蒼い月








身体が揺らされるたびに背中や髪がガサガサと畳を擦って、
その音だけがやけに薫の耳には響いていた。
顔の横に力なく投げ出された手を動かそうと何度目かの試みをしてみるが、
やはり手も腕もぴくりとも動いてはくれず、
豊かに波打つ自身の黒髪に半ば埋もれてしまっている。
「・・かおる・・・」
うわ言のように自分の名を呼びながら身体中を弄っているのは、
確かにこの世で一番愛しいと思っている剣心のはずで。
だから今自分の上にのしかかっている重みも、さほど苦にはなっていない。
なってはいないが・・・・

腰がかすかに持ち上げられたような感触に、帯が解かれているのだと知る。
帯を解くのももどかしいのか、それとも気が急くあまり手元がおぼつかないのか、
何時ものような落ち着きは、剣心の動きには見られない。
結局帯を解ききる前に、剣心の手は薫の着物の合わせ目に移動してしまった。

薫は自分の肌の上を紅い髪が辿っていくのを見ながら、ぼんやりと考えを巡らせてみる。
はたして『いま』はどちらなのか、と。
夢なのだろうか、それともうつつなのだろうか、と。

「・・・っ・・・・」
いつの間に裾をたくし上げていたのか知らないが、
両足が持ち上げられたのには、流石に反抗せずにはいられなかった。
そうは言っても批難の声はまともに音をなしてはいない。
大声を出したつもりなのに、実際はかすれた空気音が喉から漏れただけで。
それに気づいた剣心が、またもしてやったりと微笑んだから更に悔しい。
「いい加減、観念するでござるよ・・・」
まんまと薫の足を肩に担ぎ上げ、勝ち誇ったように剣心が言った。

「・・・っ・・・・!!」


ああだから・・・・これは夢なの? 現実なの?
そもそも始まりはどこにあったの?
私は確かに稽古のあとに居眠りをして・・・・

これも夢なら、
今上から満足そうに私を見下ろしている剣心の顔も、
畳に擦れてひりひりと痛む背中も、
身体に感じる信じられないくらいの圧迫感も、
全部目が覚めれば無かった事になるのかしら・・・

確かに私は稽古のあとに居眠りをして・・・

朦朧と薄れていく意識の中で、薫はもう一度、
今日の出来事へと記憶を巡らせた━━━















「あれ?今夜の月はやけに青いわねぇ・・・・」
自室から台所へと向かう途中、縁側からなんとはなしに空を見上げた薫は、
いつもとは少し違う月の様子に首を傾げた。
空には、ちょうどまんまるに満ちた月がぽっかりと浮かんでいる。
その色が妙に青い。
いや「蒼い」と言ったほうが的確だろうか。
「うーん・・・きれいだけど・・・ちょっと気味が悪いかしら」
肌に感じる風も心なしか生暖かい。
もう十月も半ばでだいぶ肌寒くなってきたから、風が暖かいことは嬉しいことだが。
しかし今肌に纏わりつくように吹いている風は、心地よいという表現からは程遠かった。
そんなことより、と、薫は止めていた足を再び台所へと向けた。
時刻はすでに戌の刻(午後八時ごろ)を過ぎている。いつもならばとっくに夕餉を食べ終えている時間だが、
どうやらつい稽古の後居眠りをしてしまったらしく、先ほど自室で目を覚ましたところなのだ。
「もう!剣心たら!起こしてくれればいいのに」
目を覚ました薫が暗くなった家の中の気配を探ると、かすかに台所で音がした。
きっと剣心だろうと思い、こうして台所へ向かっている。
「それにしても台所で何やってるのかしら?もしかしてまだ夕飯作ってるとか?」
薫が目を覚ました気配にはとっくに気づいているだろうに、薫がこうして廊下を歩いていても一向に顔を見せようとしない。


