目でブツブツと呟き続けている薫に、剣心は側に置いていた湯呑の水を思い切り浴びせた。

バシャと派手な音をたてて薫の顔面に水がはねる。

「きゃっ、つめたっ………あ……あ、れ……剣心……」

ぽたぽたと滴を垂らしながら茫然と我に返った様子の薫に、剣心が厳しい顔のまま枕元の黒い壺を指さした。

「薫殿、一体これは何なのか、きちんと説明してもらおうか」






***






往来を眺めながら、編み傘を被った物売りの男は煙管をぷかりとふかす。
相変わらず木箱に腰かけたまま道行く者に声をかけては売り込みをしているのだが、 残念ながら商売繁盛とはほど遠かった。布の上の品々もたいして減ってはいない。そりゃあそうだ。 ガマの油や惚れ薬などといういかにも怪しげなものをほいほい買ってくれるほど、 世の人は騙されやすくはないのだ。

「おい」

突然かけられた声に、物売りは顔を上げる。赤い着物に袴姿の男が目の前に立っていた。 いつの間に立っていたのだろうか。まったく気が付かなかった。
返事をするより早く、手が伸びてきた。着物の合わせ部分を鷲掴みされ、有無を言わさぬ力で吊り上げられる。

「うわっ、わっ…な、なんでぇあんた…!」

「暫く前にここで黒い壺の練香を売っただろう」

赤毛に十字傷の男、腰には刀まで差している。

「い、い、いったい何のことだか…」
「とぼけるなよ。道着に剣術道具をぶら下げた若い娘に、おかしな甘言でもって売りつけただろう」

ギリギリと胸元を締め上げられ、物売りは顔を青くする。

「道着に剣術道具…あ、ああ!あの綺麗な姉ちゃんか。いや、まぁ売ったは売ったよ。 でもそれが何だってんだ」
「あの香の成分は一体何だ。睡眠薬でも練り込んであるのか。まさか幻覚作用のある麻薬など━━」

そこまで聞いて、物売りはぽかんと口を開け、そしてそのままゲラゲラと笑いだした。

「あは!あはははは!あんた、何言ってんだぁ? あの練香にそんな物騒なもんが入ってるわけねぇじゃねぇか」

笑いながら否定する物売りを、剣心はまだ疑いの目で見ている。

「しかし現に睡眠障害が」
「あのなぁ兄ちゃん」

いくぶん力の緩んだ剣心の手を、物売りはパシリと振り払う。乱れた胸元を直しながら、男は呆れたように肩をすくめた。

「あんなもん、ただの練香に決まってらぁ。確かに俺は言ったよ。『見たい夢が見られる』ってな。 だけどそんなのは商売のための売り口上だ。そんなの誰だってわかってることさ。 しがない物売りが口八丁手八丁。面白おかしく眉唾の品を売る。そんでたいくつな客がそうとわかりながら、話半分に買っていく」

物売りはどっかりと木箱に腰を降ろし、編み傘越しに剣心を見上げた。

「あんなもので本当に見たい夢が見られたってんならたいしたもんだ。そりゃあアンタ…」

━━本人がよっぽど強く、想ったからだろうよ━━









***









「……と言うことだから、おかしな薬などは入っていないそうだ」
「そう…ありがとう剣心。迷惑かけてごめんね」

庭にしゃがみこんだ剣心は、たき火の中に黒い壺の中身をバラバラと撒いた。
不思議な色の煙を吐き出しながら燃えていくそれは、相変わらず強く甘ったるい匂いを撒き散らしている。
背後では薫が気まずそうに縮こまっていて、剣心の無言の背中をちらちらと見ては言葉を出しあぐねているようだった。

「あの」
「なぜこんなものを買った?」
「………それは…」

立ち上がって振り返る。

薫は暫しの間沈黙し、やがて観念したように口を開いた。

「見たい夢が見られるって言われた時ね、思わず考えたの。
 『もし私たち二人が別の出会い方をしていたならどうなるのかな』って」

剣心は黙って先を促した。薫は更に続けた。

「私時々思うのね。
『もしもっと年が近かったなら』、『もし血の繋がりがあったなら』、 『もし友人として出会っていたなら』、『もし性別が違ったなら』。もしもっと…もっと……」

たき火は燃え続けていて、風に舞って灰が空中に飛んでいる。

「あなたと出会う、色んな可能性を考えた。あなたが兄だったら、きっと私はとんでもないお兄ちゃん子になって、 あなたも私にべったりで、誰もが羨む仲の良い兄妹になっただろうな、とか。あなたが師だったら、 私はきっと憧れに憧れて、少しでも認められたくて剣の道に邁進しただろうな、とか。 あなたが親友だったら、きっと何でも話せる唯一無二の友になっただろうに、とか」


全て仮定の話しなのに、それが簡単に目に浮かぶのは何故だろう。
本当は剣心だって、そんなよくある例え話を面白おかしく薫と笑い合いたかった。


「くだらないでしょ?くだらないよね。でもね、見る夢見る夢どれもこれも、うっとりするほど幸せだった。
……今、私たちはお互いへの恋心だけで繋がっている。それはとても素晴らしいことだけど、同時にとても脆いものだわ。 あやふやで不安定で、存在すら疑わしい。
私は時々思うの。そんな脆いものじゃなく、もっと強い、もっと決定的な、有無を言わさぬ繋がりが、あなたとの間に、あったならって」

もしもっと。もっともっともっと。
決して切れることのない、決して無くなることのない縁が、二人の間にあったなら。

恋などというあやふやで不確かなものに頼らずに、死ぬまで途切れることのない共にいられる道があったなら。
それはそれで幸せだったと、薫は思うのだ。





たき火はようやく燃え尽きようとしている。


剣心は灰の山を踏みつけると、少し乱暴に砂をかけて完全に火を消した。

「……本当にくだらぬな……」
「……うん……そうよね……」

向かい合わせに立つ二人の間には小さな石ころが二つ三つ転がっているだけだ。 それなのにどうしてこんなに乗り越えるものは多いのだろう。



「あやふやでも不確かでも、拙者はやはり恋に患っていたいと思う、貴女と一緒に。
 どんなに馬鹿みたいでもどんなに虚しい時があっても……それでも」

「……うん…ごめんね剣心…私もそう思ってるよ、そう思ってる」


光のせいなのか目に浮かんだ涙のせいなのか、少し悲しそうに笑う剣心の姿がぼやけて見えた。
薫は顔を両手で覆う。
近づいた剣心は困ったように薫の頭を撫でた。



「さあもう家に入ろう。夕餉の仕度を、しなくては」



しぶとく燻ぶっていた灰の山からぷかりと煙が立ち上り、空に向かって儚く消えた。















モドル。