紅い月









思えば静か過ぎるほど、静かな夜だった。
家の中にも外にも音は無く、全ての生き物が息を殺していた。
廊下にも部屋の中にも家中の隅々まで行き届いた暗闇が、ひっそりと沈んでいた夜。
昼間は明るい空間が、夜になれば黒く染まる。
ではその空間にあるものは一体何なのか。
闇と言う名前の黒い影が、いつのまにか自分を抱き締めにやってきていた。

抱いているつもりで、実は抱かれていたもの。
掴んでいるつもりで、実は掴まれていたもの。
食んでいるつもりで、実は食まれていた人。





唯一の拠り所となるはずの満月は、紅く滲んでいた。





















「薫殿、縁側で月見でもせぬか?」

そう言い出したのは剣心の方だった。
縁側で見事な満月を見上げたら、月見をする事を思い立ったのだ。
普段自分から酒を飲もうと言い出すことは滅多に無いが、今夜は何故か違った。
隣に薫を侍らせて酌をしてもらいたいと、思わなかったと言えば嘘になるだろうか。
だからと言って格別艶っぽいことを期待していたわけではない。
ただ単純に、恋人と並んで月の下で時間を過ごしたいと思っただけだ。

彼女はまだ幼い。

片手に徳利、片手に猪口を持って、居間で繕い物をしている薫に声をかけた。

顔を上げた薫は数回驚いたように目を瞬かせたが、「いいわね」とにっこり笑った。







「珍しいわね。剣心が自分から誘うなんて」

剣心の猪口に酌をしながら、薫はからかい気味に言う。
酌をするのに顔を俯けていたので剣心からは薫の表情が見えなかったが、
きっと笑っているのだろう。

「いや、今宵は見事な満月だったから・・・雲もないし」

注いで貰った酒を見ながら、剣心の顔はほんのりと赤みをおびた。
「酌をしてもらいたかった」という理由は告げずに、酒を一口飲んで、
隣で月を見上げる薫の横顔を、ちらりと盗み見てみる。
整った顔立ちが月光で照らされていた。
長い睫毛が横からだとよくわかる。
額から美しい線を描いて通った鼻筋、その下の形の良い唇。そこまできて剣心は視線を外した。

薫は美しい。そして若い。
彼女を形作るどれをとっても容赦なく溢れ出る若さは、時に剣心を憂鬱にさせた。

いくら童顔だとは言え、十以上も年上なのは変わらない。
世の中に年の離れた夫婦など腐るほどいるだろう。だがそんなことは問題ではなかった。
生きてきた時代。過ごしてきた環境。
心に持つ信念。やってきた行い。
自分と彼女のなんと違う事か。

互いの間にある隔たりを実感するたびに、いたたまれなくなる。
同じ速度で老いていくことが出来ない事に、歯ぎしりしたい思いだった。
薫の持つ若さに嫉妬しているといってもいいかもしれない。




━━━だから結局、苛んでいるのは拙者のほうなのだろう




自分で出した自嘲的な考えに、思わず苦笑してしまった。
こうやって自分を加害者にしたがるのは、自分の悪い癖だ。
薫にもそのことは再三窘められている。
それでも自分が様々なものを薫から奪っているのだという思いは、やはり拭いきれない。

「なあに? 一人で笑ったりして」
「いや、なんでもないで御座るよ」

ぷぅと頬を膨らませた薫が横目で軽く睨んでいる。
本当に何でもないからと剣心が取り繕っていると、
ふいに薫の顔から表情が消えた。



「今日の月は、少し紅いわね」



再び月を見上げた薫が呟いた。
つられて剣心も空を見上げれば、そこにはまんまるに満ちた月が浮かんでいる。

「言われてみれば・・・確かに紅いで御座るな」

心持ち赤みを帯びた月は、美しいと思うのと同時に、どこか不吉だった。
先程縁側から見上げた時は、確かに美しいという感情しか沸かなかったのに。
だからこそ月見をしようと思ったのだ。