「・・・・?」
台所に近づくと、カチャカチャと何か食器を扱うような音が小さく聞こえてきた。
居間の明かりはついておらず、台所から漏れてくる明かりも薄ぼんやりとしている。
こんな時間にきちんとした明かりもつけず、台所で何をしているのだろうか。
廊下に淡く漏れ出ている台所の明かりが、妙に幻想的だ。薫はふと、自分はまだ寝ぼけているのだろうかと思った。
少々不思議に思いながらも、剣心の所在を確かめるために声をかける。
「・・・剣心・・・そこに居る?」
はっと息をのむ気配が伝わってきた。
「・・・・・・・ああ・・・ここに居るでござるよ、薫殿」
台所にひょこっと顔を出した薫に、剣心は心なしか驚いたように振り返った。
振り返った剣心が何かを後ろ手に隠したような気がする。
一瞬ちらっと見えた限りでは、小さな・・・小瓶のようなものだった。
「なあに?それ・・・」
「え?ああ・・・先日妙殿からいただいた塩でござるよ。
なんでも普通の塩とは作り方が違うとかで、滅多に手に入らないものらしい。試しに今日の夕餉に使ってみたのでござる」
「そうなの。じゃあ後で妙さんにお礼を言っておかなくちゃね。ってそれより剣心!なんで起こしてくれなかったのよ?」
「いや・・・あんまり気持ちよさそうに眠っていたものだから・・・。夕餉は薫殿が起きてからでもいいと思って。
 今日は弥彦もいないでござるから」
「え?!弥彦いないの?」
「ああ。なんでも今日は赤べこに団体客がたくさん入っているとかで、泊まりがけで手伝いをすると・・・」
弥彦がいない、という言葉を聞いた途端、薫の顔色が明らかに変わった。




不味い・・・・それはかなり不味いわよ・・・・
弥彦がいないってことは、剣心と二人っきりじゃない・・・
なんでこんなときに限って・・・・・




「拙者と二人になるのがそんなに嫌?」
急に間近に聞こえてきた声に、ひっ、っと悲鳴のような声を上げてしまう。
顔を上げるとすぐそこに剣心の顔があった。
「え?べ・・別に!?そんなこと全然ないけど!?」
あわてて身を引きながら出した声は、言葉とは裏腹に引きつってしまった。
剣心から離れようとする動作も、あからさま過ぎて我ながらしまったと思う。
そんな薫の様子を見て剣心はくすくすと笑っている。
「まあ良い・・・薫殿、そろそろ夕餉にしよう。いい加減腹もすいたでござろう?」
「え、ええ・・そうね、夕飯にしましょう!」
くるりと向きを換え、食事の準備を始めた剣心の背中に、小さく安堵のため息をつく。




実を言えば、ここのところ薫は剣心と二人きりになるのを避けていた。
正直、剣心が怖いのである。
弥彦がこの神谷道場を出て一週間もしないうちに、剣心と薫は契りを交わした。
しかし、夜を共にしたのはその一度きりである。
次の日から薫は剣心を避け始め、剣心は薫に触れられないまま今に至っている。
剣心に触れられるのが嫌なわけではない。むしろ愛しい人に近づけるのはとても嬉しい。
でもその嬉しさとは裏腹に感じてしまう怖さは、どうしようもないのである。
緋村剣心が男であることを。
自分自身が女であることを。
実感することが怖い。
今までまるで空気のように穏やかに、自分の近くに漂っていた優しい気配。
つかず、はなれず。
どこかつかみ所の無い剣心の態度にもどかしさを感じてはいたが、
その優しい空気に安心しきっていたことも事実。もしかしたら自分は、父親のそれと重ねていたのかもしれないと、
今になって薫は思う。
しかし当然剣心は、父親ではない。そんなことは分かっている。分かってしまった。
手を握れば口付けたくなるし、口付けをすればその先へ進みたくなる。
優しく温かい手は、一度薫を組み敷けば優しいままではいられない。
緋村剣心は男。そんな事はわかっている。頭では分かっているのに。
意外にも剣心は一度その気になればその後の切り替えが早いらしく、弥彦が出て行ってからというもの
薫にたいしての態度もあからさまになった。やたらと振れたがるし、近づきたがる。
しかし薫はその急激な変化に、対応しきれないでいた。自分を取り巻く環境が、ガラリと変わってしまったことに。
居たたまれなくなった薫はしかたなく、
長屋に移り住んだ弥彦に無理を言って、ここ数日は道場に戻って来てもらっていた。
だがそろそろ剣心を避けるのにも限界を感じている。
何より剣心が痺れを切らし始めているのである。
近づいては逃げる、近づいては逃げる。
薫に思うように触れられないことに剣心が苛立ちを感じていることが、手に取るようにわかるだけに、
今夜弥彦がいないということは、薫にとっては不都合なことこの上なかった。