「そうやって月に照らされていると、薫殿はますますきれいでござるな」

先程は心の中だけで思った事を、今度は口に出して告げた。
月が紅くとも青くとも、その下で見る薫の横顔は変わらず美しい。

「やあね、お世辞を言っても何も出ないわよ」

「いや、お世辞などでは御座らんよ。本当にそう思う。薫殿は若くてきれいだ。
 拙者はそこから奪う事しか出来ないで御座ろう・・・」




ぽろりと口を突いて出た一言に、言ってしまってから剣心はしまったと思った。
薫はこういう自分の言動を、酷く厭う。
これはもう緋村剣心という男の性分とも言えるが、
自嘲気味な言葉が薫の逆鱗にふれることがしばしばあった。
今日も言うつもりなど無かったのに。酒が効いたのだろうか、つい口に出してしまった。

恐る恐る薫の顔を伺うと、そこには変わらず月を見上げて微笑む横顔があった。

ほっと胸を撫で下ろす。もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。






「剣心は、やっぱり自分が奪ってばかりだと思うの?」

安堵していた剣心ははっと息を呑んだ。

「私は剣心から何ものをも得ていないと、そう思うの?」

「それは・・・」

「馬鹿にしないで頂戴」

弁解をしようとした剣心があっと言う間もなく、薫は剣心の胸倉を掴んで引き寄せた。
反動で剣心の手にしていた杯が落ちて、パリンと地面で割れる。



口付けでもするのかというほどの近さで、薫が壮絶な笑みを浮かべていた。



「そんなに自分ばかりが奪う事が気にかかるなら、私がその負い目を無くしてあげる」



薫は引き寄せた剣心の身体を、今度は勢いよく押し倒した。
冷たい床に思い切り打ち付けられた剣心が、小さく呻き声を漏らす。
閉じていた目を開くと、薫が身体の上に馬乗りになっていた。
全体重に加えて故意に力をかけているのか、
剣心の身体には信じられないくらいの圧力がかかっている。




「奪うものが、私にもあればいいのでしょう」

「なっ・・」

「私にも貴方から奪うものがあれば、気が済むのでしょう」



そう言って薫が剣心の首元に顔を埋めると、首筋にはじんわりとした熱さが広がった。
心臓が跳ね上がったのを感じていた剣心は、次第に首に痛みが増してきたことに焦りだす。
薫が歯をたてている。

「薫殿、何を・・・っ・・」

剣心が跳ね除けようとしても、薫は全く離れない。
もの凄い力だった。
どんどん鋭くなる痛みに顔を顰めていると、視界の端に映った月に気が付いた。

紅さが、先程より増している。






紅く滲んだ月は、剣心の目に酷く綺麗に見えた。




自分はあなどっていたかもしれない。







ブツリという皮膚を切り裂く音が、頭の中で響いた。






























苦しげに漏れた自分の呼吸音で、剣心は目を覚ました。
はっとして目を一気に見開いた後も身体をなかなか動かす事ができず、
息切れだけがやけに耳に響いている。

頭が混乱している。状況が掴めない。

此処はどこだ?
今は何時ぐらいなのだろう。
自分はどうなっている?

胸に置かれていた右腕を動かすと、ゴトリという音と共に冷たい床の感触が伝わった。
ゆっくりと身体を起こすと、そこは縁側だった。
太陽はほぼ西に沈み、独特の夕暮れの気配が辺りを支配している。

「・・・・・・・・夢・・・?」

暫し思考を巡らせてから、大きく息を吐き出した。
身体からどっと力が抜ける。
額に張り付いた前髪を掻き揚げると、自分がかなりの量の汗をかいているのに気づいた。



━━━それほど汗はかかないのに━━━



起き上がった今でも、心臓の音は相変わらずドクドクと鳴り響いている。

「全く、なんて夢だ・・・」

薫に押し倒された時の身体にかかった重みも、きらりと鈍く光った瞳も、
皮膚を裂くいやな音も、はっきりと感触として残っている。
こんな夢を見るなど、彼女に対しての冒涜もいいところだ。
まして夢だったことに、一瞬でも落胆してしまったなど。