空には、相変わらず青みを帯びた月が浮かんでいる。






夕飯を食べている最中も、薫は妙に落ち着けないでいた。
剣心の視線が、自分から離れないからである。
薫が箸を動かすたびに、口に食べ物を入れるたびに、その様子をじっと見詰めては、かすかな笑みをこぼす。
「・・・・・剣心、私の顔に何か付いてる?」
その空気に耐えられなくなった薫が、剣心に声をかけた。
「・・・・・・・・」
「剣心?」
「美味しい?」
「え?」
「その煮物、美味しいでござるか?」
「え、ええ。すごく美味しいけど・・・」
いつもならば、剣心は自分の料理の賛否を尋ねたりしないのに。
「そうか。それは良かった・・。まだあるから、たくさん食べるでござるよ」
満面の笑みでそう言いながら、剣心は味噌汁を啜っている。
「・・・・・?」
薫は自分の小皿に取り分けた煮物を見詰めながら、じわじわと頭に浮かんでくる違和感に首を傾げた。

・・・・そういえば・・・・剣心はまだ・・・この煮物に一度も箸をつけてない・・・・・

そう思った瞬間。
薫の視界がぐらりと揺れた。
「!?」
箸を取り落とし、畳の上に片腕をつく。
「な・・・に・・?急に・・・力が・・・」
身体全体の力が、急速に抜けていくのがわかる。
助けを求めるように剣心のほうへ顔を上げると、剣心は変わらぬ微笑を浮かべたまま薫をじっと見詰めていた。
「・・・・!!!・・剣心・・?・・・まさ・・・か・・・」
嫌な汗が、背中を伝っていく。
「身体・・・動かないでござるか?」
どんどん身体を畳に傾けていく薫を見て、剣心はとうとうくすくすと笑い出した。
音も無く立ち上がり、台所の中へと消えていく。
薫はなんとか身体を動かそうと試みるが、まるで力が入らない。
ついに畳に横たわる形になってしまう。
台所から戻って来た剣心にどうにか顔だけ向けると、剣心の手に握られているものに目が釘付けになった。
白い粉末が入った小瓶。さきほど剣心が塩だと言っていたしろものだ。
「そ・・れ・・!!」
「以前恵殿が置き忘れていったのでござるが・・・・・とっておいて良かった・・・」
するすると薫のすぐ側まで歩み寄ると、剣心は正座で腰を降ろした。
小瓶を楽しげに薫の目の前で揺らしている。

「・・・・っ一体・・・・何を・・入れたの・・・!」
もはや薫は顔も思うとおりに動かせない。
声を絞り出して必死に睨みつけるが、剣心は尚も微笑を崩さずにいる。
すでに薫を見詰める眼は尋常ではなかった。
「何を入れたかって?そんなの決まってるでござろう」
何故そんなことを聞くのかとでも言うように、剣心は不思議そうな顔をした。