「こんな所で寝こけてしまうとは・・・やれやれ、情けないことだ・・」

もう日が落ちている。
いつもならとっくに夕餉の準備に取り掛かっている頃合だ。
こんな所でのんびりしている場合ではないだろう。彼女がきっとお腹をすかせている。

いまだずっしりと重い身体をなんとか持ち上げて立ち上がった。
ふらりと足がふらつくのは、恐らくまだ半分身体が寝惚けているからだろう。
くらくらする頭を押さえながら歩き出した時、廊下の向こうから薫が歩いてくるのが見えた。

ドクリと大きく、心臓が跳ねる。

「剣心。そんなところに居たの」

薫の方から声をかけてくれたことで、剣心の僅かな緊張も消え失せた。

「ああ、どうやら眠ってしまったようで御座る。すぐに夕餉の支度をするから・・」

「あらいいのよ、ゆっくりで。
 でも珍しいわね、剣心がそんなに熟睡するなんて・・どこか具合でも悪いの・・?」

すぐ目の前までやってきた薫が、心配そうに尋ねた。

「いや、どこも悪くなど無いで御座るよ。ただ━・・・」

ただちょっと、夢見が悪いだけで、と言おうとして、何故かその先が口から出なかった。
おかしな、夢だった。
こんな夢の内容を、わざわざ教えることもあるまい。
不必要に心配させることも、不愉快にさせることもないだろう。

「・・・ただ━・・何?」

「いや、昨夜少し寝不足だったから、そのせいで御座ろう、きっと」

差し障りの無い理由で、剣心は言葉を濁した。
薫は首を傾げたが、あへて追求するつもりも無いようだった。

「では、夕餉の準備をしてくるで御座るよ」

止まっていた足を動かして、薫の横をすり抜ける。
二、三歩進んだ所で、薫が剣心を呼び止めた。







「随分と、汗をかいたのね」

どうやら傍目にもわかるくらい、自分は汗だくになっているらしい。
そう言えば先程から、首筋を下っていく液体の感触が途切れる事が無い。
滴るくらいの汗をかくなど、本当に久しぶりの事だ。

「それに足もふらついているみたい」

これはまだ完全に覚醒していないからだろう。これもまた常には無い事であるが。
剣心が足元を見下ろすと、ポタリと滴が、床に落ちた。

「ああ、本当に凄い汗で御座るな・・・もう気温もだいぶ低━━・・・」

汗を拭おうと首筋に当てた手の感触に、剣心は絶句した。
汗であるはずの首筋をつたう液体は、何故かヌルリとする。

「・・・━━━・・・・」

ゆっくりと首筋に当てた左手に目をやれば、暗闇と手の平の境界がわからないほど、
ドス黒いものがベッタリと付着していた。








首筋に心臓があるかのようにドクドクと脈打ちながら、止め処なく液体が流れ出していく。
呆然と薫へと視線を向けても、既に暗い闇の中では表情はよく見えなかった。

「どうしたの? 剣心」

やけに楽しげな声音のみが、耳に届く。
首から流れる血と一緒に、身体の力も抜けていった。





自分の身体が前かがみにゆっくりと傾いていくのを意識しながら、
剣心は薫の声を聞いた。




















「ねぇ剣心。今日の月は紅いわねぇ・・・」





視界の端に映った月は、確かに紅かった。
まるで血を吸って染まったかのように。

















そこまでだった。意識は途切れた。








オワリ。




ひ〜! すんません×100
以前書いた「紅い月」という妄想文を
手直ししたんですが・・・
これはもう完璧に別物です。
最初のハナシをご存知の方はわかるかと思いますが・・・
「そういう」描写は全て消しました(笑)
読みたいと言って下さったMさんにSさん、
ヘタレな内容で本当にすみません・・(泣)

薫ちゃんがやたら力強いっす・・。





モドル。