「痺れ薬でござるよ」




「!!!!・・・なん、で・・!!」
小瓶を横に置いた剣心は、ようやく薫に触れられたことが嬉しくて仕方ないというように、うっとりと薫の頬を撫でている。
「薫殿がいけないのでござるよ・・・あんな風に拙者を避けるから・・・
 弥彦まで呼び戻したりして・・・薫殿に触れるにはこうするしかないでござろう?」
なんてことだ。剣心の苛立ちは、そこまで募っていたというのだろうか。
「・・・・・・っ・・・・」
薫はなんとか抗議をしようと口を開くが、舌が痺れて上手く音が出なかった。
「・・・・・・・?・・・・・ああ、もう声も出なくなった?痺れ薬でござるからな・・・
薫殿のかわいい鳴き声が聞けないのはちと惜しいが、まあ、致し方あるまい・・
・・・大丈夫、痺れるといっても感覚まで無くなるわけではないから・・」

一体何が大丈夫なのかと毒づきたかったが、もう本当に声を出すこともできない。
剣心の影が、段々と薫を覆い隠していく。その動作は酷く緩慢としていた。
その緩慢とした映像がよけいに、薫の心をざわつかせる。
薫はゆっくりと自分に覆いかぶさってくる剣心を見上げながら、諦めたように瞳を閉じた。





















はっと眼を開けると、薫は飛び起きて辺りを見回した。
自分の部屋・・・である。
思わず身体をあちこち動かしてみるが、どこも異常はない。
着物も・・・・着ている。
「・・・?・・・・・夢・・・・?」
まとまらない思考で必死に考えてみる。
確か・・・稽古が終わって・・・夕飯までまだ間があるなぁって思ってたら・・眠くなって・・・
「はぁ〜〜〜・・・・夢かぁ・・・・・」
どっと畳に倒れこみ、大きくため息を吐く。
「そうよね・・・・剣心があんなことするわけないものね・・・・」
冷静になって考えてみると、だんだん頬が熱くなってきた。
夢とはいえ、何という内容なのか。
よりにもよって、剣心に薬を盛られるなどと。
自分の深層意識を疑いたくなる。


襖を開けて部屋の外に出ると、ちょうどこちらへやって来る剣心と眼が合った。
どきりと一瞬心臓が鳴る。
「ああ、薫殿。起きたでござるか・・・そろそろ夕餉にしようと呼びに行くところだったのでござるよ」
にっこりと何時ものように人の良い笑顔を浮かべた剣心が、襷がけを外しながら歩いてくる。
「あ、ええ。つい居眠りしちゃったみたい。」
良かった・・いつもの剣心だ・・・
「ごめんね。今まで待っててくれたの?」
「薫殿があんまり気持ちよさそうに寝ていたものだから」
「ありがとう。さ!はやく夕飯にしましょう?おなかすいちゃった」
「・・・・そうでござるな」
ほっと胸を撫で下ろしつつ、剣心の横をすり抜けて、
薫はとたとたと早足で居間に向かって行ってしまった。








外した襷がけを剣心が引き抜くと、
シュッという音が、薫が去った後の廊下に静かに冷たく響いた。



「本当に、腹が空いたよ・・・・・・・・・・それに今日は、弥彦もいないし」
小さく囁くように言った剣心の言葉は、薫の耳には届かなかった。

歩き出すとその拍子に、剣心の懐から何かが転げ落ちた。
カツンとガラスがぶつかるような音が響く。
転げ落ちたのは。
小さな
小さな
小瓶。



「おっと、危ない危ない・・・・・これを割ったら、元も子もない・・・」





空には蒼い月が浮かんでいる。






モドル。



以前珠未さまへ押し付けたブツです・・・
こ、こんなものを他サイトさまに押し付けたのかと思うと・・・
我ながら自分が恐ろしい・・・・。

今回少し手を加えました、が、むしろヤバさが増したような気が・・・・

これ、『紅い月』ってのと対(つい)になってるんですが・・・(それも珠さんに押し付けた)
『紅い月』の方はあんまりにも恥ずかしくて・・・・(泣)
またかなり手を加えなきゃとても見る気になれんです・・・
どなたか・・・読みたいって方居ますかね・・・いや、居らんだろ。